ハレの日を、鮮やかに彩る色。

つつじ色は、鮮やかな赤紫色。
白も黄色もあるけれど、
つつじの花の色といえば、
この赤紫色とされている。

つつじ

つつじは「躑躅」と書く。
「てきちょく」と読み、
「躑躅(てきちょく)」には、
「躊躇(ちゅうちょ)=ためらう」の意味がある。

それは、見過ごして去るのがためらわれるような、
足を引き止めるほどの美しさ、ということ。
まさにつつじの花の美しさ…
だから、この漢字を「つつじ」と
読ませたという説がある。

山つつじ

もうひとつ、
「躑躅(てきちょく)」とは「足踏み」のことで、
羊がこの花を食べたあと、
躑躅(足踏み)…おそらく、苦しみから足をばたつかせて
死んだことから名付けられたとされ、
本来のつつじの漢名は「羊躑躅」といわれている。

羊

「行く方も躑躅(つつじ)なり。来し方も躑躅(つつじ)なり」とは
泉鏡花の「龍潭譚(りゅうたんだん)」の一節。

姉の教えに背いた主人公の男児が、
つつじの丘で道に迷い、毒虫にさされて形相まで変わり、
不思議な体験をする…という妖しげな物語。

芝桜の丘

目を閉じてもその色がまぶたの裏に残るような
色鮮やかなつつじ色の花に包まれていると、
この物語のように、
異次元に連れ去られてもおかしくはない…
そんな気にもなる。

ピンクの花

幼い頃のよそゆきの服は、
つつじ色のパンタロンスーツだった。
これを着るときは、少し緊張感もありながら
ドキドキとうれしい心持ちになった。

よそゆきの服を着る、ということは、
幼い子にも、特別な日である「ハレ」の日、
日常である「ケ」の日の違いを
言葉以上におしえてくれるものだった。

つくし

特別な日だから、何かが起こりそうな、
もしかしたら、どこかへ連れ去られような心持ちになる。
よそゆきの服の色として
つつじ色はふさわしかったのかもしれない。

つつじ

今となっては、
つつじ色を身にまとうことは、
色の強さに気圧されて、できそうにない。
ただ、さし色として、よそゆきの心を表現すべく
つけてみたいとは思う。
誰も躑躅(てきちょく)…立ち止まることのないほどの
さりげなさで。

雑貨

大好きだった、よそゆきの服は
その後どうなったのだろう。
記憶のなかで、今も鮮明に輝きを放つ、
ハレの服。
それを着たときの誇らしい気持ちは、
服が消えた今も、
胸の内の想い出の箱の中にある。

はなびら

気の晴れない日には、
その記憶のはぎれを取り出して、
ぱっと心を明るくして、出かけよう。
街には今、あちこちに、
つつじの花が、目に眩しいほどに咲いていて、
幼い日の私が跳ねまわるように見える。
ハレの日の記憶は、ずっと私を守り、
元気づけて、応援してくれるものだ。

ひとときの美しさを魅せる色。

今年も桜が満開に咲き誇り、
見上げる空に、
美しい花模様を見せてくれた。

しだれ桜

み空色(みそらいろ)は、
明るく澄んだ薄い青紫色。
桜を、花を、一番美しく見せてくれる
背景の色だと思う。

映り込み桜

み空は、漢字で「御空」と書く。
この「み」「御」は、尊いものなどを
美しく呼ぶためにつけるもの。
ほかにも「み雪」「み山」などと言う。

春の美しさの象徴ともいえる桜。
ここは是非、「み桜」と呼びたいけれど、
残念ながら、まだその呼び名はないようだ。

陽射し桜

また、「水温む」は春の季語。
四季折々の景色を映し出す水の色は美しいのだから、
きっとあるのではないかと探してみたけれど、
「み」をつけると「み水」。
「みみずいろ」だと、違う色になってしまう気がする。

