そっと隠して、抱く色。

懐かしい人が、
いつも、自分のことを大切に思って、
見守っていてくれている…。

心配性で臆病な私は、その気配に、
何度なく深い安心感を与えられてきた。

裏葉色(うらはいろ)は、渋くくすんだ薄い緑色。
葉の表側のように、濃い緑色ではないけれど、
控えめで優しい、裏側の色として、
平安時代から愛されてきた色だ。

かねてから闘病中であった、
親しい方が亡くなった。
六十代後半だった。
いつも穏やかで優しく、
誠実なお人柄も尊敬していた。

葬儀場には、
思い出の写真や愛用品が置かれていた。
十年ほど前の、キャンプ場での写真。
奥様と、三人の子供たちに囲まれて、
渓流釣りをし、釣果を手にして、
微笑まれている。

また会えると思っていた笑顔、
その健やかなシーンを、
思いがけない形で見ることになり、
胸に痛みが走った。

いつも明るいご家族の
悲しみにくれるご様子にも、
涙が止まらなかった。

告別式が終わり、
ロビーに移動するときに、
「ナナフシモドキだ!」
と、声が聞こえた。

故人のご家族が、
斎場の大きな窓に指をあてて
「キャンプに行ったとき、パパが教えてくれたね」
「細くて、背が高くて、パパに似てる」
「パパなのかも」
そんな会話が交わされていた。

あたりにいた私たちもいっしょに
ひととき笑顔になって、
ナナフシモドキを見つめていた。

足や頭をユーモラスに動かして、
本当に挨拶でもされているようで、
笑いながら、涙がにじんだ。

大切な人を亡くしたとき、
悲しみの底に突き落とされる。
どうしていいのか、わからなくなる。

それでも、大切な人が遺してくれた言葉や、
笑顔が、沈む心に灯りを点し、慰めを与えてくれる。

「だいじょうぶ、何とかなる。あわてるな」。
家族が困った時の、故人のお言葉だったという。

力強い言葉、やさしさ、ぬくもり。
亡くなった人の思い出は、
なにげない暮らしの中に、
立ち現れて、
その都度、悲しみも蘇る。

悲しみはずっと消えない。
慣れていくしかない。

けれど、
その悲しみがどんなに深くても、
時は止まらない。
知らん顔をして、
四季折々の風が吹く。

だから、泣いてばかりもいられない。
泣きそうな自分に、
思いと違う仮面を当てながら、
のり切らなければならない時もある。

そうして、
目の前のことに追われていくうちに、
つらい思いもゆっくりと均されていく。

ただ、心の裏側には、
正直な気持ちがそのままにある。
ふとしたきっかけで
涙が出てくることもある。
でもそれは、弱いということではないと思う。

太陽の光をいっぱいに浴びて、
輝くような葉の美しさ。
その裏側にひっそりと隠し持つ、
悲しみ、思い出、やりきれなさ。

裏葉色は、そんな人の心の持つ
やわらかで、傷つきやすい
そっと扱ってあげたい想いを
映す色に思われる。

亡くなった人は、
きっと、笑いながら、
時に心配そうに、家族を
やさしく見つめ、いつも守ってくれている。

会えなくなっても、
やがて、空に、風に、
その存在を感じられるようになる。
草や虫や、雨や青空、夏の太陽の眩しさに、
思い出を見つけられる。

その気配に励まされ、
生きていく者は、
大切な人がいなくなった世界も、
ゆっくりと
力を取り戻し、前に進む。

手にした光を、離さないで。

一年半ぶりに、
バックナンバーのライブに出かけた。
会場は感染対策がとられ、
いつもより静かで緊張感のある空間。

晒柿(されがき)は、
黄みが強く、渋い橙色。
木から落ちないまま熟し、
木晒しとなった柿の色だ。

ライブ開催が決定したのは、
昨年の十一月。
コロナ感染者は増えていて、
実現するのか不安なまま、
二月初めの開催日を申し込んでいた。

ところが、緊急事態宣言により、
六月に延期。
その六月も無事開催されるかわからず、
ただ、静かに待つことにした。

ライブに行ける!

