すっぱさが広がる色。

久しぶりに食べてみたくなって、
「お取り寄せ」をしてみた。
ふっくらとした、
懐かしい色の梅干しを。

蘇芳(すおう)色は、くすんだ赤。
蘇芳(すおう)とはマメ科の植物で、
それを用いて染めた色であることから
この名がつけられた。

「すおう」という響きにも、
酸っぱさを感じて、
この色を見ると梅干しを思い出していた。

母は、毎年、梅を漬けていた。
家業の機織りをしながら、いつどんなふうに
干したり漬けたりしていたのか、
見た記憶はない。
けれど、毎年、蘇芳色に見事に染まった梅干しが
食卓に上った。

梅干しのついでなのか、
梅酒も作っていた。

高校三年の時、テストの一夜漬けが続いて、
目が冴えて眠れない夜に
初めて梅酒を飲んでみた。
最初の一杯は、薄めを恐る恐る。
── 全く眠くならない。
二杯目は、もう少し濃く。
三杯目は、さらに濃く。
四杯目からは、氷だけのグラスに梅酒…。
すっかり気分良くなり、
高らかに笑いながら部屋に帰り、
ぐっすりと眠った。

これは、とんでもない大酒飲みの誕生だと
父を震え上がらせた。

いつも台所の隅には、
梅の漬かった大きな瓶が並んでいた。
病気の時は、おかゆさんに。
遠足のおにぎりに。
梅干しは、優しい常備薬のような
頼もしい食べ物だった。

七月の暑い日に、父が急逝した。
弔問に来てくれた近所に人たちに
母が「今年は漬けた梅干しにカビが生えたから…」と
話していた。
当時、私は知らなかったけれど、
梅干しにカビがはえるのは「不吉な兆候」
とされているものだった。

それ以来、梅干しは悲しい食べ物になった。

母はその後も梅を漬けていた。
大きな瓶が遠く離れた街に住む
私のところに届けられた。
赤紫蘇に漬かった梅干しは、棚の奥にしまい
やがて少しずつ古漬けの茶色になっていった。

「蘇芳の醒(さ)め色」という言葉がある。
鮮やかな色なのに、褪せやすい特徴があり、
褪せた色も含めて、この色の味わいであるという。

子供の頃、瓶を眺めても美しかった
蘇芳色の梅干し。
茶色に褪せたものは、
口にすると、どこか頼りないような酸味が
また悲しかった。

先日、友人たちと湘南へ行った。
初夏の暑い日に、海を眺め、浜辺を歩いた。
まだ暑さに慣れておらず、
大量の汗と強い陽射しは、身にこたえた。
そこに、友人が小梅の袋を開けて、
「はい !」と
差し出してくれた。
口に入れると、程よい酸味が広がって、
身体にいいものが入りましたよ、
と、力を注がれたような喜びがあった。

遠足のおにぎりに入っていた梅干しを思い出した。

たくさん歩いて、いっぱい笑って、
そして、差し出してくれた袋から小梅を取り出す。
すっぱーいっ! と言いながら、また大笑いしていた。

「ええ塩梅だ」は、その年の梅の
つけ具合を確認する言葉だった。

結局、梅を漬けることのない大人になってしまったけれど、
悲しいことも、嬉しいことも、
共に味わい、ええ塩梅に人生を楽しんでいる。

取り寄せた梅干しは大当たり。
好きだった酸味と口当たりを、
思い出させてくれる味だった。

暑さの中、
鮮やかな蘇芳色の梅が、
「ほら、元気出して!」
と、再び、日々の食卓に上っている。

見えないものを魅せる色。

あれ? 私の人生にも終わりがあるんだ…。
と、思ったことがある。
八年前の夏、家族揃って車で帰省中に、
玉突き事故に遭った時のことだ。

墨色は、灰色がかった黒のこと。
書道用具の墨が名の由来と言われ、
僧侶の常服の色や
凶事を表す色としても知られている。

事故直後、家族皆が無事であることを確認し、
追突され、ひしゃげたトランクに入ってる
衣類を整え、現金をバッグに入れた。
そして、エアバッグの飛び出た運転席に
座ったとたん、動けなくなった。

