ほんものに、染まれ!

久しぶりに使おうとしたら、
カメラが壊れていた。

甚三紅(じんざもみ)は、
黄みがかった紅色。

どんな色かイメージしにくい、
この色名は、
江戸時代の染め屋
「桔梗屋甚三郎(ききょうやじんざぶろう)」の
名にちなんでつけられたという。

壊れたカメラは、
バッグに入るコンパクトサイズで、
六年前に買ったもの。
ちょっと背伸びして買ったお気に入りだった。

が、背伸びが過ぎたようで、
買った当時は、使い方がわからなかった。
取扱説明書を読んでみても、
チンプンカンプン。

ま、いいや、撮っちゃえ!
と、出かけたものの、
あれ? ええっと? どうしよう!?
…そう混乱する中で、
初日から、カメラを落としてしまった。

派手に落としたものの故障はなく、
まずは丈夫なカメラであることが
相棒として頼もしかった。

その後も何度も落としたり、
雨でびしょ濡れにしたり、
吹雪の中で転んだり…。
なかなかハードな使い方により、
突然、レンズフードが閉じなくなったこともある。

あぁ、ついに故障!?
とドキッとしたことは、かず知れず。

江戸時代、紅色は、
鮮やかで人気があった。

ところが、紅花を使った染めは高価で
庶民には手が出ない。
そこで桔梗屋甚三郎は、
茜(蘇芳という説もある)を使って、
紅花染めに近い色を染めることに成功した。

安価なその紅色は、
庶民に大人気となった。

売れに売れた結果、
甚三郎は長者になり、
作った色も「甚三紅」と
呼ばれるようになった。

とはいえ、
本物の紅色でないことから
「紛紅(まがいべに)」とも言われたという。

きちんと学ぶことなく、
基礎知識すら知り得ていない私の撮る写真は、
紛いものと自覚している。

それでも、撮る時は、本気だ。
あの角度から、こちらから、と、
自分なりのよい写真を追求して撮る。
何枚も、何枚も。

これで世に出られるわけもなく、
収入が得られるわけでもないのに。
なぜ撮る?

そんな問いかけもあった夏だった。

なかなか撮りに行けない状況の中、
動けない自分の心と、
動かなくなったカメラのリセットボタンを
何度も押しながら、
自問自答し続けた。

ただ、いい風景をカメラに収めたら、
誰かに見てもらいたい。

そのことだけが、自分を動かす。

桔梗屋甚三郎が
紅花を使わずに、
初めて鮮やかな紅色を
染め上げた瞬間を思う。

嬉しかっただろう。
鮮やかさに心躍ったことだろう。

名をあげる。
収入を得る。
結果、そうなったのだけれど。

目指す色を工夫を重ねて
染め上げた瞬間の喜びは、

“あぁ、人に見せたい!”

ではなかったかと思う。

情熱的な紅色を
たくさん見つけた時、
あぁ撮りたい!
人に見せたい!
と思った。

その時、
もう撮ることのできなくなったカメラの
シャッター音が聞こえた気がした。

迷っても、壊れても、
何かになれなくても、
撮りたい。発信したい…。
その気持ちが、シャッターを押させる。

修理代が高くつくため、
今回、古い型のカメラを買った。

洗濯物を干していると、
赤とんぼが物干し竿に留まった。
その赤色を撮りたい! と思った。

「それは、ほんもの? 紛いもの?」
そう問いかけながら、
これからも色を求め続けていく。

ほんものかどうかは、
のちの日に人が評価する。

光の中で咲いていた花は。

夏は、サザンオールスターズ。
街には、熱風とともに
BGMのように流れていた。
十代の私も、カセットテープが
擦り切れるほど聴いていた。

木槿色(むくげいろ)は、
明るく渋い紅色。
木槿の花の色だ。

木槿の花が咲くには、まだ早い六月初め、
初夏に咲く、その色の花々を見つけて、
暑い夏の日のことを思い出した。

短大二年の夏、
人生初のライブ体験。
しかも、大好きなサザン!
サザンオールスターズの
大阪球場のライブに行けることになったのだ。

チケットを手配してくれたSちゃんは、
本当はそのライブに彼氏と行く予定だった。
ところが、
夏休み前にケンカをしてしまい、
ピンチヒッターとして、私に声がかかった。