その想いは、高いところになる、
柿の実に思われた。

見上げる木の、
手の届かないところに晒されたまま、
じっと、そこにあり続けた。

期待しないように。
怒りの感情を持たないように。
そんな気持ちで過ごした。

やがて、
ライブ前のドキドキも忘れていて、
始まる前のウキウキとした空気も
奥深くにしまって
表立って見せないようにするのが普通になっていた。

それで、
当日、ライブ会場に入っても
実感が湧かなかった。

フロアも静かに、みんな、すぐに着席。
座席は、ひと席ずつ開けて座り、
友人や恋人と来た人たちも、
離れた席から、手を振って言葉なく
会話をしている。

どんなライブになるのだろう。
不安の中、いつもと違う心持ちで待つ。

やがて、
館内に流れていた音楽のボリュームが
一気に上がって、暗くなる。

──── いよいよ始まる。

みんな一斉に立ち上がり、
アーティストがステージに上がるのを待つ。
登場とともに、いつもなら大歓声が上がるところ、
拍手で迎える。
みんな、心をこめて強く、大きく、手を叩く。

この時になって、初めて
「あ、来てよかった!」と
急いで心がついてきた。

マイクを通して、第一声が聴こえる。

最初の曲は、
「なかなか会えない日々が
 続いてはいるけれど
 次の休みには会いに行くから…」。

あぁ、これだ!!

そう思うと、全身の血が生き生きと
通い始めた。
温められた心から、
溶け出すように涙があふれてきた。

一音だって、聴き逃したくない!
と、耳を、心を、研ぎ澄ました。
喜びが次から次に、
音楽に乗って溢れ出した。

前列のチャキチャキのお姉さんも、
ひとつ席を開けた隣のふわふわドレスのお姉さんも、
あちこちで、感激の涙をぬぐっているのがわかった。

晒されていた柿の実が、
甘く色づいて、ぽとんぽとんと
落ちる音がする…。

みんな、会いたかったんだ。

ツアー中にクラスターになってはいけない。
メンバーもスタッフも、感染してはいけない。
さまざまな制約やプレッシャーの中で
明日が最終日、という日まで走り続けてくれた。

ありがとう。
その言葉が繰り返し繰り返し、
胸に浮かんで、その度に泣いていた。

無理してライブに行かなくてもいいじゃないか。
ライブがなくても、生きていけるだろう。
そんなふうに思う日もあったけれど。

大切に思っていたもので、
なくしていいものなんか、なかったのだ。
一つ一つが、かけがえのない
私の一部であり、生きるエネルギーだから。

大好きな歌声が、
その人の今の声が、
直接耳に伝わってくる。

ただ、ここに在ることが嬉しくて。
私も、あの人たちも、この世界の人たちみんな。
「在ること」が、幸せのための大切なものなのだ。

かつて味わえたもの全てが、
すぐに取り戻せるとは思わらないけれど。
少しずつでも、取り戻したい。
手にすることができたらなら、
前よりも大切にしたい。

心からそう思った一時間半だった。

ライブが終わって、
会場から夜の街に飛び出す人たちは、
ゆるい下り坂をキラキラとコロコロと転がる、
美しい珠。

また、きっと…。
喜びに輝いて、あちこちに飛び散っていった。

いつか見る色、水の色。

水面の眩しい輝きは、
賑やかにはしゃいでいた、
遠い日の楽しい時間を思い出す。

水縹(みはなだ)色は、
明るい青色をさす。
「みずはなだ」とも読まれ、
万葉集にもその名は使われている。
今日では「水色」と呼ばれる色。

短大一年の秋、
男女五人グループで
大阪から電車で神戸に向かった。
車窓から海が見えると、みんなで
「海だ! 海だ!」と子供のようにはしゃいでいた。

その日があまりに楽しくて、
夏休みには、北海道に行こう!
という話になった。
レンタカーを借りて、広い道内を
食べて廻って、今しかできない旅をする。
そのために、みんなで
バイトをして貯金しよう!
そう決めて、プランをたて、
まだ見ぬ北の国に行くのを楽しみにしていた。

