時の積み重ねを表す、いろ。

飴色(あめいろ)。
水飴のような、深みのある強い橙色。

カレーのレシピで見る、
「玉ねぎを飴色になるまで炒めて」。

そう、ていねいに時間をかけて、つくる色なのだ。

遠ざかっていても、
飴を味わうように
ずっと大切に思って、
進化させたい、よりよくしたいと思うもの。

それを、また。
迷いつつ、味わいながら、リスタートする。

さめても優しい、春の色。

街を歩くと、
突然、目覚めたように花が咲いている。
あぁ、もう春が来たのか…と、
見とれてしまう。
手もとに、カメラはない。

退紅(あらそめ)は、
淡い赤、
薄紅(うすくれない)の染め色。

新年から二ヶ月余り、
一度も写真を撮らなかった。

あの感染症が昨年以上に
猛威をふるい、
とても撮りに行こう!
という気持ちに
なれなかったのだ。

胸が苦しくなるような戦況を伝える
日々のニュース、
さらには地震、と
心は、ますます動けなくなる。

令和四年、春。
数年前には想像もしなかった世界。
価値観、生活スタイル、心の向き方…
いろんなことが変わってしまった。

友人と食事すること、
満員も気にせず、映画や舞台や
ライブを楽しむこと。

ほんの数年前に、
ごく普通に楽しんでいたことが
もう気軽にできなくなった。

のんきで、明るく、
甘くほのかな紅色のような日々。
もう遠い昔に思える。

桜は花ひらいても、
心はひらかず、
かつてのようには
楽しめないかもしれない。

そんな想いで、
いつかの旅先で撮った
春の写真を見ていた。

少し季節遅れになってしまって、
眠らせたままにしていた何枚もの写真。

それらは、のどかで
見ているだけで、
眠くなるような、
ひだまりのぬくもりを感じられる。

今年はどんな春になるのか。

こんなに世界が変わっても、
写真を撮ったあの場所に、
桜はまた咲くのだろう。

退紅(あらそめ)は、
退色した紅色。
日光に当たったり、
時間の経過で色あせたような、
「褪(さ)めた紅色」であることから
この名がついたという。

春の花の色は
淡く、まろやかで、
退紅の色を思い出す。

それは、色あせたというよりも、
親しみやすく、
目に、心に馴染んだ
懐かしい色。

寒さに耐え、土の中で
時を待って咲く
力強く、慈愛に満ちた春の色。

冬は冬のまま、
悲しいことは悲しいまま。
ただ雪解けを待つ日々は続く。

そんな中でも、
時を経て、ゆっくりと
さぁ春が来たよと、
微笑んでくれる
花々の色。

寒さに鍛えられた
その懐かしく、やさしい色を
今年もあきらめずに見つけたい。

顔をあげて、
あたりを見渡し、
また訪れた春を撮り始めよう。

いつかまた、
穏やかな時間が来た時に、
こんな春があったことを思い出し、
しみじみと幸せを噛み締めたい。

撮った写真は、
過去からのエール。
未来にいる自分を、
静かに励ましてくれている。
これからも、また。

年に願いを。

新しい年を迎えた。
初詣には、今年の恵方、北北西にある
大雷(だいらい)神社を参拝した。

土黒(つちぐろ)は、
赤みがかった黒い色。

赤黒、茶黒と黒の仲間はあるけれど、
土の黒とは、その匂いまで感じられるようで、
好ましく思った。

大雷神を祭神とするこの神社の