嬉しいけれど、喜ぶ顔をしてはいけない。
Sちゃんも、明るく振る舞おうとしながらも、
顔が笑っていない。

ウキウキしていない二人で
大阪球場に出かけた。

球場前は、想像以上にすごい人いきれだった。
圧倒されながら進んで行くと、
高校時代、憧れていた人を見つけた。
当時の仲間と、変わりない笑顔。
気づかれないように、チラチラ眺めて
通り過ぎた。

席を探していると、今度は、
懐かしい呼び名で声をかけられた。
振り返ると、高校時代、仲の良かったKちゃん。
いつも恋バナなどしていた友達。
卒業以来の再会だった。

中学の同級生の男子も見つけた。
「変わらんねぇ~」と心で語りかけた。

席に戻って、
「懐かしい人に次々と会った。
 なんか、あの世に来たみたい…。」
そうSちゃんに言うと、
「あの世っ…!?」と、苦笑いを浮かべていた。

ライブが始まった!
毎日聴いているサザンが、
目の前に! 同じ場所に!!!

紅く、妖しく、光るステージは、
木槿色の美しい彩り。

満開の花が輝くように
スタジアムが光に揺れる。

場内の興奮はピークに達したけれど、
スタジアムのずーっと後ろの席から見る
ステージ上のサザンは、
豆粒よりも小さくしか見えなかった。

「あ~ぁ、虫眼鏡持ってきたらよかった」
というと
「それをいうなら双眼鏡ね」と、
Sちゃんが貸してくれた。
…やはり、よく見えなかった。

歌声も、遠くに響いて消えて行くような。
こんなものなのかなぁ…。
戸惑いながらも、
せっかくのチャンス、
楽しまなくちゃ損だ!!

と、無理に気持ちを奮い立たせても、
どうにも周りの人と同じようにノレない。
Sちゃんも、彼氏と一緒だったら…と
思っていたのだろう。
あまり楽しそうではなかった。

よその町のお祭りに迷い込んだような
どこか馴染めない気持ちのまま、
ライブは終わった。

想像した喜びや興奮とは少し違ったことに、
しょんぼりしながら帰り道を歩く。

木槿の花は、一日花と言われている。
朝に咲いて、夜にはしぼむ。

ライブもそんな花のよう。
朝は楽しみで元気いっぱい
咲こうとするエネルギーに満ちていたのに、
夜には、すっかり萎れてしまう。

幻想的な色と光に包まれていた時間が
少しずつ遠ざかっていった。

その後、何年もライブには行かなかった。

サザンオールスターズも、
気がつくと、あまり聴かなくなっていた。

すっかり忘れたと思っていたのに、
六月の花々や、
真夏のような熱い風が、
あの日の球場の空気を思い出させくれた。

たまらなく聴きたくなって、
スマホのサブスクリプションで、
サザンを再生してみた。

夕暮れの校舎、体育館の前、
開け放たれた下宿の窓から、
聴こえていたサザンのメロディー。

さまざまな夏のシーンの中、
いつも流れていた。

胸がきゅうっと締め付けられるような
想いがこみあげてきた。

そんな時間を
イキイキと思い出させくれる
音楽があってよかった。

泣いたことも、怒ったことも、
がっかりしたりことさえも、
全部、いい時間だった。

想いが、音楽に流されて次々と蘇る。

「あけ」てと願う、熱い色。

JR池袋駅の改札を出て、
子供の頃、年末年始にデパートが
休みだったことを思い出した。

真緋(あけ)色は、鮮やかな黄みの赤色をさす。
「あけ」とは「あか」と同じ意味。
天平時代より、
僧侶の袈裟の色としては
紫につぐ高い位を表していたという。

いつもなら、改札を出ると
買い物客や乗り換えの人々で
賑やかな駅構内。

その日は緊急事態宣言下で、
デパートは
食品売り場のみ営業中という日だった。
いつもの人混み、活気はなく、
どこか、しんとした寂しさが
漂っていた。

とりたてて用がなくても、
ちょっと寄りたい。
デパートは子供の頃から憧れで、
居心地のいい大好きな空間。

デパートのない街に育ったので、
京都市内の祖母のところに行く時は、
よそゆきの服を着て、
連れて行ってもらうことが楽しみだった。

遠くからも見える看板、
店員さんの口紅、スカーフなど
チラチラと目に入る赤い色が
鮮やかで、心ときめいた。

大食堂で、子供ながらに気取って飲んだ
ミックスジュース。
なんでも好きなものを食べていいよ、
と言われて
「すうどん!」と応えて
祖母を困らせたこと。
なにげないことも、特別に楽しく
きらめいて思い出される。