一番のけが人は私で、
股関節ねん挫、骨盤骨折していたのだ。
高速道路に到着した救急車の
ストレッチャーで運ばれ、
見上げた空は、
青い折り紙を貼ったような空。
あぁ、この空の色、忘れないだろうなぁ…
と呑気に思っていた。

病院では入院を勧められるも、
手術の必要もなく、寝ているだけなら…と、
帰宅した。
痛みはあるものの、
少しずつ歩けるようにもなり、
大したことはなかった、と思っていた。

ところが翌日から、
墨で塗りつぶされたような
真っ暗な日々になった。
むち打ち症で、ひどい頭痛と激しい吐き気が
始まったのだ。

水も受け付けず、点滴も終われば吐いてしまい、
身体の痛みと、気分の悪さで
寝ても覚めても苦しい日々。

いつかよくなるのだろうか?
このまま起きられず弱っていくのだろうか?
日ごと、気力、体力も落ちていくような気がした。

聞くのも見るのも疲れを覚えた。
光が目に入るのもつらくなり、
一日カーテンを閉めて
ベッドに横たわる日々が続いた。
暗く、静かで、夜になると、
寝ているのか、起きてるいるのか
わからなくなる。

ある夜、リビングで、夫と子供達が
三人でご飯を作り、テレビを観て、
笑っている声や食器の音が聞こえてきた。

ガチャガチャと賑やかな音。
その様子が想像できて、
とても和やかな気持ちになった。
そして、はっ…と気がついた。

これは、私がいなくなった後の世界かもしれない。

ひととき悲しんだとしても、
日常は続き、遺された家族は、
食べて、笑って、片付けて
また来る明日に備える。

その時、家族が、
身体のどこかが痛かったり、
苦しくなければ、それでいい。
痛みとか、苦しさなんか
全部引き受けても、みんなが元気で
いてくれれば、それが一番いい。

心からそう思った。
子供の時から自分が一番大事で、
わがままだった私が
どうしてこんなことを思えるようになったのか…。

「親はいっつも子のことを心配しとる。
 どうでだ言うたら、かわいいでだ
 (なぜなら、かわいいからだ)」

そんな両親の言葉を思い出した。
自分よりも大切だ、心配だ、と育てられて
知らぬ間に、その愛情は自分の中にも育まれていたのだ。
そう気づくと、涙があふれてきた。

雨は透明で、写真に撮ることが難しい。
しかし黒い背景だと、その透明な線を
撮ることができる。

幸せとか愛情…。
ふだんは、口にするのも照れくさくて
表現せず、気づくこともないけれど、
つらいこと、悲しいことが起きた時、
それは、くっきりと姿を表す。

目に見えないのに、確かにあって、
景色を、心を潤すもの。
幸せや愛情は雨に似ている。
不幸な出来事が、黒い背景となって
その姿を見せてくれるのだ。

暗闇の中、そんなことを一人
思い巡らせていた。

トンネルの中にいるような日々も、
目指す光が少しずつ大きくなって、
ゆっくりと回復していった。

暗く、苦しい時間だったけれど、
事故に遭わなければ気づかなかったことがあり、
それは、その後の生き方を
確実に変えたと思う。

起こることは必然。
墨色の水に落ちた一滴の水でさえ、
命の美しさを教えてくれている。

夕暮れは、天狗さんの色。

燃えるように暑い、この夏。
夕陽も一日の暑さを描くように
景色を紅色に染めている。

炎色(ほのおいろ)は、
その名の通り、炎の色。
明るい赤色。

どんなに日没が遅くなっても、
子どもの頃は、五時が門限だった。
五時になると町内放送で
「夕焼け小焼け」が鳴り響き、
それまでに帰らないと叱られた。

五時を過ぎても遊んでいると
天狗にさらわれる、と
言われ、本気で信じていた。
「学校近くの垣根で見た!」
という目撃情報に、
ドキドキしたのも
今思えば、
幼く、かわいい思い出だ。