ご神徳は、
“雷除け、電子機器への加護、IT技術の向上”
という。

日々、パソコンの前で
青ざめることの多い私には
ひざまずいてお願いしたいことばかり。

そんなIT時代の神様!
のようなご利益もありながら、
その歴史は古く、
静かで落ち着いた雰囲気の境内は
ITなど知らぬ! という威厳に満ちていた。

立派な鳥居をくぐると
ふわりと包み込んでくれるような
安心感が漂う。
朝早く、まだひと気もない境内は
空気も澄んで感じられた。

しんとした中、
古い御札や御守りなどの
お焚き上げが始まった。

もうもうと煙がのぼり、
境内が薄い膜のかかったような
淡く白い世界に染まってゆく。

ゆっくりと火に近づいて、
新しい年の無病息災を願う。

初めて来たのに、
焚き火を囲んだ幼い日のように
懐かしい想いに包まれた。

火には、人を集める力があるという。
…人が集う。
願いを込めた火が、高く上る。
過ぎた日々の災いも、悲しみも、
ここに納めて、焚き上げて、
一年の平穏を願う。

参拝後、「漢字蒔絵おみくじ」をひく。
今年の私の一文字は、
「才」だった。
“努力を「苦」とせずに真剣に、
貪欲に取り組め”
とあった。

「健康」の項には腹八分目にせよ、とも。
食いしん坊もほどほどに、との戒めか。

読みながら、笑顔になって、
健やかに、朗らかに、努めていくことを
心に決めた初詣になった。

秋の終わりから、
新型コロナウィルスの感染者数も
落ち着いてきたかな…
と、安心したのも束の間。
年が明け、
また、不穏なニュースに胸がざわつく。

焦るな、騒ぐな、不安に支配されるな!
そう大雷の神からのお叱りが
雷鳴とどろかせ、胸にずしんと落ちてくる。

お叱りを受け止めた体で、
境内の土を踏み締めると、
どっしりとした安心感が
体中にしみわたっていくような気がした。

土黒(つちぐろ)とは、
しっとりとしてやわらかく、
栄養分をたっぷり含み、
豊作を約束された
黒い土の色から名付けられたという。

見た目に華やかさが感じられなくても、
慈しみ、育む、母なる色。

暗闇にも思える黒い土の中でも、
いつか光のなかへ!
と、着実に育っているものがある。

今は暗くて、何も見えなくても、
いつか芽吹く日のために、
力をつけて、健やかに伸びようとする。

土黒は、それを、見つめ励まし包んでくれる。
春の土のような、
ふくよかで、ぬくもりを秘めた色だと思う。

神社を後にして、近くの街や
公園などを散策した。

まだ動き出していない
お正月の街。
静けさの中に、うごめく音を感じる。
2022年はどんな年になるのだろう。

元気に、明るく、力強く。
大雷様に誓ったことを
しっかりと心に留めて、
前に進もう。

胸の奥で、炎が上がり、
パチパチと爆ぜる音がした。

みっつの、しろい贈り物。

初めて感動した写真集は、
プリンスエドワード島」。
友人からのプレゼントだった。

素色(しろいろ)は、
天然のままの絹の色。
繭から取り出したばかりの生糸の色で、
これを漂白して、白色になると言う。

サブタイトルが、
「世界一美しい『赤毛のアン』の島のすべて!」
というプリンスエドワード島の写真集は、
子供の頃から憧れていた島の、
四季折々の景色がたっぷり見られた。