中学一年の夏。
初めて、従姉妹と二人だけで
デパートへ出かけた。

文房具くらいしか買えなかったけれど、
あちこち自由に見てまわるのが、
とても嬉しかった。
あまりに興奮しすぎて、帰りのバスを
乗り間違えたほど。
日盛りの中、
汗だくで歩いて帰った。

大人になったら、デパートで
自由に買い物できる!
そう思っていたけれど、
安サラリーの一人暮らしでは
とても、好きなものを買う余裕はなかった。
忙しくて、行く暇すらもない毎日。

ある日、仕事からの帰り、
寝不足でふらふらと
デパートの前を歩いていた。
化粧品のサンプルを配っていた店員さんに
「肌荒れがひどいですね」
と、声かけられた。

確かに、手入れも疎かにしていて、
触った肌の感触がザラついていることが
気になっていた。
自分に優しくしたい…
そんな気持ちもあって、勧められるままに
売り場カウンターの椅子に腰掛けていた。

うっとりするほど美しい店員さんに、
スティック状のクリームを
目の下に丁寧に塗ってもらう。
ほ~っ…と、ひと息。
ささやかな贅沢気分。
塗られた部分から、
栄養分がじわじわと、
肌に心に沁みてくる気がした。

デパートで化粧品など
買ったこともなかったけれど、
大人の女性として扱われる、ていねいな接客に
小さな感動を覚え、思い切って購入した。

口紅のような形をしたアイクリームは、
真緋(あけ)のリボンでくくる、
黒いサテンの小さな巾着袋に入れて渡された。

プレゼントを自分に贈るような
喜びが胸に広がった。

疲れてヘトヘトだったのに、
デパートを出るとき、心が浮き立っていた。

おもちゃにお菓子に洋服、
お子様セットに甘いジュース…。
デパートは、
いつだってウキウキとする時間やものがあり、
華やかな気持ちにさせてくれる場所だった。

旅に出ると、その土地のデパートに行く。
聞こえるその土地の方言に
旅心がぐっと昂まる。

食品売り場では、その土地の美味しいものを
教えてくれる会話がある。
話すこと、迷うこと、買うこと…
それがこんなに楽しいこととは、気づいていなかった。

かつてあった当たり前の日常が、
今、とても恋しい。
こんな窮屈で苦しい日々が、
早くあけますように。

真緋(あけ)の色を調べていて、
赤(アカ)は「夜が明ける」の「アク」から
生まれた語であるという説を見つけた。
ならば、「アケ」には強い願いを感じる。

色鮮やかな商品が並ぶ店内を、
あちこちのんびりと見てまわる。
喜びに上気した笑顔は、
真緋(あけ)の色に見えるだろう。

そんな日々が近い将来、またやって来る。
強く信じ、祈る。

消えない炎の色。

手紙が好きだった。
中学、高校生の時は、帰ったらまず、
郵便受けを見るのが楽しみだった。
赤く四角い箱型の。
それを開けるとき、私の顔も紅く染まっていたと思う。

真朱(しんしゅ)色は、少し黒味のある赤色。
色名につく「真」は
「混じりもののない自然のままの朱である」という
意味を持つ。

中学の時、友人の紹介で
福岡の男の子と文通することになった。

最初の手紙を郵便受けに見つけた時は、
甘い秘密を持ったようで、ドキドキした。
急いで部屋に持ち帰り、
封を開けたのを覚えている。

写真も同封してくれていた。
福岡市内から離れた町の、
田んぼのあぜ道で、直立して写るペンフレンドは
丸刈りにジャージの素朴な少年。
足元がマジックで黒く塗られていたのを
透かして見ると、おじさんのつっかけを
履いていた。

その素朴さに親しみを感じて、
他愛もない話の手紙のやり取りが始まった。

「真朱」は「まそほ」とも読む。
「しんしゅ」と「まそほ」、二つの名前。

遠い町の知らない男の子と文通している、
などと知られたら、怒られる!
そう思って、
差出人の名前を女の子の名前にしてもらった。

「なおき」君を「なおみ」ちゃんに。
二つの名前をうまく使い分けて
互いの学校のこと、友達や勉強のこと、
遠い分だけ、誰に気遣うこともなく、
素直に率直に話していたように思う。