あれは、小学一年生の頃だったか、
買ってもらったばかりの、
小さなゴムボールで遊んでいたら、
近所のいじめっ子に
そのボールを取られ、隠されてしまった。

五時の鐘が鳴り、気持ちは焦るのに
いじめっ子は、にやにやと笑い
高い木を指差して、あの上に飛んでいった、
と言う。
五時に間に合わない、両親に叱られる、
天狗にさらわれる…
恐ろしい思いがさまざまにめぐり、
泣きそうになっていた。

すると、
背の高い、知らないお兄さんが
やってきて、いじめっ子の
頬を驚くような強さでぶった。
あまりの勢いに驚いたことと、
恐怖で身を縮めていると、
二人の間で、しばらくやりとりがあり、
いじめっ子は、隠していたボールを
ふんっ! と投げて去っていった。

背の高いお兄さんは、
それをさっと拾い上げ、
身体を折り曲げるようにして
ボールを手渡してくれた。
夕焼けの空を背景にして、
幼い私にその人は、天狗に見えた。
そのせいか、激しいやりとりの恐怖からか、
うまくお礼が言えなかったような気がする。

それでも、恐れていた天狗が、
さらうどころか、五時に帰らないとダメだと
助けにきてくれたような気がして
どこか安心するような嬉しさもあった。

その「天狗さん」は、
結局、どこの誰かはわからないままだ。

後日、花火大会の日に
ちらっと見かけて
「あ、天狗さんだ」と
思ったけれど、声をかけるという発想もなく、
遠くから見ていた。
花火に照らされた天狗さんは、
炎色に染まっていた。

あれから何十年もたって、
天狗も、夕暮れも、怖くなくなった。
そして、「天狗にさらわれる」と言って、
自由に遊ばせつつも心配して
帰りを待っていてくれた両親や、
「ほら、日が暮れるよ」とゆっくりと
沈んでいく夕陽のやさしさがわかるようになった。

本当に怖いのは、心配するもの、
心配してくれるものが、なくなることだ。
今年も、炎色した夏の夕暮れが
心配する人、される人たちを照らして
やさしく燃えている。

夏、懐、なついろ、ふるさとの色。

今回は、わたしオリジナルのいろ、
なついろ。
夏の、懐かしさの、さまざまな色を
「なついろ」とする。

わが故郷には、日本三景のひとつ、
天橋立がある。
海を分けるようにうねって伸びる砂州の形、
海の青と緑の松のコントラストも鮮やかな景観。
生まれたときから、
日常の景色の中に、その美しい眺めはあった。

高校二年の夏には、
「またのぞき」で
天に架ける橋(天橋立)を
眺める展望台でバイトしていた。
ケーブルカーとリフトの、
のりばの改札係だった。

ケーブルカーの改札では、乗客の安全乗車、
ドアロックを確認して、笛をふき、発車を見送る。
それは、なかなか気持ちよく、楽しい仕事だった。

毎日、眺める天橋立の景色も、
海の色も、時間ごと、日ごとに、
少しずつ異なり、空き時間に
どれだけ眺めていても
飽きることがなかった。

進学、就職、結婚、転勤…と、
どんどん故郷からは距離が離れ、
実家もなく、帰れない街になっても、
その景色は、ずっと心にある。

四年前に久しぶりに一人で
ゆっくりと帰り、街を見て回った。
街はすっかり変わっていて、
驚きの連続だった。
道は広くなり、あったものがなくなり、
なかったものがあり、
どこか知らない街のようだった。

それでも、日本三景の美しい眺めは
変わらずそのままで、
どこから見ても懐かしい景色だった。
それが、とても、とても、嬉しかった。

その街が、大雨にふられ、
過去にない災害に見舞われた。
ネットで見た、大雨による被害、
友だちから知らされる豪雨の恐怖。
まったく想像もしていなかったことが
街を襲ったのだった。

たくさんの穏やかで優しい、
故郷の色が、抗えない自然の大きな力に
さらされていた。

心配で、悲しい気持ちになったけれど、
日々、たくさんの方々が
元の美しい形に戻そうと
奮闘されている。

「風土がひとをつくる」という。
大変ななかでも、明るさを失わず、
励まし合い、力をあわせて
粘り強く闘う姿に、
胆力とは何かをおそわる思いだ。

四年前の七月に訪れた故郷の街も、
ひどく雨が降っていた。
久しぶりに展望台に上がったのに、
雨で景色が見えない…
残念がっていたら、
どんどん雲が流れて、晴れ間が現れた。