けれど、夏休み直前に、
グループの中でカップルになった二人が喧嘩、
別れる別れないの話になって、
プランからあっけなく離脱してしまった。

メンバーを替えて、プランを進めようとしたけれど、
なんとなく白けてうまくいかなくなって
その旅はなくなってしまった。

以来、北海道、と聞くと、
遠く憧れながら、どうしても行けない
幻の地のように思われた。

それから二十数年たち、
インターネットの時代が訪れ、
幻の地であった北海道に友だちができた。

そして、色々なタイミングがうまく重なって、
2009年、ついに北海道へ旅する機会に恵まれた。
嬉しくて、ガイドブックに首っぴきで、
旅のプランをたてた。

かつて計画した旅は、
レンタカーであちこち巡る予定だったが、
私は車の免許を持っていない。
電車やバスでまわる計画は、
時間も距離も読めず、
実現できなかった旅のことを思い出すと、
また少し悔しくなった。

それでも、初の一人旅。
期待と少しの不安を抱き、
なんとかなるだろう! と、札幌の駅に降り立った。

改札には、北海道の友だち、Kちゃんが待っていてくれた。
「はじめまして」 なのに、
なぜか懐かしい! と思えたKちゃん。
初対面とは思えない親しさで、話がはずんだ。

私のガイドブックでたてたプランは
破茶滅茶すぎて、Kちゃんは笑っていた。
笑ったまま、あちこちに連れて行ってくれ、
ガイドブックには載っていなかった美味しいお店、
素晴らしい景色の中へ連れて行ってくれた。

小樽にも車で連れて行ってくれた。
海が見えた。
「海だ! 海だ!」と、はしゃぎながら、
全部の夢が叶ったような喜びで胸がいっぱいになった。

あの日、どうしても行けなかった旅は、
この旅につながっていたのだ。

集めた資料、貯めたバイト料、
プランをたてたノート。
憧れた北海道旅行が叶わなかった時、
友だちに腹が立ったり、
実現できなかった自分が情けなかったり。

そんな気持ちは、全部、
この旅の感動で、水に流せた。
新しいきらめきを胸いっぱい抱えて。

今年も夏休みシーズンになった。
けれど、ウィルス感染のおそれなどもあり、
楽しみにしていた予定を実現できないことが
多い夏になってしまった。

それでも、楽しみは捨てずに持っていよう。
それは、得た言葉、知識、友人によってふくらんでいく。
ふくらんだ楽しみを、弾けないように
大切に抱え続けていけば、
いつか、思いもしなかった形で
叶えられるかもしれない。

今、見えているものが、全てではない。
少し遠くを見て、
楽しみや希望を持って、
健やかであろうと思う。

風通しの良い光景を
心に描いて。

想い出を、注いで澄ます器の色。

錫(すず)のぐい呑を買った。
お酒の味が澄んでまろやかになる、
と聞いて、どうしても欲しかったのだ。

「錫色(すずいろ)」は、銀色に近い明るいねずみ色。
光の中で、控えめに輝く色だ。

先日、母の見舞いに大阪に行き、
深夜、母の部屋の引き出しの整理をした。
すると棚の奥に、たくさんの写真が
無造作に入れられた紙袋を見つけた。

現れたのは古いモノクロ写真。
独身時代の父のものだった。
青春真っ盛りの父が、友人たちと
少し照れながら写っている。
バラバラに押し込んであったので、
時系列はわからない。

グループで写っている写真の中に、
父ひとりだけ、前列の女性の両肩に
そっと手をのせている一枚を見つけた。
美しく、優しく微笑む人だった。

その人とは他のグループ写真にも、
近くにいて写っているものが数枚あった。
…お父ちゃん、恋してたんやなぁ。
我知らず微笑んでいた。

海や山で遊ぶ父、時には演劇もしている父。
私の知らなかった姿がたくさんあった。
と、そんな写真の束の中に一枚の
色あせたハガキを見つけた。

差出人は女性。
美しい文字、サラサラと流れるような文章で
父の結婚へのお祝いの言葉と、
近況が書かれていた。
赤ちゃんがまだ小さく、手がかかって大変だけれど、
とても可愛い、と。
「貴方も子宝に恵まれなさいませ」。
その一文に、目がとまった。