雄大な緑の景色に現れる、
建物や花の、まぶしい白。
とりわけ心惹かれたのは、
島をまるごと白い世界に
染めてしまう雪景色だった。

何度も何度も見ているうちに、
島を訪れることはできなくても、
私もこんな景色を撮ってみたい…。
そう思うようになった。

数年後、操作もカンタンな
コンパクトカメラを入手して、
撮ったものをSNSに載せるようになった。

その年に、
あすのとびら
という写真集を
別の友人が贈ってくれた。
ページを開くと
怖いほど美しいオーロラと雪景色。

凍える寒さに包まれる雪世界の写真は、
澄んだ美しい空気も感じられた。
それは、私など絶対撮れない景色。

行けないところばかりある。
できないことばかりある。

ちょっと、そんなふうに
すねていた時期でもあった。

その本は、写真詩集。
眺めていると
夜明けの雪景色に、心に止まる言葉があった。

「あるがままのじぶんをうけいれて」。

素色の「素」には、
「ありのまま」の意味がある。

素顔、素直…
「素」には、歳を重ねて、どこかに
置いてきた色があるように思われた。

その後、
カメラを買い替えたり、もらったりして、
ちょっと機能性あるものも使えるようになった。

そんなとき、また別の友人から贈られたのが、
白い表紙が美しい本、
愛の詩集」だった。
初めて「この人の撮る写真が好きだ」と、
写真家について調べ、
その人の作品を次々に鑑賞した。

遠くに行けなくても、
いつもの街、少し離れた場所で、
はっ! とする写真は撮れるのだと
教えられた。

そして、
こんなふうにはなれなくても、
こんなふうになれたらいいな、
と、ブログを始めることにした。

三冊の本は、
やさしい友人たちが、
それぞれ別の時、
別の想いで
贈ってくれたものだった。

受け取った時は
ただの点と点、
バラバラに存在していた。

けれど、何度も眺めているうちに、
それらの点がつながり、美しい丸となって
私を静かに動かしてくれた。

「素」には、「根本になるもの」の意味もある。
私の根本、土台となる三つの出会い。
贈ってくれた友人たちに、心から感謝したい。

受け取ったのは、ものだけではない。
言葉や、視線や、想いなど
目に見えないものが、
私に色を与えてくれたのだ。

振り返ると虹のような景色に見える。

今年も、もうすぐ暮れようとしている。
日々を後ろへ、後ろへと見送って、
虹のように鮮やかだった日々も
少しずつ消えようとしている。

消えてしまっても、
残した写真と
その時々の想いは残る。

年々、経験を重ねても、
素朴な色を忘れずに。
色を重ねても、
素である、自分の天然の白い色を
失わずに行こう。

新しい年を楽しみにして。

静かな聖夜に届くもの。

「残業せんと、早よ帰って。
 今日は、クリスマスやから」。
出先からの上司の電話に、
予定はないと答えられなかった。

琥珀(こはく)色は、透明感のある黄褐色。
ウィスキーや蜂蜜、水飴の色としても
よく知られている色だ。

独身、一人暮らし。
心躍る予定のないその日、
クリスマスでにぎわう街に
一人出かける気にもなれず、
「先生」と呼ぶ、
経理の女性と二人で帰った。

まっすぐ帰ると言う私に先生は、
「若い子がデートの約束もないの!?」
と、驚き、なぐさめ、
市場で、カゴひと盛りの
おいしそうな海老を買ってくれた。

狭い台所の部屋に帰り、
たくさんの海老を塩茹でにした。

こたつの上にドン! と置いて、
殻をむいて食べる。
…おいしい!
予想を上回るおいしさに、
一人黙々と食べていた。

そこに電話。
「あ、いた!」
学生時代の友人が
「今から、プレゼント届けにいく」と
突然の訪問予告。
海老はもう殻だけになって、
何もないことを言うと、
あきれながら「いいよ」と笑う。

しばらくすると、ノックする音が聞こえ、
玄関を開けると、友人が
ラッピングされたバラ一輪を口に咥え、
フラメンコのポーズで立っている。
その隣に、友人そっくりの弟くん。
免許のない友人を乗せて
クリスマスの夜、
わざわざやってきてくれたと言う。

ケーキもご馳走もなく、
こたつにお茶、という殺風景な我が部屋。
けれど、二人がやってきて、
わいわいおしゃべりしていると、
気分が華やいだ。嬉しかった。
誕生日プレゼントを持ってきてくれたと言う。