そして、雨に濡れて輝く
まさに「天に架かる橋」の景色を
夏空のもと、懐かしい「なついろ」に染めて
見せてくれたのだ。

その瑞々しく美しい姿は、
どんなに荒れた天気の日にも
厚い雲のむこうには、眩しいほどの太陽が
待っている…そのことを改めて教えてくれた。
あれこそが、私たちの強さと
明るさを育んでくれたものなのだ。

災害に遭われた街が、
一日も早く、元の姿に戻りますように。
この夏もたくさんの観光客でにぎわう
故郷の光景も心から願う。

見逃したくない色は、うつろいやすく。

和の色には、
その名を聞いただけでは、
すぐにわからない色がある。
朱華色(はねずいろ)も、そのひとつ。

もっとも、朱華色(はねずいろ)とは
庭梅の色ともザクロの色とも言われていて、
色調も紅から朱まで幅のある
謎めいた色ではある。

調べていて、一番多く見られたのが
黄色がかった淡い赤色だった。
褪せやすい色であることから、
移ろいやすさの枕詞としても使われていたという。
なかなか正体のつかめないような、
にくらしい色だ。

そんな移ろいやすさを恋する心に見立て、
詠まれた歌が万葉集にある。

「思わじと言ひてしものを朱華色のうつろひやすき我が心かも」

意味は
「もう恋なんてしないと言っていたのに、
朱華色みたいに私の心は移ろいやすいの」
という説と
「あんなひと、もう好きじゃないって言ったのに
朱華色みたいに移ろいやすい私の心…やっぱり好き!」
という説がある。

どちらも現代の歌詞にもありそうな恋心で、
切なく揺れる感情は、
昔も今も人の中に変わらず存在することに
心くすぐられる。
揺さぶられる想いの色は、
喜んだり、悲しんだり、期待と不安の中で、
やはり謎めいたまま、
紅から朱の間の色調を行き来するのだろうか。

去年の夏、下鴨神社に参詣した際、
境内の茶店で
140年ぶりに復元されたというお菓子をいただいた。
葵祭の申(さる)の日に神前にお供えされたという
ほんのりと朱華色(はねずいろ)のお餅、
その名も「申餅(さるもち)」。
いにしえの都人は「葵祭の申餅」と親しんで呼んでいたのだそう。

申餅に添えられたしおりに、
「はねず色とは、明け方の一瞬、空面が薄あかね色に
染まる様子で、命の生まれる瞬間を表すとされています」
と書かれてあった。

明け方の一瞬、命の生まれる瞬間。
なんて美しい瞬間だろう。

毎日、毎朝、その瞬間があり、
その瞬間の色が「朱華色(はねずいろ)」なのだ。

日々、空の色が違うように、
見るところで、その日の心持ちで、
色が変わるように…はっきりとこの色、
と決めなくてもいい。
それぞれの心の中に描く色があり、
決めないほうがいい色もあるのかもしれない。

少し謎めいて曖昧さのある朱華色(はねずいろ)。

明日は、少し早起きして、
自分だけの、今日の命の生まれる瞬間の色を見よう、
そう思った。

憧れと思い出を秘めた色。

秘色。
「ひそく」と読む。
別名は「青磁色」。

青磁は、平安時代に中国からやってきた磁器で、
それはそれは貴重なものとして珍重されていた。
中国では当時、
天子(皇帝)に献上されて、
臣下(家来)には使用が禁じられていたこと、
また、神秘的な美しさから、
その色は「秘色(ひそく)」と呼ばれていた。

子どもの頃、床の間に置かれた
青磁の壷を眺めるのが好きだった。
床の間に飾られたものは、
子どもが触ることは許されなかったので
その壷は、まさに秘色(ひそく)そのものだった。