恋人でもボーイフレンドでもなく、
周りのほとんどの人が知らない交友関係、
ペンフレンド。
手紙が届くたびに特別なときめきがあった。

けれど、数ヶ月で突然、
「彼女ができました。ごめんね」
と、文通は終わることになった。
失恋とは違うけれど、
あぁ、私たちは異性だったのだと気づいた。

これまで通りに、彼女の話をしてくれたらいいのに…
と、思ったけれど、なおき君にすれば
彼女に悪いと思ったのかもしれない。

真朱にはこんな万葉のうたがある。

「ま金吹く 丹生(にふ)の ま朱(そほ)の色に出て 言はなくのみぞ我が恋ふらくは」

鉄を精製する真朱色の土のように、色には出さない、言葉にしないけれど。
私は恋い焦がれている…という意味。

恋とは言えなかったけれど、交流をなくしたことの
欠落感を誰にも言えない寂しさがあった。

もう来ないとわかっていても、
手紙を待って、毎日郵便受けを
のぞいていた。

最後の手紙から二年ほど経って、
高校生になったなおき君から、手紙が来た。

「バンドをやっています」という近況に、
モノクロの彼の写真が添えられていた。
見違えるほど大人っぽくなっていた。
いろんなことがあったのだろう。
私もいろんなことがあったよ。

そう思っても、何から書いていいのか
わからなくて、返事は出せなかった。

数年前、福岡を旅した時に、
もしかしたら、どこかですれ違っているかもしれないな。
そう思うと、ほのぼのと愉快な想いになった。

交流は途絶えても、
真朱のポストに手紙を投函するときの
弾む想い。
帰宅して真っ先に郵便受けを見て
手紙を見つけた時の喜びは、消えない。

誰の心の中にも、
秘めた炎のような思い出があって、
ふとしたきっかけでチロチロと燃えたり、
それを懐かしく見つめる時があるのではないだろうか。

レトロなポストは真朱の炎。
「なおみちゃん」は、元気でいるだろうか。

散る花びらのゆくえ。

旅先で見た一瞬の光景が、
忘れられないことがある。

一斤染(いっこんぞめ)は、
紅花で染めた淡い紅色をさす。
一疋(いっぴき・二反)を
わずか一斤(約600グラム)で
染めることから、この名がついた。

平安時代、濃い紅花染めは
高価であるため、身分の高い人しか
使用の許されない「禁色」だった。

しかし、うすい紅色ならば、
低い階級の人々も使用が許されたため、
色の薄さを量的に示した
「一斤」をつけた
一斤染の色が生まれたのだ。

当時の人々は、少しでも濃い紅色を
使いたいと願い、憧れたという。

つまり、一斤色は、
人々の要望から生まれたのではない、
身分による線引きの色と言えるかもしれない。

時は流れて、今、一斤色を見ると、
紅色よりも、ひかえめな優しい色合いに
心和み、安らぐ気がする。

桜の花も、二分咲きあたりだと、
空の色によって色味が淡く、はかなげに見える。
満開になる頃に、花全体が
大きく膨らむように一斤染へ染まっていく。

去年の春、富山を旅した時、
桜の時期は過ぎていた。
桜はもう見られないものと思っていた。

ところが、宇奈月温泉駅へと向かう列車で
ぼんやりと窓の外を眺めを見ていると
美しい緑色の自然の中、
一本の満開の枝垂れ桜を見つけた。

雄大な景色の中に、たっぷりと枝を
広げて咲いている桜は幻想的にも見えた。

はっ! と気づいて急いでスマホで写真を
撮ったものの、それがどこの駅だったのか
全く記憶にない。

夢のような景色だった。
偶然にも、その日、その時が満開で、
また乗っていた車両が、
桜の目の前で停まってくれたのだけれど。
待っていてくれた…そんな気がした。

毎年、桜の時期は写真を撮りに行く。
桜の写真は、どれも、特別な時間を映す。
楽しい非日常。
その楽しさは、旅と少し似ている。

今、私たちは、
新型コロナウィルスの感染拡大によって、
予想もしなかった非日常の中にいる。
旅のように、出発した覚えもなく、
この日、ここから、という線引きもなく、
気がつけば放り込まれ、
いつ戻れるかもわからないような非日常だ。

一斤染は、紅色に憧れながら、
使うことを許されなかった人々が、
紅色に憧れて生まれた色。
人々が望んで出来た色ではなかった。
望まれず生まれた色なのに、
その優しく愛らしい色合いが、
春の色として、今では好ましい色になった。