三浦半島の海

そんな「み空色」。
きっと昔の人も「み」をつけることで、
空に限りない憧れと敬意をもって
こう呼んでいたのだと思う。

空

また、ひらがなの「み」がつくだけで
愛らしい少女のような、無垢で澄明な
春の清々しい空の色を思うことができる。
梅や桃、桜の背景にある空の色は
のどかで、あたたかく、優美なことこの上ない。

愛宕神社

その景色を、ずっと楽しみたくて、
たくさんの人たちが写真を撮るのだろう。
私も、ふわふわと風に散らされてゆく
桜のはなびらほどたくさん撮りながら、
それでも名残惜しくて、
去年は、雨の日にビニール傘にのったはなびらを
そのまま閉じて、真空パックにしてしまった。

はなびら

六月の雨の日に、傘を拡げると
真空パックにしたはなびらがあった。
四月のままの桜色が残っていて、
嬉しかった。

東京タワーと桜

けれど、それは、ひとときの喜び。
はなびらは、「そんな約束ではなかったね」と、
魔法がとけたように、
どんどん枯れた色に変色していった。

桜のはなびらは、散るべきときに、
その色のまま散っていくのが美しいのに、
悲しく枯れた色になり、
その濁りを傘にのこしてゆくはなびらは、
桜との約束をやぶった罰のように思われた。

一升瓶

毎年、春のあたたかさがやって来ると、
何に教えられなくても、素直に、見事に
花開く桜。
今年は雨にふられなくても、時期がくると
さっと散っていった。

映り込み桜

どれだけ写真を撮っても、
とどめたいと願っても、
時間は流れて、花は終わりの時がくる。
全て、決められていること。
自然の約束。

はなびら

観る者は、桜の姿を、色を、
その木の下で笑っている人たちを、
すべて季節の中のひとつの景色として
目に焼き付けて
今年の春を見送るのだ。
それが私たちの約束。

船とかもめ

はじまったら、終わる。
そのことを胸にとめて、
これから次々と咲く花たちを、
刻一刻と姿を変えてゆく春を、
心から愉しもう。

桜と空

春の「み空」は、
名残惜しく景色を眺める私を
きっと微笑んで見ていてくれるだろう。

思い出を映す色。

練色(ねりいろ)は、
ごく淡い黄味のかかった白。

三和土

生糸を練り、にかわ質を落とすと、
光沢とやわらかさの出る絹糸になる。
それが漂白前の練り糸の色、練色だ。

織物業の実家には
いつも生糸があり、
粗末に扱うと叱られた。
生糸に育てられた、という想いは
今も強くあり、練色は特別な色だ。

糸

そんな糸に囲まれた実家を出て、
自分だけの巣を得たのは十八のとき。
四畳半ひと間、共同トイレ、共同台所の下宿。
同時期に入居したTちゃんとは
初めて会ったときから気が合い、
すぐに互いの部屋を行き来するようになった。

交通会館

海外生活の長かった彼女は、
これまでつきあってきた友人とは
異なる空気をまとっていて、
歯に衣着せぬ言葉で意見されることも
多かった。
部屋に鍵をかけていても
窓から入って来て、冷蔵庫のなかの
もので勝手に料理を始めたり。

枝垂れ梅

一人が好きな私のペースは乱された。
怒る私に、なんで怒ってるのかわからないような彼女。
もう絶縁かも? という大喧嘩もしたこともある。
そんなふうに人にぶつかったことのなかった私は
何か大きく自分が変わってしまうようで
「これでいいのかな? 」と不安になるほどだった。

梅

けれど、私の雑で荒っぽい言葉づかいを
「そういう言葉は使わないほうがいい」と
率直にアドバイスしてくれたのは彼女であり、
料理や服の買い方も「それではダメ!」と
姉の如くおしえてくれた。
その時は、納得できずにふくれたりしたけれど、
今思うと、ありがたかったな、と思う。