そのためか、この色には特別な憧れがあり、
似合わないとわかっていても、
服に小物に、と、選んでしまう。
いつまでも、どこか叶わない色なのだ。

秘色(ひそく)という言葉から、
思い出して、取り出してきたものがある。
母から譲り受けた、37歳の父の日記だ。
織物の技術指導で
数ヶ月間、韓国に滞在していたときのもの。
言葉が通じないもどかしさや、
食べ物があわずに体調すぐれぬつらさ、
そして、家族や友人に会いたい想いが、
赤裸々に綴られている。

いつも明るくて、前向きで、
くよくよと悩むことなく生きよ、と、
背中を押してくれていた父の
秘めていた一面が、ここにある。

日記とともに、当時父が送ってくれた手紙があり、
そこには「班長をがんばりなさい」とある。
当時、かなりの引っ込み思案だった私が
班長になり、父に手紙で知らせたのは
自慢したい気持ちと、
元気であることを知らせたかったからだろうか。
その気持ちに応えて、父も明るく応援してくれている。
当時の父よりも大人になった今、
そのやりとりは、少し切ないような想いになる。

父が帰国する日は、学校から走って帰ったものだった。
父が日本を、家族を思うように、
私も寂しかった。父が恋しかったのだ。

当時は知らなかった父の寂しさ。
日記に小さな文字でびっしりと想いを書き綴る、
父の心の中は何色だったのだろうか。

そういえば、と、思い出した。
父は、うぐいす餅(「りゅうひ」と呼んでいた)が
好きで、帰国すると買ってきて、
感に堪えない顔で食べていたことを。
うぐいす餅。うぐいす色。
青大豆からできたきな粉の色。

あぁ、ほんのりと緑色だ。
秘めたる想いを、ひとときほぐしてくれたのは
きっと秘色に似た、その淡い緑色だったにちがいない。

高貴にして、やさしい秘色。
そんな家族の思い出とともに、
これからも憧れ、好きな色でありつづける。

うつろう時を、藍にたくして。

二藍色。
「ふたあいいろ」と読む。

色は、藍に紅花を染め重ねた紫。
ただ、紫といっても、
赤紫から青紫色まで、
紅の強みによって色調に幅がある。

なんとも移ろいやすい色…。
紫陽花にも似た、
色合いのバリエーション。

どうして、こんなふうに一つの名前に
色合いの幅があるのだろう。

それには、ちゃんとワケがあった。

二藍(ふたあい)色とは、
遠い昔の平安時代から、
身にまとう人の年齢によって、
紅みを足したり、藍を足したりと、
色の調整が行われる色だったのだ。

若いほど紅を強めに、歳を重ねるほどに藍を強く。
鮮やかな藍と、落ち着いた藍。

あの「源氏物語」の光源氏も、息子の夕霧に
「あまり紅みの強い二藍では軽く見られる」と
忠告したという場面もあるというから、
年齢と色というのは、
遠い昔から深いかかわりがあるのだろう。

もう少しあっちかな?
ちょっと行き過ぎ、こっちかな?
と、紅と藍の間を行きつ戻りつしているような
二藍(ふたあい)色。
その名も愛らしい。

語感も“ふたあい”というと、
あっちの人がいいかな?
こっちの人のほうがいいかな?
と、心移ろう男女の様子が想像されておもしろい。

古くから男女問わず愛された色だったというが、
衣の色が年ごとに少しずつ藍が濃くなってゆくのを、
当時の人たちは、どんな気持ちで受け容れ、
袖を通していたのだろう。

大人になる喜びや、
もう少し若いままでいたい切なさや、
老いの哀しみや…。

色に込められた意味は、時を越えて
人の気持ちを想像させる喜びも与えてくれる気がする。

また、今ふうに見ると、
二藍(ふたあい)とは、
二つの愛や、
二つのアイ(英語の“私”)などの
意味に通じるようにも思われる。
二藍の名を人に言わないまでも、
身にまとうときに、
ふと、自分なりの意味や思いがよぎって、
密やかな喜びを味わわせてくれるような。

紅かったり青かったり、と、
微妙に移ろう色合いの紫陽花も、
そんな愉しみをたっぷりと含んで
ぽってりと心豊かに咲いているように見える。