浮かない気分を、ときはなつ

小学校の頃の夏休みは、
花壇の「水やり当番」があって、
ひと気のない朝の学校に
一人登校した。

浮草鼠(うきくさねず)は、
やや緑みの青い鼠色。
水面に浮く草のような暗い緑がかった色で
あることから、この名がついた。

いつも賑やかな学校の、
しーんとした空気が好きだった。

授業のある日は、休み時間、
いつも、わいわいと賑やかな
水飲み場のコンクリートが乾いていて、
水を出すと、影のように水の跡がつく。
小さな網に入れて、
蛇口に吊り下げられた石鹸が
乾燥してひび割れている。

青色のジョーロにたっぷり水を汲んで、
花壇に向かう。
途中、カラカラに乾いた土に
水がポトポト落ちて、
歩みの痕跡を残す。

水をやり終えて、
窓越しに教室をのぞくと
一学期の終わりに書かれたままの文字が
残された黒板が見えた。
はげて、灰色のような
浮草鼠の色をしていた。

中庭の、コンクリートで作られた
約二メートル四方の水槽を覗いてみる。

ちょろちょろと地下水が流れる
水槽の中は暗い。
何がいるのか、わからない
ちょっと不気味な水の中。
浮草の下に、カエルやフナや、
名も知らぬ虫が、ほのみえた。
暗く濁った水中は、
吸い込まれそうで怖かった。

人の声のしない校内に
蝉の声が響く。

いつもと違う校舎は、
別世界のようだった。
陽に照らされて、
蒸された空気を充満させて、
二学期のくるのを待っている。

渡り廊下の石畳に、
ジョーロでクネクネと線を描く。

給食室は、何も作られていないのに、
三和土は、濡れたような跡が残っていて、
食べ物の匂いがかすかにした。

空気も澱んで
時が止まっているように思われた。

人のいるところに、
水も空気も、浮草も現れて
浮いたり、流れたりする。
そこにストーリーが生まれる。

夏休みが終わってしまうのは、
憂うつで、
早起きも宿題も苦手だったけれど、
新学期の初日は、特別な華やぎがあった。

手洗い場も廊下も、
水が弾けてキラキラしていて、
空気にも潤いがあった。

人の息が、言葉が、動く音が
新しいストーリーを動かし始める。

今年も、コロナ禍で、
子どもたちの夏休みの思い出も、
限定されるものになっただろう。

夏らしい楽しみが
今年も奪われてしまったのだろうか。

2021年の夏、というと、
浮草のように、ふわふわと浮かんで
何かの思い出に紐づけられない、
頼りないものになってしまったのかもしれない。

そう思うと、胸が痛む。

ところで、この浮草鼠の鼠色は、
江戸の昔、奢侈禁止令、つまり町人に
贅沢してはダメという抑制から生まれた色。

着物に派手な色合いを使ってはならず、
茶色、鼠色といった地味な色合いのものならば
着ても良いとされ、結果、
四十八茶百鼠というバリエーションが生まれた。
制約された中で、精一杯、遊び心を
発揮しようという心意気。

さまざまな制約のある中で、
それでも、楽しみたい。
子どもたちにも楽しんで欲しいと願う。
昔の人が知恵を出して楽しんだように。

もうすぐ夏休みも終わる。

誰もいない近くの小学校を、金網越しに眺め、
子供たちの、静かに冒険する姿を探す。
小さくてもドキドキするような発見のある
夏であればと願う。

ストーリーは、どんな時だって
きっと生まれる。

影が鳴るなり、りんりんりん。

一人暮らしを始めた二十歳の春。
初めて自分だけの電話が持てたのが
嬉しかった。
黒のダイヤル電話だった。

繁鼠(しげねず)は、
黒に近い灰色。
樹木の深い繁みのような暗い色であることから
この名がつけられた。

折り重なるように咲く桜の花に、
陰翳が生まれ、美しさを引き立てている。
光と影。
影の色は繁鼠の色。

私の育った小さな町では、
番号四桁で電話がかけられた。
初めて電話をかけたのは小学校一年の時で、
たった四桁なのに、間違ってかけてしまい
謝らず切ってしまった。
その時の狼狽、胸のドキドキを
鮮明に覚えている。

高校生になって、初めて市内局番というものを知った。
なんとなく、四桁から六桁にステップアップしたような
気持ちになったものだった。

短大に進学して、電話番号は十桁になった。
とはいえ、それは下宿の公衆電話。
電話は、友達や恋人とつながる大切なツールの時代、
いつも誰かが使用中。
かけたい人にかけられず、
かかってくる電話がありはしないかと、
電話が空くのを、イライラしながら待っていた。