生前、父から、どうしても叶わなかった恋を
あったことを聞いていた。
詳しくは知らないけれど、
色々な事情があったのだろう。

叶わなかった恋は、ずっと続くのか…。
大切な思い出として語る父の姿に、
ふと、そんなことを思ったのを
覚えている。

錫色は別名「銀鼠(ぎんねず)」ともいう。
銀鼠は水墨画でいうところの
「墨の五彩(ごさい)」の中の「淡」、
二番目に薄い色だ。
この「五彩」とは、墨の濃淡によって
「無限の色が表現できる」という意味。

父の若き日の写真はすべて白黒。
写されたシーンには様々な濃淡があった。
写真も手紙も、
その時、その時の気持ちによって
濃くなったり、淡くなったりして、
記憶の中でさまざまに蘇っていたのだろう。

本人がいなくなった後も、
こうして私に何かを伝えてくるように。

明るく楽しいことばかりでは、
きっと心の色合いの濃淡も、
単調になってしまうのかもしれない。

ハガキの人は、父の好きな人だったかどうかは
わからない。
深読みしすぎだ、と天国で笑っているかもしれない。

けれど、
「子宝に恵まれなさいませ」という一文を
受け取った父の気持ち。
それを書いた女の人の気持ち。
真実はわからないままでも、
叶わなかった恋の最後の手紙だとしたら…
切なく美しく、いつまでも光を放つように思われる。

錫は錆びない金属だという。
叶わなかったから、錫のように
ずっと錆びず汚れず残る想いもあるだろう。

錫のぐい呑の中を覗くと、
銀色に輝く器に、夜の闇が
ひっそりと映る。
静かに飲み干すと、
闇が胸の奥に落ちていく気がした。

すっぱさが広がる色。

久しぶりに食べてみたくなって、
「お取り寄せ」をしてみた。
ふっくらとした、
懐かしい色の梅干しを。

蘇芳(すおう)色は、くすんだ赤。
蘇芳(すおう)とはマメ科の植物で、
それを用いて染めた色であることから
この名がつけられた。

「すおう」という響きにも、
酸っぱさを感じて、
この色を見ると梅干しを思い出していた。

母は、毎年、梅を漬けていた。
家業の機織りをしながら、いつどんなふうに
干したり漬けたりしていたのか、
見た記憶はない。
けれど、毎年、蘇芳色に見事に染まった梅干しが
食卓に上った。

梅干しのついでなのか、
梅酒も作っていた。

高校三年の時、テストの一夜漬けが続いて、
目が冴えて眠れない夜に
初めて梅酒を飲んでみた。
最初の一杯は、薄めを恐る恐る。
── 全く眠くならない。
二杯目は、もう少し濃く。
三杯目は、さらに濃く。
四杯目からは、氷だけのグラスに梅酒…。
すっかり気分良くなり、
高らかに笑いながら部屋に帰り、
ぐっすりと眠った。

これは、とんでもない大酒飲みの誕生だと
父を震え上がらせた。

いつも台所の隅には、
梅の漬かった大きな瓶が並んでいた。
病気の時は、おかゆさんに。
遠足のおにぎりに。
梅干しは、優しい常備薬のような
頼もしい食べ物だった。

七月の暑い日に、父が急逝した。
弔問に来てくれた近所に人たちに
母が「今年は漬けた梅干しにカビが生えたから…」と
話していた。
当時、私は知らなかったけれど、
梅干しにカビがはえるのは「不吉な兆候」
とされているものだった。

それ以来、梅干しは悲しい食べ物になった。

母はその後も梅を漬けていた。
大きな瓶が遠く離れた街に住む
私のところに届けられた。
赤紫蘇に漬かった梅干しは、棚の奥にしまい
やがて少しずつ古漬けの茶色になっていった。