長い年月、さほど愛されずにきた時間を
耐えて、あり続けて、待ったから
今、こんなに愛される色なのだろう。

待てないこともあるけれど、
待つしかない時もある。

一斤染のように、
車窓で見つけた遠い街の一本の桜のように、
待つことの切なさ、大変さ、重みを想う。

意思のままでも、そうでなくても、
流れて行く時間の中で生きていくのなら、
隣り合う人、つながる人と、
語ったり、力をあわせたりして、
できるだけ明るく流されていきたいと願う。

どこかで待っていてくれる、
ひと、時、場所が、明るいものであるように。
いつかまた、光の中で、
一斤染の散る花びらの行方を見たいから。

灯りをつけましょ三月に。

弥生(やよい)、嘉月(かげつ)、花見月(はなみづき)…。
三月は美しい異名を持つ。

紅緋(べにひ)色は、冴えた黄みの赤色。
古代、茜染で作られた緋色(ひいろ)は、
平安時代より重ね染めが行われ、
より鮮やかで赤い、紅緋色となった。
それは、神聖な色として、
巫女さんの袴の色にも使われる。

現在の「緋色」と言えば、この色をさすと言う。

今年は、三月になっても
ひな祭りの曲も聴かれず、
うっかりと忘れていた。

二月の末に宮崎の飫肥(おび)という街に
出かけて、あちこちに雛人形が
飾られているのを見かけた。
そこでやっと、
あぁ、桃の節句が近いんだ…と、
思い出したのだった。

人形を飾る雛壇に敷かれるのは
緋毛氈(ひもうせん)。
緋色は生命力を意味し、
魔除けの効果を期待できることから
この色が敷かれると言う。

私の雛人形は、男雛と女雛、
別々にもらったものだった。
金屏風、雪洞、緋毛氈も、別々にやってきたもの。
けれど、こじんまりとして、とても好きだった。

毎年、床の間に飾られていたが、
ある時、その部屋に応接セットが
置かれることになり、
雛人形は椅子に隠れて
見えなくなってしまった。

学校から帰ってきて、床の間の前に
寝ろこんで、いつまでも眺めていた。
隠れたつもりはないけれど、
宿題やお手伝いをサボっている、
と叱られた。

五段飾りの雛人形には
特別な憧れがあった。
友達や近所の家に
五段飾りの雛人形があると知ると、
見せてもらいに行っては
人形の着物、小さなお道具を、
一つ一つ飽きることなく眺めていた。

飫肥では、あちこちの家々に
様々な時代の雛人形が
工夫を凝らして飾られていた。
雛飾りや、明治の頃のままごと道具も
紅緋色に映えて、
一日中見ていられるような
細やかな美しさに心打たれた。

暮らしに役立つものでもなく、
おもちゃにして遊べるものでもない
雛人形。

子を想い、大切に保存されてきたから、
今、こうして見ず知らずの私も見せてもらえる。
雛人形は、親の願い、愛情、祈りの形だなぁ
と、しみじみ思った。

人形飾りを見て、庭園をまわり、
ふと見上げると、高く大きく枝を広げた木が見えた。
「あれは何の木ですか?」と、
園内を歩いていた受付の女性に訊くと、
「あれはねぇ、桐の木。
 ほら、タンスにする木の。
 大きいでしょう。
 昔は娘が生まれると、この木を庭に植えて
 タンスにして嫁入り道具にしたんですよね」

改めて見上げると、確かに枝の先が、
花札などで目にする桐の花の形をしている。

しばらくぼんやり眺めていた。
「親の願いですよねぇ」と、その人は言った。
「ほんとに」それ以上の言葉がなく
また、二人で黙って見上げていた。

今日、どこかで植えられた苗が
こんなに大きな木になる時、
今の悩みや煩いが、小さなものと
なっていますよう…そう静かに祈った。

風にしなる枝は、流れる時の
重さ、優しさに吹かれながら、
大地に広がる根の強さを信じている。

未来を信じよう。
さぁ、美しい三月が始まる。

時にあらずと声立てぬ色。

春が近いからだろうか。
夕暮れを歩いていると、
「さようなら」が空気の中に
しっとりと含まれているような気がする。

緋褪色(ひさめいろ)は、
明るく渋い赤色。
真紅の緋色を薄めた、
穏やかな温かい色だ。

二十代前半に、会社を辞めて、
しばらくIT関係の小さな会社でアルバイトしていた。
私の仕事は、なんでも係。
その日も、ゴルフコンペのメンバー表と
景品を持って、コンペ後の懇親会となる
飲食店に出かけた。