社会人になって、ついに自分の電話を得た。
さぁ、思う存分電話ができる!
と、喜んだものの、
仕事から帰ると毎日深夜。
土、日も休日出勤で、電話は宝の持ち腐れ状態。

悔しくて、寂しくて、
深夜に「リカちゃん電話」にダイヤルして、
一方的なリカちゃんの話を聞きながら、
誰とも話せない気持ちを、紛らわせていた。

離れて住む両親とも
ずっと連絡できなくて、
深夜の会社から、
「生きてるよ」と電話した。
「生きとったか」の安心した声に
申し訳ない気持ちになった。

電話は近くにありながら、
なかなか使えない、遠い存在だった。

そんな中でも、当時は親戚や友人や、
たくさんの電話番号を
覚えていたと思う。

中でも、もう指が勝手に動いてしまうほど
何度も何度も電話をかけた好きな人がいた。
嬉しいこと、悲しいことがあったとき、一番に話したい、
用がなくても声を聞けるだけで力づけられる人だった。

どれだけ話しただろう。
それでもやがて、気持ちが通い合わなくなり、
二度と電話できなくなった。
話したい気持ちの行き先を失ってしまったのだ。

ひと晩泣いたけれど、
こんなに悲しい気持ちも、その電話番号も
いつか忘れてしまうんだろうな…。
そう思うと、寂しくて、番号を書いたメモを
日記にはさんだ。

今もそのメモは、日記にはさんである。
あんなに忘れない、忘れたくないと思ったのに、
もう何の感情も呼び起さない数字が並ぶメモ。

電話が変わっていったように、
人の気持ちも変わっていくのだと知った。

スマホ、携帯電話の番号は、十一桁。
覚えられなくても、心配無用。
スマホの機能で、
ボタン一つ押せば、電話できる。

アドレス帳もいらず、
104で電話番号を問い合わせることも無い。
着信音も振動で、静かにスマートになった。

けれど、あのけたたましいベルの鳴る瞬間や、
電話を待ってイライラしたり、ドキドキしていた頃が
ふと、懐かしく思う時もある。

市外局番、下宿、一人暮らし…。
春は、
折々に変わっていった電話の記憶を呼び覚ます。

何度も連絡した会社や、
いろんな書類に記載した自分の電話番号。
今では記憶の繁みに隠れてしまい、
全く思い出せない。

とはいえ、たった一つ。
決して忘れない番号がある。

実家の番号だ。
かつて住んだ家はなくなり、
その電話番号も今は使われていない。
それなのに、
ダイヤルしたら、
どこかでベルが鳴るような気がする。

リリリリ~ンと鳴り響くのは、
黒電話のあたたかい音。

「もしもし」という懐かしい声が、
繁鼠色の向こうから聞こえてくる。

ラインダンスはわたしと。

立春を迎えた。
寒さに凍える灰色の空の向こうに、
淡い春の光を感じられる。

素鼠(すねず)色は、
他の色味を含まない鼠色。
数ある鼠系の色の中でも、
白っぽくも、黒っぽくもない、
真ん中の色となるのが、この素鼠色だ。

短大二年の最後の冬、
卒業旅行の代わりに
日帰り近所旅に出かけた。

まずは、あまり乗ることのなかった
大阪環状線をぐるりと一周乗ってみた。
駅ごとに景色だけでなく
乗り降りする人の様子も変わるのを知った。

同じ場所でも、時間によって
色合いが変わることを知ったのも
この旅だった。

繁華街の夕暮れ。
華やかな世界が始まる前の
ざわめきの中を歩いた。
出勤前と思われる着物姿の女性が、
艶っぽく光っていた。

ほとんど化粧もせずに過ごした
私には目を惹くものがあった。

化粧をする。身支度を整え、
姿も心も創り上げてゆく。
仕事に向かう前の、どこか憂いに満ちた姿。
歳を重ねただけでは、至ることのできない
凛として色香感じる大人の姿。

時間だけでも、距離だけでも
たどりつけないところがある…。

憧れと、あきらめと、
かすかなときめきにも似たものを感じた。

ほんの数分、電車に乗っただけ、
ほんの数ヶ月後、学生ではなくなるだけ。
それだけで、違う世界が待っている。

自分の知らない世界は
どれほど大きいのだろう。
知らないことに、
怒られたり、嗤われてしまう物事は
どれほどたくさんあるのだろう。

世界の広さ、深さの予告編のようで
未来の自分への頼りなさに、少し怯えた。

その旅の後、
卒業前の思い出にと、
友人三人と正装して、
ちょっと背伸びした、
大阪都心のレストランへ出かけた。
全員、偶然にも鼠色のスーツだった。

帰り道、大人ぶって食事した
自分たちの姿を思い出し、
大笑いして夜の街を歩いた。
そのまま帰りたくなくて、
華やかな街の灯り、そして
列をなして車が走り去る光景を
陸橋から見下ろした。