「蘇芳の醒(さ)め色」という言葉がある。
鮮やかな色なのに、褪せやすい特徴があり、
褪せた色も含めて、この色の味わいであるという。

子供の頃、瓶を眺めても美しかった
蘇芳色の梅干し。
茶色に褪せたものは、
口にすると、どこか頼りないような酸味が
また悲しかった。

先日、友人たちと湘南へ行った。
初夏の暑い日に、海を眺め、浜辺を歩いた。
まだ暑さに慣れておらず、
大量の汗と強い陽射しは、身にこたえた。
そこに、友人が小梅の袋を開けて、
「はい !」と
差し出してくれた。
口に入れると、程よい酸味が広がって、
身体にいいものが入りましたよ、
と、力を注がれたような喜びがあった。

遠足のおにぎりに入っていた梅干しを思い出した。

たくさん歩いて、いっぱい笑って、
そして、差し出してくれた袋から小梅を取り出す。
すっぱーいっ! と言いながら、また大笑いしていた。

「ええ塩梅だ」は、その年の梅の
つけ具合を確認する言葉だった。

結局、梅を漬けることのない大人になってしまったけれど、
悲しいことも、嬉しいことも、
共に味わい、ええ塩梅に人生を楽しんでいる。

取り寄せた梅干しは大当たり。
好きだった酸味と口当たりを、
思い出させてくれる味だった。

暑さの中、
鮮やかな蘇芳色の梅が、
「ほら、元気出して!」
と、再び、日々の食卓に上っている。

見えないものを魅せる色。

あれ? 私の人生にも終わりがあるんだ…。
と、思ったことがある。
八年前の夏、家族揃って車で帰省中に、
玉突き事故に遭った時のことだ。

墨色は、灰色がかった黒のこと。
書道用具の墨が名の由来と言われ、
僧侶の常服の色や
凶事を表す色としても知られている。

事故直後、家族皆が無事であることを確認し、
追突され、ひしゃげたトランクに入ってる
衣類を整え、現金をバッグに入れた。
そして、エアバッグの飛び出た運転席に
座ったとたん、動けなくなった。

一番のけが人は私で、
股関節ねん挫、骨盤骨折していたのだ。
高速道路に到着した救急車の
ストレッチャーで運ばれ、
見上げた空は、
青い折り紙を貼ったような空。
あぁ、この空の色、忘れないだろうなぁ…
と呑気に思っていた。

病院では入院を勧められるも、
手術の必要もなく、寝ているだけなら…と、
帰宅した。
痛みはあるものの、
少しずつ歩けるようにもなり、
大したことはなかった、と思っていた。

ところが翌日から、
墨で塗りつぶされたような
真っ暗な日々になった。
むち打ち症で、ひどい頭痛と激しい吐き気が
始まったのだ。

水も受け付けず、点滴も終われば吐いてしまい、
身体の痛みと、気分の悪さで
寝ても覚めても苦しい日々。

いつかよくなるのだろうか?
このまま起きられず弱っていくのだろうか?
日ごと、気力、体力も落ちていくような気がした。

聞くのも見るのも疲れを覚えた。
光が目に入るのもつらくなり、
一日カーテンを閉めて
ベッドに横たわる日々が続いた。
暗く、静かで、夜になると、
寝ているのか、起きてるいるのか
わからなくなる。

ある夜、リビングで、夫と子供達が
三人でご飯を作り、テレビを観て、
笑っている声や食器の音が聞こえてきた。

ガチャガチャと賑やかな音。
その様子が想像できて、
とても和やかな気持ちになった。
そして、はっ…と気がついた。

これは、私がいなくなった後の世界かもしれない。

ひととき悲しんだとしても、
日常は続き、遺された家族は、
食べて、笑って、片付けて
また来る明日に備える。

その時、家族が、
身体のどこかが痛かったり、
苦しくなければ、それでいい。
痛みとか、苦しさなんか
全部引き受けても、みんなが元気で
いてくれれば、それが一番いい。