小さな白いビルの二階の店。
建物横の階段から入るのに
昼間は一階のインターホンを押す。
その店には、何回か連れてきてもらったことがあった。

美人のママは、離婚後離れて過ごしていた愛息と
最近、一緒に暮らすようになった話を
まるで漫談のように話す、話し上手な大人の女性。
ちょっと憧れていた。

「あんたが来たん? 」
と招き入れてくれたママに冷たい飲み物を
ご馳走になり、あれこれ話すうちに、
心ほどけて恋愛相談を始めてしまった。

黙って、話を聞いてくれたママは、
「まぁ、ウサギが好きや言う人に
 カバを好きになれ言うても無理やな」
で、話が終わってしまった。
……わたしは、カバ…?

キョトンとしてる私を無視して、
親子で昼まで寝てしまい、保育園サボったとか、
あんまり言うこと聞かない息子に
「別れるで」と言ったとか。
そんな話で笑わされて、相談を続けられなかった。

バカな小娘の話につきあってられない、
と突き放されたことと、
自分の弱さ、幼さを
見抜かれた恥ずかしさがあった。

と、同時に、
余計なことは言わない、
大人の女性のかっこよさを感じた。

年の暮れの接待の二次会に
ママの店へ行った。
その日は、ママがいつもより華やいで見えた。
Nさんという壮年の男性の隣に座り、
御髪が寂しいのをネタにして
裸電球! 100ワット!
と、はしゃいでいた。

Nさんは、落ち着いた雰囲気の楽しい人。
みんなの人気者のようで
後からお店に行った私たちも
Nさんとママを囲んで大笑いした。

夜も更けて、Nさんが
一足先に帰るわ、と席を立った。
ママも見送って、席を離れた。

するとNさんのテーブルに
ハンカチが忘れてあり、
急いで二人の後を追いかけようとすると、
上司のSさんに「行くな!」と言われた。

意味もわからず、出口を出て、
階段を見下ろすと、
Nさんとママが寄り添う影が見えた。
ママは泣いているようだった。

Sさんが、後ろからやって来て
「Nさんは末期がんなんや、
 年明けに入院したら、家族の手前
 ママはお見舞い行かれへんから、
 今日が最後なんや」
とおしえられた。

Nさんとママの二人の想いも気づかず、
何も考えずに追いかけて行こうとする
自分の鈍感さに恥じ入りながら、
ハンカチを元のNさんの席に戻した。

Nさんを見送ったママが帰ってきた。
「もう~! 100ワットはまぶしすぎて、
 目ぇやられたわぁ~」と、笑っていた。
ハンカチはテーブルの上からなくなっていた。

年があけて、次のステップに進むため、
私は、そのアルバイトを辞めることにした。
家族のように大事にし、
本気で育てようとしてくれた人たちを落胆させた。
「後足で砂かけるように、辞めるのか」
と言う人もいた。

自分でも、
わがままを貫くことへの自己嫌悪があった。

引っ越しも決めて、その準備に追われるある日、
ママの店の前を通った。
準備中の時間だった。
さようならを言っておこうかな…
そう思って、インターホンの前に立った。

叱られるか、嗤われるか。
余計なことは言わず、いつも通りか。

迷った末、店の前を通り過ぎることにした。

Nさんがハンカチを置いていったように、
私もさようならをここに置いていこうと決めた。
いつかまた、さりげなく忘れ物を取りに来たように
訪れようと思ったのだ。

二月の風は冷たく、夕暮れは美しかった。
ほんのり春を感じる、
緋色が醒めた優しい色。

お別れの言葉も、目にした夕暮れも、
やがては溶けて胸の内に馴染んでいく。
ゆっくりと春になるのを待とうと思った。

その後、ママのところには行っていない。
春は名のみの、遠い日の記憶だ。

染めて、守って、引き継ぐ色。

山形の秋は、関東よりも早く進んでいて、
吹く風は、キリリと冷たかった。

代赭色(たいしゃいろ)は、
黄色みの強い赤褐色。
「代」は、赤土の名産地、中国代州の地名から、
「赭」は、赤いものを意味する。

朝早いバスで山形に着いて、
まず訪れたのは旧県庁舎である「文翔館」。
復原された大正の洋風建築だ。
じっくりと見て回り、帰ろうとしたところ
「ガイドはいりませんか? 」。
と、矍鑠としたボランティアガイドの紳士に声かけられた。