私の大好きなイラストレーターの
ポーチとマグカップ。
そして、買った時に、
おまけにつけてもらったという、
さっき咥えていた一輪のバラも添えて。

いろんな喜びで胸がいっぱいになって
何かお礼をしようと、
どこかに行く? と誘うと、
弟くんの次の予定があるから
すぐに帰ると言う。

その日、寂しがっているのを知っていたかのように
プレゼントを持って、現れ、笑わせ、
心に灯りを点して、帰る。
二人は、まるでサンタクロースとトナカイのようだった。

にぎやかなクリスマスもいいけれど、
あの日、静かに過ごしていなければ、
あんな驚き、弾けるような喜びは、
得られなかったかもしれない。

なんとなく出かけていたら
クリスマスのにぎやかさに、
余計寂しくなっていただろう。

先日、食器棚を整理していて、
その時にもらったマグカップを見つけた。
ちょっと欠けてしまったけれど、
あの日の嬉しさを思い出すと、
どうしても捨てられなかったのだ。

琥珀は、太古の樹脂類が土中で石化した鉱物。
何千年の時を経て現れ、宝石となる石の色だ。

静かな師走の夜、懐かしい思い出が
何かの拍子に、こぼれるように現れる。
光に透かしてみると、
思い出が溶けて、胸を熱くする。

クリスマスのイルミネーションが
今年は見られた。
昨年見られなかった分、
まぶしいほどに煌めいていた。

華やかな思い出も、
静かでやさしい思い出も、
私の中で地層のように重なっていて
今の自分を作っている。

にぎやかさに笑う時もあれば、
その中で、静かに耳をすます時もいい。

どちらも、琥珀色に輝くクリスマス。

今年も、静かに過ごすことになりそうだけれど、
健やかであることに感謝し、
心穏やかな未来が来ることを祈ろう。

いくつになっても、
サンタクロースはやってくる。

着けば都の駅はどこ?

土の香りがする静かな駅は、
しばらくそこに、
佇んでいたくなる。

青丹(あおに)の色は、
暗い黄緑色。
青丹の「青」は、緑色のことであり、
「丹」は土を意味する。

「青丹よし」は奈良の枕詞として
よく知られている。
「青丹」とは、
顔料である岩緑青の古名であり、
奈良はその産地でよく知られていることから
枕詞となったと言われている。

「青丹よし 奈良の都は 咲く花の
     にほふがごとく 今盛りなり」
この歌は、赴任先の太宰府から、
故郷の奈良の都を懐かしんで詠んだ歌と言う。

もう奈良には戻れないかもしれない…
そんな不安な想いから、
懐かしい故郷の美しさを
より一層恋しく想って詠んだのでは
ないかと言う説もある。

その説にしたがって読むと、
故郷の美しさを、誇らしく、
懐かしく想う心が悲しく、
華やかさよりも、寂しい色が
胸ににじんで広がる。

奈良ではないものの、
私にも自然の緑、土の香りに包まれた、
恋しい故郷がある。

都の華やかさはないけれど、
海は青く、土にぬくもりがあり、
四季折々の花が咲く、
「におうがごとく」の美しさだ。
今は遠く、そうそう帰れないのだけれど。

秩父鉄道の駅が、味わいがあっていいよ、
と、友人に聞き、訪れた。

自然に囲まれた駅は、
それぞれどこか懐かしさがあり、
秋の木枯らしの中でも、
あたたかな空気に満ちていた。

背景には、山や木々などの緑。
それは、この季節ならではの、
少し色褪せた緑、青丹の色だった。

ひと気のない寂しさと、漂う懐かしい気配に、
ベンチに腰かける。

ある駅では、
「駅は撮ってもいいけど、僕は撮らないでねー」
と、明るく声をかけられた。
別の駅では、
「無人駅に見えるかもしれませんが、そうではないんです」
と、写真を撮るのをじっと見守る駅員さんもおられた。