たくさんのライトが
煌びやかな都会の時間のように流れてゆく。
綺麗だった。

突然、「ラインダンスしよう!」と
誰かが言い出し、
夜の陸橋で、腕を組み、踊り始めた。

正装していても、
顔はすっぴん。
子供と大人の真ん中の色をした私たち。

大きく足を蹴り上げながら、
都会なんかに負けるか!
笑って乗り越えてみせるぞ!
そんな気持ちで踊っていた。

叶えたかったことも、
叶わなかったことも
多かったけれど。
こんなに笑える未来があった。
これから先の、全く見えない未来は
どんなことで笑っているだろう。

数ヶ月後には、大人の世界に飛び込んでゆく、
まだ何者にもなっていない、
「素」の私たち。
素鼠色の服を着た四人のラインダンスは、
賑やかで、デタラメで、
とびきり楽しい思い出になった。

その後、違う道に進んだ
四人が集まることはなかった。
けれど、あの日の思い出は、
ひなたの小石を、そっと、
てのひらに置かれたようなぬくもりで、
どんなに心冷える日にも、
笑顔と元気をくれた。

光を浴びた素鼠色の光景は、
春霞にぼんやり浮かぶ都会の景色。

あのビルの中や、どこかの街角で
誰かが不安や失意の中にいるなら
暖かい春の光が射していると
いいな、と思う。

冷えた石もあたためてくれる、
春の陽射しが、もうすぐやって来る。

おなかの中で、光る珠。

どんよりとした気分の時、
一瞬にして世界の色が変わった。
そんな出会いはないだろうか?

魚肚白(ぎょとはく)色は、
青みがかった明るい灰色。
魚の肚(胃袋)の色に似ていることから
この名がついたという。

関東に引っ越してきて、
仕事を始めたばかりの頃のこと。
東京の電車の数に面食らいながら、
お客様のところへ向かう車内。

電車は間違っていないか、
無事に目的地に着けるのか、
何より、仕事はうまくいくのか。
不安と気の重さで、うつむいていた。

あれは、中央線だったと思う。
乗り換えて、空いた席に座り、
やれやれ…と顔を上げると
向かいの席に、
あれ?
この世にはいない、父がいる!?

窓から射す、午後の陽射しと
空の淡い青が溶けた
魚肚白色の光の中に、
父が座っていたのだ。

その人も、私を見て驚いてる。
お互い「あっ!」と声が出た。

父にそっくりの人は、父の兄、
横浜在住の伯父だった。
あまりの偶然に驚きながら、
伯父は隣の席に移動して、
しばし近況を語った。

数年ぶりに会った伯父は、
思ったよりずっと父に似ていた。

懐かしく、嬉しく、
心がほどけるひとときだった。
暗く、重い表情の私に
空から父が、ヒョイっと伯父を
よこしてくれた。
そんな優しいイタズラに思われた。

入社一年目の夏の終わり。
仕事がうまくいかず、
その日も深夜まで残業。
ヘトヘトになって、
憂鬱になって、電車に揺られていた。

誰もが疲れ果てている車内。
最寄り駅まで、まだだなぁ…と
顔を上げると、学生時代の先輩が
今まさに降りようとドア近くに立っていた。

私の、はっ! とした気配に
気づいてくれて、先輩は、笑いながら
おいでおいで、と手招きして
いっしょに降りようと誘ってくれた。

ホームのベンチに座って、
なんという事もない、近況を話す。
こぼれる弱音に、学生時代と変わりなく
笑い飛ばされた。

それだけで楽しくて、
無邪気な自分に戻り、
大きな声で笑っていた。

程なく、終電が黒い夜の中を
ほんのりと青白い光でホームを照らし
入ってきた。

それじゃあ、また。

と、学生のように別れた。
職場も遠いのに、たまたま同じ電車の
同じ車両に乗っていたという偶然。

疲れも吹き飛ぶ
驚きと嬉しさだった。
その数分の語らいのおかげで、
さて、明日も頑張るか!
と、力が湧いたのを覚えている。

これも、
父なのか、神様なのか、
遠い空の上から
見守ってくれている誰かの
優しい贈り物のように思えたひとときだった。

日々、瑣末なことに追われて過ごす自分は
とても小さな点だけれど、
時に視点を
うんと空高く、遠いところへ飛ばしてみる。
神の視点で世界を見下ろす。

あの人があそこにいて、
この人はそっちにいて、
自分がここにいる。
その小さくて大切な点を、
ひょいとつまんで会わせることができたら、
どんな喜びが生まれるだろう。