心からそう思った。
子供の時から自分が一番大事で、
わがままだった私が
どうしてこんなことを思えるようになったのか…。

「親はいっつも子のことを心配しとる。
 どうでだ言うたら、かわいいでだ
 (なぜなら、かわいいからだ)」

そんな両親の言葉を思い出した。
自分よりも大切だ、心配だ、と育てられて
知らぬ間に、その愛情は自分の中にも育まれていたのだ。
そう気づくと、涙があふれてきた。

雨は透明で、写真に撮ることが難しい。
しかし黒い背景だと、その透明な線を
撮ることができる。

幸せとか愛情…。
ふだんは、口にするのも照れくさくて
表現せず、気づくこともないけれど、
つらいこと、悲しいことが起きた時、
それは、くっきりと姿を表す。

目に見えないのに、確かにあって、
景色を、心を潤すもの。
幸せや愛情は雨に似ている。
不幸な出来事が、黒い背景となって
その姿を見せてくれるのだ。

暗闇の中、そんなことを一人
思い巡らせていた。

トンネルの中にいるような日々も、
目指す光が少しずつ大きくなって、
ゆっくりと回復していった。

暗く、苦しい時間だったけれど、
事故に遭わなければ気づかなかったことがあり、
それは、その後の生き方を
確実に変えたと思う。

起こることは必然。
墨色の水に落ちた一滴の水でさえ、
命の美しさを教えてくれている。

夕暮れは、天狗さんの色。

燃えるように暑い、この夏。
夕陽も一日の暑さを描くように
景色を紅色に染めている。

炎色(ほのおいろ)は、
その名の通り、炎の色。
明るい赤色。

どんなに日没が遅くなっても、
子どもの頃は、五時が門限だった。
五時になると町内放送で
「夕焼け小焼け」が鳴り響き、
それまでに帰らないと叱られた。

五時を過ぎても遊んでいると
天狗にさらわれる、と
言われ、本気で信じていた。
「学校近くの垣根で見た!」
という目撃情報に、
ドキドキしたのも
今思えば、
幼く、かわいい思い出だ。

あれは、小学一年生の頃だったか、
買ってもらったばかりの、
小さなゴムボールで遊んでいたら、
近所のいじめっ子に
そのボールを取られ、隠されてしまった。

五時の鐘が鳴り、気持ちは焦るのに
いじめっ子は、にやにやと笑い
高い木を指差して、あの上に飛んでいった、
と言う。
五時に間に合わない、両親に叱られる、
天狗にさらわれる…
恐ろしい思いがさまざまにめぐり、
泣きそうになっていた。

すると、
背の高い、知らないお兄さんが
やってきて、いじめっ子の
頬を驚くような強さでぶった。
あまりの勢いに驚いたことと、
恐怖で身を縮めていると、
二人の間で、しばらくやりとりがあり、
いじめっ子は、隠していたボールを
ふんっ! と投げて去っていった。

背の高いお兄さんは、
それをさっと拾い上げ、
身体を折り曲げるようにして
ボールを手渡してくれた。
夕焼けの空を背景にして、
幼い私にその人は、天狗に見えた。
そのせいか、激しいやりとりの恐怖からか、
うまくお礼が言えなかったような気がする。

それでも、恐れていた天狗が、
さらうどころか、五時に帰らないとダメだと
助けにきてくれたような気がして
どこか安心するような嬉しさもあった。

その「天狗さん」は、
結局、どこの誰かはわからないままだ。

後日、花火大会の日に
ちらっと見かけて
「あ、天狗さんだ」と
思ったけれど、声をかけるという発想もなく、
遠くから見ていた。
花火に照らされた天狗さんは、
炎色に染まっていた。

あれから何十年もたって、
天狗も、夕暮れも、怖くなくなった。
そして、「天狗にさらわれる」と言って、
自由に遊ばせつつも心配して
帰りを待っていてくれた両親や、
「ほら、日が暮れるよ」とゆっくりと
沈んでいく夕陽のやさしさがわかるようになった。