見せたいもの、知ってほしいことが
この建物の中にはいっぱいあります、とのこと。
その明るさに、ワクワクするものを感じて、
もう一度見て回ることにした。

まず、一旦外に出て、その地形から
山形の歴史、街づくりの経緯を熱く語られる。
ほんのりとお国言葉が聞き取れて、
この地に来た嬉しさがこみ上げる。

建物内に入り、
施された装飾の意味、
復原に当たっての苦労について聞く。
触ることがためらわれた、
古い変わり窓なども全て開けて、
つくりについて説明してもらった。

建物に使われている煉瓦、
室内の暖炉、寄木貼り、家具。
そして、窓の外の木々の葉も枯れて、
秋らしい代赭色にあふれていた。
暖房もついていないのに、
どこか暖かい。
まるで代赭色に染める鍋に
放り込まれた気分になっていた。

ある部屋に山形の川に浮かぶ船の絵が飾られていた。
それを見て、
川が街の発展にどれほど大切だったかという話と、
ガイドさんの子供時代の川遊びの話を聞いた。
とてもおおらかで、楽しい話だった。

それは、
この建物でかつて働いていた高等官たちと
市井に生きる人たちと、
共に同じ山形という地で生きた人たちの話。

一人で来ていたら見ることもなく、
知らずに帰っていたエピソードまで聞けて、
驚いたり感心したりのひとときだった。

ちょうどお昼になり、別の場所に行きます、
というと、地図を出して、観光案内よろしく
あちこちの見どころを教えてくれた。
お昼は、ここがとってもおいしいです、と
うまいもの情報も。

また来てね、と
見送ってくれた笑顔は、郷土愛にあふれていて、
とても爽やかに、旅する背中をポン! と
押された心持ちになった。

その街にずっと暮らし、その街を愛し、
来る人を歓迎し、見送ること。
それを続けていく。

どんな大きな建物も、時が経てば、
少しずつ傷み、朽ち、弱っていく。
だから、丁寧に手入れし、守り、愛していくこと。
それを続けていく。

続けていく人間だって、時が経つと
老いて、弱り、いつか消えていく。
だから、伝える、愛情を育む。
そうすることで建物、文化、郷土愛は、
受け継がれ、守られていくのだろう。

ガイドさんが教えてくれたのは、
山形の文化であり、ご自身の郷土愛であり、
続けていこうとする情熱なのかな…
そんな気がした。

たくさん笑った後、冷たい風の中でも
頬がホカホカと熱く、火照っていた。
きっと、代赭色に染められたのだろう。

ところで、帰りに聞いたおいしいもの情報。
勧められたお蕎麦屋さんで、
あぁ、おいしかった! と、
満足し、改めて箸の袋を見ると、
なんと、おそわった店ではなかった。

あらら。と、思ったが、もう満腹。
また、山形に来なくては、と思った。

秋。眠かった時間に導かれ。

紅葉色(もみじいろ)。
晩秋に色づく楓の鮮やかな赤色。

ずっと行きたいと思っていた
岩手県の平泉へ行った。
早朝に平泉の駅に着き、
まだ誰も歩いていない街を歩いた。

案内版が見つからず、
途中、洗濯物を干すおじさんに道を訊くと、
「何もない跡地にがっかりしないで。
 “夢の跡”だからね。」
と、土地の訛りの混じった
優しい言葉で教えてくれた。

高館から北上川を眼下に見た後、
中尊寺に行く。
広い境内を、のんびりと歩きながら、
この平泉、中尊寺の名前を初めて知った
中学時代のことを思い出していた。

中学三年の時だったか、
好きだった国語の先生が、妊娠中の体調不良により
長期休職されることになった。
いつも明るく元気な先生の代わりに
H先生という若い女性教諭が来られた。

H先生は、初めて教室に入って来た時から
不機嫌そうな表情だった。
眉間にシワを寄せて、決して笑わない。
男子がふざけて話しかけても、「静かに!」と、
言って淡々と授業を進めた。

余談が多くて、笑うことの多かったそれまでの
国語の授業と比べると、つまらなかった。
ちょうど、その時に「おくのほそ道」の
授業で、来る日も来る日も、全員で音読させられた。