自分の未来を思い描いて、
喜びあふれる瞬間をデザインする。

今は、動けない点でいることが
少しつらい時もあるから、
心だけは、広い世界を見おろしてみよう。
ワクワクしながら想像しよう。

魚肚白色を調べていて、
「南総里見八犬伝」のエピソードを見つけた。

「仁・義・礼・智・信・孝・悌」
それぞれの文字の珠をもった
八人の若者の物語。
その中で、釣った鯛の肚から
「信」の珠が現れる。

「肚(はら)」には、
「表に表さず心に思うこと」
の意味もある。

肚に「信」の珠を持つ。
窓から入る光のような、
暗闇に光るヘッドライトのような。

未来を、
自分の健やかさを、信じる。
それでも、心が弱った時は、
思いがけず与えられた嬉しい瞬間を
思い出しみよう。

嬉しい記憶は光になって
「信」じる尊さの珠を輝かせてくれる。
生きていくことは、光の珠をつなげること。
小さくても、キラリ光る珠をつなげて
生きていこう。

そう肚を決めることが
明日につながる気がする。

田園発、心潤す色。

富山では、どうしても見たい景色があった。
宮本輝さんの小説「田園発港行き自転車」で
主人公たちが訪れる場所だ。

「──私は自分のふるさとが好きだ。
ふるさとは私の誇りだ。」

冒頭、登場人物の“千春”が、生まれ故郷が
いかに美しく、心慰めてくれるかを語るシーン。
彼女の紹介してくれた街の情景に
すっかり魅せられて、
いつか必ず行こうと決めていた。

潤色(うるみいろ)は、濁ってくすんだ色。
灰色やねずみ色ではなく、さまざまな色が
合わさって見える色だ。

富山では、あちこちで、
「潤色」を見つけた。
私はこの色を、
湿気をたっぷりと含んで景色の彩りを
にじませた色と思った。

“千春”は、東京での仕事に慣れず、
故郷富山に帰る日の送別会で、
生まれ育った町、入善町の美しさ、
素晴らしさを生き生きと語る。

冒頭のそのシーンから、
水清らかで、緑やさしい光景をもつ入善の街は
ゆっくりと胸に広がり、読み進むほどに
強く心から離れなくなった。

広い、広い田園風景。
そこに映る立山連峰。
両手を広げても、
自分のちっぽけさを感じさせる
スケール感に、感嘆の声をあげた。
神々しく、雄大でありながら、
ガラス細工のように繊細に見える
水田の透明さ。

「愛本橋って、黒部峡谷からの風の通り道ね」
と、作品中語られるが、
遠い峡谷から、冷たい風が通って
川を下り、海へと流れていく。

水だけでなく、風も、匂いも、ここを通って
海へ向かっていく。
海の方を見ていると、風になって
遠くまで飛んでいけるような心地。

山中の赤い橋。
作品を読まなければ、もしかしたら
通過していたかもしれない。
けれど、立ち止まって、
橋から見る景色を味わい、
遠くからこの橋の眺める。

その姿は、周りの豊かな自然に
馴染みながら、華やかな気品があった。
作品中でも「清潔な色香を漂わせた芸妓」“ふみ弥”に
喩えられていて、
ひと目見たら、
吸い込まれそうな、
心奪われてしまうような
妖しくも溶けるような魅力を感じた。
いつまでも見ていたい、
見飽きることのない橋だった。

振り返ると、
「川べりにゴミひとつ落ちていない」
と、“千春”が語っていた黒部川は、
流れも美しく、本当にゴミがない。
清澄な空気と水に、そこに立つだけで
人も、景色も、すべて
洗われていくような気がした。

どこを見ても、美しく、懐かしい。
そうだ、この田園風景も
海へと続く町並みも、私の故郷に少し似ている。
“千春”が語る。
「離れて見ないとわからんことがたくさんあるわ」。

そして、立山連峰にかかる雪や、
山々をふいに明るくさせたり、暗くする厚い雲が
田園の虫一匹にまで恩恵を与えていることに気づくのだ。

“千春”が気づいたように、
今の自分の身体も、心も、
故郷の自然が育ててくれたもの。
そこにあった人、もの、自然、あらゆるものから、
恩恵を受けていたことに気づいたのだった。

富山から帰って、もうすぐ二週間。
鼻の奥にかすかに残っていた富山の香りも消えつつある。
さみしいけれど
「私はいつでも、まっさらになれる」という“千春”の言葉に
力をもらう。

また、まっさらになって、心潤しにあの街に行こう。