別に怒っているわけではなく、
問いかけると、淡々と応えてくださる。
写真を一枚、と、お願いすると、
姿勢を正して、ポーズをとられる。

…あぁ、こういうやりとりが、いいなぁ。

マスク越しでも、距離はとっても、
心の距離の近いやりとり。
来る人を気にかけ、声をかけ、見送る。

大きな駅では、一人一人になかなかこうはできないだろう。

誰かといっしょに、
誰かに会うために、
誰かから旅立つために、
駅に立つ。

ごく普通の日であれ、
特別な日であれ、
駅は、いつも乗り降りする人たちを
静かに迎え入れ、見送ってくれる。

後に残るのは、
山や木々に吸われる音と風。

私は、そういう駅から
旅立って来たのだ。

私が故郷を出たいと想ったのは、
見送る立場が嫌になったから。

都会に出てゆく人は、
ひととき帰ってきても、
また、知らない街へと出発し、
故郷を離れてゆく。

その人たちを見送り、
「ただいま」を待つことが
寂しくて嫌になったのだ。

そうして故郷を離れ、
今ではただいまを言うことも、
帰る家も無くなってしまった。

駅は「おかえり」の入り口。
懐かしい無人駅に降り立つと、
やはり、心の中で「ただいま」を言うのだろう。

あの駅は、今も、誰かの出発を
後押ししているだろうか。

静かな駅に座っていると、
遠い日の駅の思い出が次々と
よみがえる。

土の香りと色褪せた緑。
青丹は、私にとって
「おかえり」の色なのだ。

サクサク秋さんぽ。

散り敷かれた落ち葉を
踏むと、サクサクと
香ばしい音がした。

纁(そひ)は、
明るい赤橙色。

読みづらいこの名は
古代中国の茜染めからきている。
染める回数によって色名が変わり、
三回染めの名前が「纁(そひ)」だった。

「蘇比」と表記されることもある。
同じ色のはずなのだけれど、
こちらは、調べると
より黄色味の強い色が現れる。

紅葉し、刻々と変化して
豊かな色合いを持つ、
秋の色だなぁ…と思った。

「楓葉萩花秋索々」
という白楽天の詩がある。

「秋索々」。
この言葉を知ってから
落ち葉を踏み歩く時、
ふと頭に浮かぶようになった。

「索索」とは、
「さらさらかさかさ音のするさま」と、
「心の安らかでないさま」という意味がある。
索々、サクサク…。

秋の色をたずねながら、
落ち葉の絨毯の道を、
ゆっくりと歩く。

茜染めのような
濃淡さまざまな色合いは、
目に染みるように美しい。
秋の陽が、より一層その眩しさを増し、
何度も足を止めて眺めいる。

去年の秋は、
無言で、足早に歩き、
色づく葉を見上げるのも、
罪悪感を感じた。

時も歩みも、
止まったままのような日々が続いた。

この秋は、同じ止まるにしても、
ゆったりと景色を愉しむため。
そのことが、こんなにも嬉しい。

「索」には
「探し求める」と、
「なくなる」という意味がある。

紅葉を探して求めても、
季節が過ぎると、
色は褪せ、葉は落ちて、
やがてなくなる。

「秋索々」という言葉は、
刻々と変わる季節の表情、
秋の心もようも見せてくれる。

サクサク歩くと、
去年は見られなかったものが
たくさん見られた。

参道の茶屋で、
おみくじ付きのお団子はいかが?
と、声かけられる。

お陽さまの下で食べるお団子は
また格別!
と、モグモグ食べたら
食べ終えた串に「大吉」が出た。

団子屋さんに持って行ったら
「あら、大吉なのに持って帰らないの?」
と、言われた。
当たりもう一本!
ではなかったらしい。

久しぶりだから、
足腰が心配だ…と