梅の見える窓

豪快に食べて、よく寝て、
言いたいことは言わずにいられなくて、
ちょっとトラブルメーカーで
困ったことも少なくはなかったけれど、
私が間違った方向にいこうとするときは、
本気で怒って、泣いていた。
他人が自分のために泣いて怒るのを
見たのは彼女が初めてだった。

そして、どんなに怒っても、
最終的に私が決めたことには、
怒ったことを忘れたように
祝福し、応援してくれていた。

羊

喧嘩をしてもわかりあえる
という安心感から、
私たちは、とにかくよく話した。
明日のことから、ずーっと先の、
見えない将来についても。

未来は、わからない分だけ
キラキラと輝いていた。

馬酔木

どうしようもなく悩み、落ち込んだときは、
下宿の非常階段に二人で
座り込んで、外が暗くなるまで
いつまでもおしゃべりしていた。
日が暮れて、干した布団に
背の高いTちゃんと私の
デコボコのふたつの影法師が
ぼんやり映って、夜の中にとけていった。

練色は、あの日の布団を思い出させる。

東京国際フォーラム

その布団を心のスクリーンにして、
若かった日の大笑いと、大泣きを
ときどき映し出す。
どんな時もくすっと笑えて元気になれる。

私がTちゃんに出会えたように、
人はみんな、出会うべきときに
出会うべき人に会えるのではないだろうか。

気がつくか、気がつかないかだけのことで、
白い世界に彩りが加わるように
ひとつの出会いが人生の扉を、
パーン! と
あけてくれる。

もうすぐ新年度。
色とりどりの新しい世界が、また、はじまる。

花笑う、春の色。

季節の変化を、目に肌に、
感じられる頃になった。
「あたたかくなりましたね」
「そろそろ咲きますね」
という会話も嬉しい。

枝垂れ梅

七十二候(しちじゅうにこう)という
季節の表す言葉がある。

「立春」や「春分」などといった
季節を分けて表すのが二十四節気。
それをさらに約五日ずつわけた期間を
表す言葉だ。

梅

三月十日から十四日ごろは
七十二候で
「桃始めて笑く(ももはじめてさく)」
と表す。
花が咲くことを、昔の人は「笑う」と
言ったのだという。
桃の花が咲き出して、
その花を眺める人たちが
昔も今も笑っているのを
想像できて楽しい。

梅の蕾

似桃色(にせももいろ)は、
鮮やかで明るい桃色。
高価な紅花に代わり、
代用の植物で染めた
桃色に似せた色。

この時期は、
梅、桃、桜…と
似た色の花々が次々と
まさに笑うように咲き、
心を春色に染めてくれる。

梅

小学生のとき、
なかよしのグループで
花見に行った。
約束していた日は
例年よりも肌寒く、桜もつぼみ。
それでも、朝からお弁当をもって集まり、
お花見ならぬ、つぼみ見を楽しんでいた。

公園内には、同じように、
予想外に開花しなかった桜を見て、
楽しむ大人たちがいた。

花見提灯

お弁当を食べ終わり、
かくれんぼをしている時に、
遠方から来られたらしい見知らぬご婦人に
声かけられた。

「お花は咲いてないけど、
遠くから見ると、つぼみの色が
にじむように見えて
空気がぼんやりと桜色でしょう? 」
と。

やさしい口調に驚いて、
ぼんやりと桜を見上げると
たしかに、ふんわりと桜に似た桃色の世界が
広がっているような気がした。

梅

遠くから見ること。
空気の色を感じること。

知らない世界が、
それまで当たり前に見ている世界のなかにあった。

ふだん目にするものも
遠くからぼんやり眺めてみれば
またちがう何かが見えてくるのかもしれない。

梅

そんな記憶とともに思い出したのは、
当時、お気に入りだった白いブラウスの
えりに施された花の刺繍だ。
梅でも桃でも桜でもなかったけれど、
春らしい、淡くてかわいい小さな花だった。

梅

何を思い出しても、
記憶の中の焦点を
近くにしても、
遠くにしても、
春は愛らしく美しい。
そして、心の芯を
寒さを越えたやさしさで、
ゆっくりと、あたためてくれる。