本当に怖いのは、心配するもの、
心配してくれるものが、なくなることだ。
今年も、炎色した夏の夕暮れが
心配する人、される人たちを照らして
やさしく燃えている。

夏、懐、なついろ、ふるさとの色。

今回は、わたしオリジナルのいろ、
なついろ。
夏の、懐かしさの、さまざまな色を
「なついろ」とする。

わが故郷には、日本三景のひとつ、
天橋立がある。
海を分けるようにうねって伸びる砂州の形、
海の青と緑の松のコントラストも鮮やかな景観。
生まれたときから、
日常の景色の中に、その美しい眺めはあった。

高校二年の夏には、
「またのぞき」で
天に架ける橋(天橋立)を
眺める展望台でバイトしていた。
ケーブルカーとリフトの、
のりばの改札係だった。

ケーブルカーの改札では、乗客の安全乗車、
ドアロックを確認して、笛をふき、発車を見送る。
それは、なかなか気持ちよく、楽しい仕事だった。

毎日、眺める天橋立の景色も、
海の色も、時間ごと、日ごとに、
少しずつ異なり、空き時間に
どれだけ眺めていても
飽きることがなかった。

進学、就職、結婚、転勤…と、
どんどん故郷からは距離が離れ、
実家もなく、帰れない街になっても、
その景色は、ずっと心にある。

四年前に久しぶりに一人で
ゆっくりと帰り、街を見て回った。
街はすっかり変わっていて、
驚きの連続だった。
道は広くなり、あったものがなくなり、
なかったものがあり、
どこか知らない街のようだった。

それでも、日本三景の美しい眺めは
変わらずそのままで、
どこから見ても懐かしい景色だった。
それが、とても、とても、嬉しかった。

その街が、大雨にふられ、
過去にない災害に見舞われた。
ネットで見た、大雨による被害、
友だちから知らされる豪雨の恐怖。
まったく想像もしていなかったことが
街を襲ったのだった。

たくさんの穏やかで優しい、
故郷の色が、抗えない自然の大きな力に
さらされていた。

心配で、悲しい気持ちになったけれど、
日々、たくさんの方々が
元の美しい形に戻そうと
奮闘されている。

「風土がひとをつくる」という。
大変ななかでも、明るさを失わず、
励まし合い、力をあわせて
粘り強く闘う姿に、
胆力とは何かをおそわる思いだ。

四年前の七月に訪れた故郷の街も、
ひどく雨が降っていた。
久しぶりに展望台に上がったのに、
雨で景色が見えない…
残念がっていたら、
どんどん雲が流れて、晴れ間が現れた。

そして、雨に濡れて輝く
まさに「天に架かる橋」の景色を
夏空のもと、懐かしい「なついろ」に染めて
見せてくれたのだ。

その瑞々しく美しい姿は、
どんなに荒れた天気の日にも
厚い雲のむこうには、眩しいほどの太陽が
待っている…そのことを改めて教えてくれた。
あれこそが、私たちの強さと
明るさを育んでくれたものなのだ。

災害に遭われた街が、
一日も早く、元の姿に戻りますように。
この夏もたくさんの観光客でにぎわう
故郷の光景も心から願う。

見逃したくない色は、うつろいやすく。

和の色には、
その名を聞いただけでは、
すぐにわからない色がある。
朱華色(はねずいろ)も、そのひとつ。

もっとも、朱華色(はねずいろ)とは
庭梅の色ともザクロの色とも言われていて、
色調も紅から朱まで幅のある
謎めいた色ではある。

調べていて、一番多く見られたのが
黄色がかった淡い赤色だった。
褪せやすい色であることから、
移ろいやすさの枕詞としても使われていたという。
なかなか正体のつかめないような、
にくらしい色だ。

そんな移ろいやすさを恋する心に見立て、
詠まれた歌が万葉集にある。

「思わじと言ひてしものを朱華色のうつろひやすき我が心かも」

意味は
「もう恋なんてしないと言っていたのに、
朱華色みたいに私の心は移ろいやすいの」
という説と
「あんなひと、もう好きじゃないって言ったのに
朱華色みたいに移ろいやすい私の心…やっぱり好き!」
という説がある。