石段を用心深く上がる人、
その背中に、そっと手を当てながら
「ほら、しっかり」と
笑顔で支える人たちの後ろ姿。

互いをスマホで撮りながら、
笑い合うカップル、
友だち、家族連れ。

去年は見られなかった光景、
聞こえなかった声だ。

「日常」とは
こんなに、朗らかなものだったのか…
と、改めて思う。

橋に人だかりがあり、
何の景色かと覗いてみると、
バンジージャンプを楽しむ人がいた。
広々とした自然に向かって
ダイブしながら、大声を出している。

見る人たちも、驚きながら
笑っている。

キョロキョロ、ニコニコ、
サクサクと、秋の道行きは
にこやかな発見に満ちている。

撮る写真は、
染め物のように、さまざまな色合いが
記録されてゆく。
私の茜染めだ。

折々の想いを込めて
染め上げられた布のような
紅葉のグラデーション。

「索」は、
もともと両手で糸を撚り合わせる形から
生まれた文字という。

たくさんの想いや願い、
人それぞれの時間に生まれた糸が
撚り合わされてできた眺めに思われた。

二年前の秋に訪れた、
平泉の高台から見た紅葉を思い出した。

また、旅したいなぁ。
ぽつり、つぶやく。

あたりの人たちのざわめきに、
同じ想いの声が聞こえた気がした。

新たなチカラを生み出す色。

久しぶりに撮りに出かけた。
相棒は、新しいカメラ。

左伊多津万色(さいたづまいろ)は、
黄色みを含んだ濃い緑色。

「サイタヅマ」とは、
タデ科の多年草「虎杖」の古い名前。
「虎杖」もまた、
「イタドリ」という読みにくい名前だ。

お江戸の日本橋から日比谷まで撮り歩いた。
新型コロナウイルス感染者数の
減少もあってか、
街に明るいものが感じられた。

眩しい午後の光の中、
オープンカフェや、
ベンチでくつろぐ人たち。

その心地よい秋の光景を、
再び撮ることができるのが嬉しくて、
何枚も撮り続けた。

大手町のショウウィンドウを
撮っていると、
待ち合わせだったのだろう。
女性二人が駆け寄って再会する瞬間を
背後に感じた。

「あぁ、やっと会えたーっ!」
「感無量…」
「長かったねぇ。いつからぶり?」
「まずは今日の作戦をたてよう」
…そう言って、カフェに消えて行った。

ステイホーム、個食、黙食…
会いたい人に会えない。
ゆっくりと食事したり、
お酒を飲みながら話したいのに、
話せない。

ガマン、ガマン。
もう少し、あと少し。
そろそろかなぁ…
やっぱりダメか…。

そんな日々の中で
積もっていく、寂しさや不満や
悲しみもあったと思う。

一気に元通りに!
というのは無理でも、
ひととき、少人数で、
用心しながらも
楽しみを味わえるのだとしたら、
大事にしたい…。
そんな喜びがあふれる瞬間だった。

「虎杖(いたどり)」は、
その葉を揉み込んで貼ると
痛みが和らぐことから
「痛取(いたどり)」と
呼ばれるようになったという。

この自粛期間の胸の痛みを
「痛取(いたどり)」してくれるような、
左伊多津万色(さいたづまいろ)の
木々の葉や、秋の始まりの優しい風が
爽やかに吹き抜けていた。

そうした嬉しいシーンを
たくさん撮ったはずなのに。
帰ってきて写真を
パソコンに取り込んだところ
まだ慣れないカメラのため、
うまくいかない。

あれやこれやと試しているうちに、
操作ミスをしたものか、
SDカードの中のデータが
壊れてしまった。
「読み込むことができません」と
いうエラーメッセージとともに、
二度と見ることができなくなってしまった。