春風のように包み込む色。

寒さのなかにも、
ほっ…と、ぬくもりある陽射しが
感じられるようになった。

花葉色(はなばいろ)は、
陽射しを浴びて咲く花色のような、
赤みのある黄色。
春に用いられてきた色だ。

菜の花

桃の節句が近づくと、
毎年、思い出す雛人形がある。
小学校の工作で作った
たまごの殼の人形。

卵

生卵の中身をストローで飲む!?
という驚きの経験を経て
作った雛人形は、白くてまるくて愛らしかった。

気に入って、学習机に飾っていたら、
いつまでも飾っておくとお嫁にいけなくなる…
そう言われて、あわててしまったのも
微笑ましい思い出だ。

オムライス

中学生のとき、
叔母たちと京都の清水寺へ行き、
道中の土産屋で和紙の雛人形を見つけた。
ひと目見て、心奪われた。

見れば見る程、欲しくなったが
持ち合わせの小遣いでは買えない値段だった。
「欲しい」と言えずに、
その場を離れられず、ずっと見ていた。

そんな私の懐具合も性格も
よくわかっていてくれた叔母が、
自分も買うから、と、ついでのようにして
買ってくれたのだった。

嬉しかった。
何度も何度もてのひらにのせて、
飽きることなく眺めていた。

雛人形

あの時の嬉しさは
いきいきと胸に残っていて、
思い出も人形も色褪せていない。
なので、
今も大切に毎年飾っている。

ガラスの鳥

思えば、子どもの頃、
何か欲しいとねだったり、
駄々をこねた記憶がない。

自分の意思を強く訴えたり、
誰かに何かを主張することを
苦手としていたのだ。

それはたぶん、
消極的なわがままだったかと思う。
言わないけれど、思っていることを
気づいて、察して!
ずっと心の中で、そう訴えていた気がする。

甘え下手といえるのかもしれない。
そして、自分が下手な分だけ、
他人に甘えさせてあげることも
下手だったのだと思う。

もう少し素直にいられたら、
もっと丁寧に人の気持ちに寄り添えていたら…。
人生はもっとふくよかなものに
なっていたのかもしれない。

この先、甘え上手になっていくのだろうか。

木香薔薇

健やかに育ちますように、
お嫁にいけますようにと、
雛人形を飾ってもらった少女の頃は
年々遠くなっていく。

それでも、これからも雛人形を飾る。
祈られ、与えられた、さまざまなことが
甘えることのできた証だと、わかっているから。

その記憶が、やがて誰かを
甘えさせてあげる力になると思うから。

レモン

表情のない、この雛人形も、
そこに飾るだけで、心和む。

特別に何かできなくても、
ただそこにいるだけで、
ふんわりとあたたかい花葉色の風のように
誰かをやさしく包み込むことができるのだ…
雛人形は黙ってそれを教えてくれている。

一陽来復を願う色。

冬枯れ草のような
くすんだ淡い黄色、
枯色(かれいろ)。

秋の名残りの風情漂う色として
古くから冬の衣裳の色として愛されてきた。

江戸時代には、
「花見」や「紅葉狩り」のように
冬枯れの景色を「枯れ野見」として
その色彩を楽しんだのだという。

今年の冬は、関東にも雪が降った。
白く染まる街の景色の中、
ぽつんぽつんと小さく光る、
家々の窓の灯りを見ていると
節分の日の夜を思い出した。

「鬼は~外!」と言いながら、
雪の上にぱーっとまかれた豆に見えたのだ。

子どもの頃は、
大雪で停電になることもあった。
そんな時には、
光はぬくもりであり、目印であり、
笑顔の源でもあった。

長じて中学生になると、
塾の日は懐中電灯を持たされた。
雪の夜の帰り道、
自分の存在を光で示して、
事故に遭わぬようにと。

吹雪く時はもちろん、
そうでない時も、
恥ずかしがることなく、
懐中電灯を点けて帰った。

車に、人に、用心して雪道を歩く。
狭い道が多く、すれ違う車が怖くて
家の前まで来ると、
ほっとしたものだった。

少し帰りが遅れると、
父か母、どちらかが、
いつも家の外に出て、
心配そうに立っていてくれた。

その姿を照らすと、
心配そうに怒っていたり、
安心した笑顔を見せてくれたり。
時間によって、状況によって、
「おかえり」の言葉が
固かったり、やわらかかったり…。
予想できない両親の気持ちに、
いつも少し緊張した。