どちらも現代の歌詞にもありそうな恋心で、
切なく揺れる感情は、
昔も今も人の中に変わらず存在することに
心くすぐられる。
揺さぶられる想いの色は、
喜んだり、悲しんだり、期待と不安の中で、
やはり謎めいたまま、
紅から朱の間の色調を行き来するのだろうか。

去年の夏、下鴨神社に参詣した際、
境内の茶店で
140年ぶりに復元されたというお菓子をいただいた。
葵祭の申(さる)の日に神前にお供えされたという
ほんのりと朱華色(はねずいろ)のお餅、
その名も「申餅(さるもち)」。
いにしえの都人は「葵祭の申餅」と親しんで呼んでいたのだそう。

申餅に添えられたしおりに、
「はねず色とは、明け方の一瞬、空面が薄あかね色に
染まる様子で、命の生まれる瞬間を表すとされています」
と書かれてあった。

明け方の一瞬、命の生まれる瞬間。
なんて美しい瞬間だろう。

毎日、毎朝、その瞬間があり、
その瞬間の色が「朱華色(はねずいろ)」なのだ。

日々、空の色が違うように、
見るところで、その日の心持ちで、
色が変わるように…はっきりとこの色、
と決めなくてもいい。
それぞれの心の中に描く色があり、
決めないほうがいい色もあるのかもしれない。

少し謎めいて曖昧さのある朱華色(はねずいろ)。

明日は、少し早起きして、
自分だけの、今日の命の生まれる瞬間の色を見よう、
そう思った。

憧れと思い出を秘めた色。

秘色。
「ひそく」と読む。
別名は「青磁色」。

青磁は、平安時代に中国からやってきた磁器で、
それはそれは貴重なものとして珍重されていた。
中国では当時、
天子(皇帝)に献上されて、
臣下(家来)には使用が禁じられていたこと、
また、神秘的な美しさから、
その色は「秘色(ひそく)」と呼ばれていた。

子どもの頃、床の間に置かれた
青磁の壷を眺めるのが好きだった。
床の間に飾られたものは、
子どもが触ることは許されなかったので
その壷は、まさに秘色(ひそく)そのものだった。

そのためか、この色には特別な憧れがあり、
似合わないとわかっていても、
服に小物に、と、選んでしまう。
いつまでも、どこか叶わない色なのだ。

秘色(ひそく)という言葉から、
思い出して、取り出してきたものがある。
母から譲り受けた、37歳の父の日記だ。
織物の技術指導で
数ヶ月間、韓国に滞在していたときのもの。
言葉が通じないもどかしさや、
食べ物があわずに体調すぐれぬつらさ、
そして、家族や友人に会いたい想いが、
赤裸々に綴られている。

いつも明るくて、前向きで、
くよくよと悩むことなく生きよ、と、
背中を押してくれていた父の
秘めていた一面が、ここにある。

日記とともに、当時父が送ってくれた手紙があり、
そこには「班長をがんばりなさい」とある。
当時、かなりの引っ込み思案だった私が
班長になり、父に手紙で知らせたのは
自慢したい気持ちと、
元気であることを知らせたかったからだろうか。
その気持ちに応えて、父も明るく応援してくれている。
当時の父よりも大人になった今、
そのやりとりは、少し切ないような想いになる。

父が帰国する日は、学校から走って帰ったものだった。
父が日本を、家族を思うように、
私も寂しかった。父が恋しかったのだ。

当時は知らなかった父の寂しさ。
日記に小さな文字でびっしりと想いを書き綴る、
父の心の中は何色だったのだろうか。

そういえば、と、思い出した。
父は、うぐいす餅(「りゅうひ」と呼んでいた)が
好きで、帰国すると買ってきて、
感に堪えない顔で食べていたことを。
うぐいす餅。うぐいす色。
青大豆からできたきな粉の色。

あぁ、ほんのりと緑色だ。
秘めたる想いを、ひとときほぐしてくれたのは
きっと秘色に似た、その淡い緑色だったにちがいない。

高貴にして、やさしい秘色。
そんな家族の思い出とともに、
これからも憧れ、好きな色でありつづける。