…ショック。

見るのを楽しみにしていた写真も
何枚かあったのに。

もう二度と見られない写真は
存在しないことと同じ。
そう思うと、ひどく落ち込んだ。

しかしその日、目にした、
再会を喜びあう人たちの
姿や言葉、歓声が、
胸によみがえった。

会えなかった時間は、
なかった時間でない。
そして、
見えなくなった写真は、
撮らなかった写真と同じではない。

会えなかった時間に、
心にためた相手への想い、
大切だと気づいたことなど話せば、
交流はより一層、
楽しく豊かなものになる。

写真は消えても、
その日、その場所で撮ったこと、
思ったことは、消えない。

落ち込んでも仕方ない。
しっかり調べて、知ること。
自分で解決できる失敗など
小さなことなのだと
改めて思う。

かんたんに解決できない、
悲しいことや、悔しいことは、
これからも起こるかもしれない。

けれど、悲しみや悔しさの痛みを
経たことで生まれた強さ、
誰かの痛みも和らげる力も、
今の自分にはあるはずだ。

それを大切に胸に抱えて、
見えない未来に、立ち向って行こう。

その力は、
私を遠くまで飛ばす。
きっと、笑顔で
飛んでいける気がする。

毒にもなれる強さを持って。

日暮れの街に灯る
店の窓から
あたたかい笑い声が聞こえるようになった。

雄黄(ゆうおう)は、
明るく鮮やかな橙色。
雄黄という鉱物から作られたことから
この名で呼ばれている。

社会人になり、
一人暮らしをしていた時のこと。
深夜残業で帰宅して、冷蔵庫に何もなく、
コンビニへ行こうとしていた。

マンション前の通りは、広いものの
人通りが少なく、
正面からやってきた男の人と、
ぶつかりそうになった。
右に左によけるものの、
どうしてもぶつかりそうになってしまう。

改めて見ると、その男は
うす笑いのまま動きが止まり、
怖くなった。

通りに面した居酒屋へ
走って飛び込んだ。
初めて入ったその店は、
カウンター席のみの狭さながらも
満席の賑わい。

急いで引き戸を閉めて、
振り返ると、
みんながピタリと話をやめて
私を見ている。

ただならぬ表情を見て、
「お姉さん、どうしたの?」と
尋ねられた。

あわあわとなっていて、
「そこで…男の人が…」
くらいしか話せなかった。

「なんだって!?」と、
紺色の作務衣の女将さんが
カウンターから出てきて、
水を一杯くれた。

「こりゃ、女将さんの出番や」
「説教してやれ!」
陽気なお客さんの言葉に
「よし、いっちょ行ってくるわ」
と、女将さんが腕をまくって、
私と一緒に店を出た。

用心深く辺りを見回し、
シュッと手を伸ばして私を庇いながら、
「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、
マンションまで送ってくれた。

「また、何か怖いことあったら、
 いつでもおいで」。
突然転がりこんできた小娘に
女将さんはやさしく笑ってくれた。

その夜は、恐怖から一転、
大人のあたたかさと、安心感に包まれた。

先日、日時計を見に行った。
日没前の小高い丘にある時計の周りを
たくさんの花が咲き、人が集まっていた。

夕刻、雄黄の色に辺りを染めて、
日が沈む。
人も、日時計も、ゆっくりと
暗闇の中に消えてゆく。

あの時の女将さんと、今の私は
同じ歳の頃になるのだろうか。
あんなに頼もしい大人になっていないことに
情けなさも感じる。

どんな人にも人生の時計があり、
それぞれの時を生きて、
夕暮れの時を迎える。

雄黄は、毒性が強いことでも知られている。
「雨月物語」では、
蛇の化身を退治するために、
法師が雄黄を持って、
立ち向かおうとする場面もあるほどだ。

蛇退治ではなくても、
日々の暮らしの中で、
思いがけずやってくる、恐ろしいもの、ことなどを
追い払うために、毒なるものが必要な時がある。

あの日、女将さんだって
怖い気持ちはあっただろう。
けれど、飛び込んできた小娘のため
毒なる力を振り絞り、守ってくれた。

暮れどきを知らせる
日時計を見ながら、
人生の夕暮れ時を迎え、自分はどれほど
人を守る力を持てたかを思った。

知恵と経験で得た力。
強さと、優しさと、艶やかさ。
大人になったからこそ、
引き出せるものがあるはずなのに。

居酒屋の灯り、
夕暮れの公園のにぎわい。
雄黄は、ほんのりとあたたかく、
後悔や焦りや、諦めさえも、
まろやかに包み込んでくれる。

日没のあと、浮かび上がる
山々のシルエットに
思い出の日々が滲んで消えていった。

ほんものに、染まれ!