今ならわかる。
子どもが帰ってきた
電灯が少しずつ大きくなるときの
父の、母の、嬉しさを。
待つ時間の心配を、苛立ちを、
安堵感を。

暗い中で、光は冴えて、
寒い中でこそ、ぬくもりが、
身に、心にしみる。

夜道を灯りで照らしながら、
寒さに身を縮めながら、
家へと急ぐとき。
家について、ほっとするとき。

塾で教わること以上に大切な、
愛情について
学んでいたような気がする。

枯色は、もの枯れて
春を待つ色。
節分の豆を
てのひらで遊ばせていると、
春の花を咲かせる種にも見える。

冬が去り春を来ることを
「一陽来復(いちようらいふく)」という。
節分の豆をまき、
立春を迎えたら、
ゆっくりと確実に春が近づいてくる。

その足音に耳を澄ませながら、
二度と戻らない今年の冬の日々も
いつかあたたかい思い出になるよう、
大切に過ごそうと思う。

ヒミツが噴き出す思い出色。

くすんだ淡い青緑、
緑青色(ろくしょういろ)。

箸置き

飛鳥時代、仏教とともに、
中国から伝来したという
緑系の代表的な伝統色だ。

古くから日本画の顔料として、
また、神社仏閣などの建築物や彫刻の
彩色にも用いられてきた。

浅草寺

先日、とある街の文化館で
昭和の懐かしい品々の展示を見た。
何より目を引いたのは、
ガリ版(謄写版)の一式だった。

ガリ版

小学校の頃の文集は、
全てこの印刷方法で作っていた。
道具には、緑青の色が見られて、
あぁ、これだ!
と、嬉しくなった。

ソノシート

文集作りが好きだったという
記憶はないのだけれど、
その作業が終わらず、放課後遅くまで
残っていた記憶がある。

真っ暗な校舎。
先生方の雰囲気も、どこかリラックスして、
昼間よりも親しみをこめて、
話しかけてくれた気がする。
ある先生が引き出しから出して
「内緒よ」とくれたのも、
緑青と黒色の飴で、ハッカの味がした。

木馬

暗くなった校舎は少し怖くて、
いっしょに作業する友達とは、
身体も心の距離も昼間より近くなり、
作業しながら、
たくさん内緒の話をした。

いくつもの内緒が、
ひっそりとふえる時間。

有刺鉄線

それは、誰にも言わないままに、
記憶の器に大切にしまわれて
ふたをされて、
今はもう、開けることはできない。
誰かに訊いたり、思い出すこともできない。

井戸

けれど、その記憶の器から、
ふきこぼれるような思い出が、
美しい顔料となって、
胸の中を嬉しく楽しく包んでくれる。

石像

そんなふうに、誰もが、
折々に取り出したり、
もう開けたくないとそのままにしたり、
あるいは存在すら忘れているような、
さまざまな記憶の器を
持っているのではないだろうか。

