つよく、ふかく、心に残る色。

深碧(しんぺき)色は、
力強く深い緑色。

新緑が眩しい季節になると、
自然の中へと
出かけたくなる。

それは、幼い頃、
近所の子どもたちそろって
川遊びした楽しい記憶があるからだろう。

確か小学校に入ったばかりの夏、
一番年上のお兄さんを先頭にして
川を上流にむかって探検をした。
草いきれの中、
緑を、かきわけ、かきわけしながら、
でこぼこの身長の子供たちは、
虫かごやバケツをもって
ドキドキしながら歩いていった。

前をゆく
大きいお兄さんたちは、
とても頼もしくて、
後ろについていてくれるお姉さんは
とても優しくて、
臆病な私も、
前へ前へと進んでいった。

さて、
その先に何があったのか──。
それは、
残念なことに覚えていない。
ただ、お兄さんたちの
光を浴びたシルエットだけが
記憶に残っている。

怖かったけれど、
たくさん笑って、
たくさん歩いた。
太陽と川面の光が反射した
キラキラ輝く記憶だ。

あまりに楽しくて、
「あしたも、また探検しよう」
と、約束し、
翌日、同じ探検をしても
もう楽しくなかったのが
不思議だった。

「またあした」
「また遊ぼう」
そう言って、ずっと続くことを
無邪気に信じていた。
けれど、
時がたつと、みんな成長し、
人も環境も様子がかわっていった。

「またあした」の「あした」は
いつ終わったのだろう。

懐かしいあの通りに
あの時遊んだ人たちは、もういない。

あれから何度も新緑の季節を
迎えては見送って、
記憶は遠くなるのに、
眩しい緑色は、あの日の
川の音や、笑い声を
いきいきと思い出させてくれる。

「みどり」には、
草や木の色をさす「緑・翠」と、
青の美しい石をさす「碧」の
文字がある。

人生のなかの新緑の季節は、
とても短くて、
あっという間に葉は色づき、
やがて枯れてゆく。

それは、ごく自然なこと。
寂しくても、嫌だとあがいても、
誰もみな同じように
時が流れて、同じように枯れてゆく。

大切なのは、過ぎてゆく時間の中で
朽ちずに残る青く美しい石を
小さくてもいいから、
残していくことではないだろうか。
自分のなかに、
できれば、誰かの心のなかに。

今年も新緑の写真をたくさん撮った。
パソコンにずらりと並べると
いくつもの青く美しい石に見える。

誰に借りたものでもなく、
私がそこにいて、誰かに伝えようとした
かけがえのない石たち。
まだまだ美しい石とはいえないけれど、
技術を磨き、想いをのせて、
力強く深い緑色にして
残していこうと思う。