久しぶりに使おうとしたら、
カメラが壊れていた。

甚三紅(じんざもみ)は、
黄みがかった紅色。

どんな色かイメージしにくい、
この色名は、
江戸時代の染め屋
「桔梗屋甚三郎(ききょうやじんざぶろう)」の
名にちなんでつけられたという。

壊れたカメラは、
バッグに入るコンパクトサイズで、
六年前に買ったもの。
ちょっと背伸びして買ったお気に入りだった。

が、背伸びが過ぎたようで、
買った当時は、使い方がわからなかった。
取扱説明書を読んでみても、
チンプンカンプン。

ま、いいや、撮っちゃえ!
と、出かけたものの、
あれ? ええっと? どうしよう!?
…そう混乱する中で、
初日から、カメラを落としてしまった。

派手に落としたものの故障はなく、
まずは丈夫なカメラであることが
相棒として頼もしかった。

その後も何度も落としたり、
雨でびしょ濡れにしたり、
吹雪の中で転んだり…。
なかなかハードな使い方により、
突然、レンズフードが閉じなくなったこともある。

あぁ、ついに故障!?
とドキッとしたことは、かず知れず。

江戸時代、紅色は、
鮮やかで人気があった。

ところが、紅花を使った染めは高価で
庶民には手が出ない。
そこで桔梗屋甚三郎は、
茜(蘇芳という説もある)を使って、
紅花染めに近い色を染めることに成功した。

安価なその紅色は、
庶民に大人気となった。

売れに売れた結果、
甚三郎は長者になり、
作った色も「甚三紅」と
呼ばれるようになった。

とはいえ、
本物の紅色でないことから
「紛紅(まがいべに)」とも言われたという。

きちんと学ぶことなく、
基礎知識すら知り得ていない私の撮る写真は、
紛いものと自覚している。

それでも、撮る時は、本気だ。
あの角度から、こちらから、と、
自分なりのよい写真を追求して撮る。
何枚も、何枚も。

これで世に出られるわけもなく、
収入が得られるわけでもないのに。
なぜ撮る?

そんな問いかけもあった夏だった。

なかなか撮りに行けない状況の中、
動けない自分の心と、
動かなくなったカメラのリセットボタンを
何度も押しながら、
自問自答し続けた。

ただ、いい風景をカメラに収めたら、
誰かに見てもらいたい。

そのことだけが、自分を動かす。

桔梗屋甚三郎が
紅花を使わずに、
初めて鮮やかな紅色を
染め上げた瞬間を思う。

嬉しかっただろう。
鮮やかさに心躍ったことだろう。

名をあげる。
収入を得る。
結果、そうなったのだけれど。

目指す色を工夫を重ねて
染め上げた瞬間の喜びは、

“あぁ、人に見せたい!”

ではなかったかと思う。

情熱的な紅色を
たくさん見つけた時、
あぁ撮りたい!
人に見せたい!
と思った。

その時、
もう撮ることのできなくなったカメラの
シャッター音が聞こえた気がした。

迷っても、壊れても、
何かになれなくても、
撮りたい。発信したい…。
その気持ちが、シャッターを押させる。

修理代が高くつくため、
今回、古い型のカメラを買った。

洗濯物を干していると、
赤とんぼが物干し竿に留まった。
その赤色を撮りたい! と思った。

「それは、ほんもの? 紛いもの?」
そう問いかけながら、
これからも色を求め続けていく。

ほんものかどうかは、
のちの日に人が評価する。