表参道

銅製品の青緑のサビをさすときに
「緑青(ろくしょう)をふく」
と言われる。
そのサビもまた、顔料になるのだという。

苔

どんなふうに置かれていても、
記憶は、心の一部となって、
時おり噴き出して
人の想いに、表情に、表れるのだと思う。

椿山荘

「サビ」は時間がつくるもの。
自分の中のサビが深く、味わいのある顔料となって、
見る人、出会う人に、
やさしい一滴の色を贈れるようになりたい。

勝ちたい想いにそえる色。

勝色(かちいろ)。
日本に古くからある、
深くて濃い藍色だ。

青森

名の由来は、染め物から。
藍を濃くしみ込ませるための、
布を叩く作業を「搗つ(かつ)」と言った。

鎌倉時代には、
この「搗つ(かつ)」が「勝つ」に
結びつくと、武士に好まれ、
武具などに多く用いられたのが
「勝色」の名の由来とされている。

小田原城

いざ勝負! という時に「勝ち」に
つながる何かを持ちたくなるのは、
昔も今も変わらないのかもしれない。

受験シーズンに
「勝ち」にちなんだお菓子を
食べたり、贈ったりするのも、
そういうことなのだろう。

ジェットコースター

私の学生時代にも、
そんなお菓子があったのだろうか。
あれば買っていたのだろうが、
食べた記憶がない。
もう四半世紀よりも、もっと昔のことになる。

受験で大阪に向かう日、大雪だった。

水たまり

駅まで遠いので、
前日に頼んでおいた
タクシーの運転手さんが、迎えの時刻に、
「車が出せない」と走ってやってきた。
雪に足をとられ、とられ走る、
運転手のおじさんの服の色は、濃い藍色。
それは、やや敗色がかった勝色だった。

もう間に合わない。
ダメなのか…と心曇らせたところ、
父が、雪の中から車を出して、送ってくれた。

雪景色

駅までの不安な道のり。
黙りこくった私に
「あかんと思ったら、なんでもあかん。
できる思ったら、なんでもできる」
父はそう言って笑った。

夜明け

間に合わないと思った列車には、
ギリギリながら間に合い、
ほら、大丈夫だったろう! と、
車から降りて、笑って見送ってくれた。

しかし、父もあわてていたのだろう。
陽気に手をふってくれたその足もとは、
雪に埋まってしまうサンダルで、
羽織ったカーディガンも
薄手のものだった。

由良川

あの時の、タクシーに乗れない…
もうダメだ、という気持ちと。
そこから、よし行くぞと決めて、
父の笑顔にもらった安心感と。

何かに負けそうな時は、
その二つの気持ちを思い出す。

ダメになりそうな時も
敗色を思うのではなく、
勝つと信じる。
勝色を想う。

明日館

武士のような勇ましさはないけれど、
あきらめない気持ち。
こつこつと叩かれてしみこんだ
勝色をにじませるしぶとさを持って。

この時期、身を縮ませて
テキストを抱えている受験生を
街で見かけると
皆に良い春が来ますように、と願う。

ジェットコースター

寒いけれど、澄んだ青の空。
辛い時も、耐えて、こらえていけば、
心に描く青がうんと深くなる。
その色こそが、
勝色だよ、と、教えてあげたいと思うのだ。

ふっくら丸い夕暮れの色。

寒さに背中も丸くなる冬。
街で見かける雀たちも、
羽毛に空気を取り込んで
「ふくら雀」になって
寒さをしのいでいる。

ふくら雀

ふっくら丸いその色は、
赤みがかった茶色、
「雀茶(すずめちゃ)色」だ。

東京駅

冬のこの時期は、
空気も澄んで、夕暮れ空が
とても美しい。
その夕暮れは、
雀色時(すずめいろどき)
とも言うのだとか。

日本家屋

はて、雀の色をしていただろうか…。
とも思うけれど、
雀の色は、誰もが知っているのに
いざ言葉で表そうと思うと、
おぼろげで、どんな色かと
表現できない…。
そんな曖昧で、
ぼんやりしたところが
夕暮れの空のイメージに重なることから
その名で呼ぶようになったのだと言う。

丸の内

確かに夕焼けの色は、
表現しようとすると、
どんどん色を変えてゆき、
言葉が色に追いつかない。

そして、
夜の闇に吸い込まれる直前は、
雀の色のような
ほの赤く暗い茶色の時がある。

丸の内

言葉にできないものを、
ほら、できないでしょう?
というものに表現してみせた
昔の人の心の使い方を
すばらしいと思う。

バイオリン

今年も、
ニューイヤーコンサートに出かけた。
新年らしく、ワルツにポルカ。
心躍るひとときだった。

とりわけ今回心惹かれたのは
バイオリンの表情豊かな音色。
あの小さな楽器から放たれる音が、
軽やかに、時に重厚に
肩にとまったり、
全身を包み込んだり。

銀座マリオン

その様子は、
木の枝にとまる雀たちのように思われた。
仲間と歌い、笑い、おしゃべりし、
ぱーっと飛び立って行ったり、
風にのって、ふわふわ飛んでいたかと思うと、
静寂の中、じっとこちらを見つめているような。

雀

これもまた、
言葉にできない感動で、
曖昧な雀色に
心を染められたような時間だった。

何に出会ったとしても、
見ようとしなければ、見えない。
聴こうとしなければ、聴こえない。

神田川

曖昧でも、表現できなくてもいい。
まずは感じてみよう。
そこから、発見や
喜びが生まれる、そんな気がする。

昔の人が「雀色の時」という名を
夕暮れに当てて、
しみじみとそうだな、と思ったように。

根津美術館

春は遠いけど、確実に進んでいて、
新しい気づきや喜びは、
土の中で
芽吹く時を待っている。

よりよき始まりを彩る色。

毎年、新年を迎えると、
その年の恵方にある神社へ参拝している。
今年は晴天の日に参拝できた。

穴神社

空の青に映えるのは、
丹塗(にぬ)りの鳥居の色。
丹色(にいろ)だ。

神社

もともと赤い色は
「魔除け、厄除け、祈願」
の色とされていた。
この丹色で彩ることで、
魔除け、神性を表すことから、
鳥居の色にも用いられたという。

神社

年の初めの月には、
この丹色の正月飾りを
あちこちで見かける。
それを見ると、
新しい年の空気を感じ、
神聖で、改まった心持ちになる。

正月飾り

今年の初詣には、
年末に買った新しいカメラを
持って出かけた。
慌しい暮れに、
大急ぎで家事をこなし、
嬉々としてカメラ操作を確認したのだった。
おかげで、少し取り扱いが理解でき、
実質の初撮りとなった。

南天

過去にも一月に神社に
撮りに行ったことがあった。
それは、二年前のこと。
扱える自信がなくて、
買うことはないと思っていた
一眼レフカメラを
譲ってもらうことになり、
京都の伏見稲荷大社へ
初めての撮影に行ったのだ。

伏見稲荷

取り扱い説明書に
ささっと目を通してはいたものの、
実際、撮るとなると、
何が何やら大混乱!
戸惑いながら一眼レフカメラの難しさと
格闘していたのを思い出す。

伏見稲荷

これからこのカメラを使いこなし、
うまく撮れるように
なるのだろうか。
撮れたらいいなぁ。
そんな気持ちを抱いた記憶は、
伏見稲荷の鮮やかな丹色に染められた。

伏見稲荷

今年、初詣の写真を撮りながら、
どこか改まる思いになったのは、
その時の記憶が色を通して
蘇ってきたからかもしれない。

あの日格闘した一眼レフカメラは
私の無知という荒っぽさに耐えて、
たくさんのことを教えてくれ、
そして、次にバトンを渡すように
動かなくなった。

紅葉

最後に撮った写真は、
クリスマスの華やかな赤い色。

その赤色とは少し趣の異なる
黄色みを帯びた赤い色「丹色」から
新しいカメラとの生活が
いよいよ始まった。

「丹」は赤土の古語でもあり、
さらに色とは少し離れて、
「まごころ」の意味も持つ。
「丹精」「丹心」の「丹」だ。

椿

新しい年、新しいカメラで
変わりなく、まごころもって
撮っていこう。

新しくなるのは、よりよくなるため。
今年も、よりよい年にしたい。