あくびをかみ殺して、ウトウトとしながら、
心ここにあらずで読んでいた。
音読よりも、これにまつわる面白い話を
聞かせてくれればいいのに…と不満だった。

H先生は、授業中はもちろん、廊下で出会っても、
いつも怒ったような顔をしていた。
話しかけづらく、苦手だった。
だから、余計に授業がつまらなかった。

けれど、実際に中尊寺を歩いてみると、
あの日、何度も何度も音読させられた文が、
胸に鮮やかに蘇ってくるのに驚いた。

経堂、金色堂へと向かう途中、
太陽を背に受けて、現れた自分の影が、
音読に飽き飽きしている中学生の自分の姿に
見えて、一人笑いを浮かべていた。

初めて来たのに、懐かしい。
そう思えたのは、あの日のH先生の
教えのおかげだったのだ。

笑わないH先生だったけれど、
ある日、男子の珍回答に
ふっ…と一瞬笑って、
すぐに表情を厳しくしているのを
見たことがあった。

あ、笑うんだ。
笑顔、美人なのになぁ。
そう思ったのを覚えている。

まだ青さの残る楓の葉の中の赤い色。
紅葉色。
これは、あの日の教室のH先生の色。

今思えば、H先生は、
体は大きくても、
心も知識もまだ青い生徒たちに、
舐められないよう、
授業をきちんと進められるよう
孤軍奮闘されていたのだろう。

受験を控えた中学生に、
きちんと知識を与えること、
授業を全うすることは、
一人、血が逆流するような怒りや
不安や苦労があったことだろう。

金色堂は、教科書で読んで想像したよりも、
ずっと煌びやかで、豪華で、
素晴らしいものだった。

忘れたと思っていたけれど、
あの日の暗誦した文や、記憶は、
美しいまま残っていて、
ここに導いてくれた。

「五月雨の降り残してや光堂」

まるで光のような記憶。
汚されず、朽ちず、
美しいまま心に残った景色、文。
名前も忘れてしまった先生だけれど、
心の中で、感謝を述べた。

暗い堂内を出て、
改めて眺める金色堂。

見えていなかったことが
光を得たように見えた喜びがあった。
その背景には紅葉色。
秋に来たことを忘れないで、と燃えていた。

すっぱさが広がる色。

久しぶりに食べてみたくなって、
「お取り寄せ」をしてみた。
ふっくらとした、
懐かしい色の梅干しを。

蘇芳(すおう)色は、くすんだ赤。
蘇芳(すおう)とはマメ科の植物で、
それを用いて染めた色であることから
この名がつけられた。

「すおう」という響きにも、
酸っぱさを感じて、
この色を見ると梅干しを思い出していた。

母は、毎年、梅を漬けていた。
家業の機織りをしながら、いつどんなふうに
干したり漬けたりしていたのか、
見た記憶はない。
けれど、毎年、蘇芳色に見事に染まった梅干しが
食卓に上った。

梅干しのついでなのか、
梅酒も作っていた。

高校三年の時、テストの一夜漬けが続いて、
目が冴えて眠れない夜に
初めて梅酒を飲んでみた。
最初の一杯は、薄めを恐る恐る。
── 全く眠くならない。
二杯目は、もう少し濃く。
三杯目は、さらに濃く。
四杯目からは、氷だけのグラスに梅酒…。
すっかり気分良くなり、
高らかに笑いながら部屋に帰り、
ぐっすりと眠った。

これは、とんでもない大酒飲みの誕生だと
父を震え上がらせた。

いつも台所の隅には、
梅の漬かった大きな瓶が並んでいた。
病気の時は、おかゆさんに。
遠足のおにぎりに。
梅干しは、優しい常備薬のような
頼もしい食べ物だった。

七月の暑い日に、父が急逝した。
弔問に来てくれた近所に人たちに
母が「今年は漬けた梅干しにカビが生えたから…」と
話していた。
当時、私は知らなかったけれど、
梅干しにカビがはえるのは「不吉な兆候」
とされているものだった。

それ以来、梅干しは悲しい食べ物になった。

母はその後も梅を漬けていた。
大きな瓶が遠く離れた街に住む
私のところに届けられた。
赤紫蘇に漬かった梅干しは、棚の奥にしまい
やがて少しずつ古漬けの茶色になっていった。

「蘇芳の醒(さ)め色」という言葉がある。
鮮やかな色なのに、褪せやすい特徴があり、
褪せた色も含めて、この色の味わいであるという。

子供の頃、瓶を眺めても美しかった
蘇芳色の梅干し。
茶色に褪せたものは、
口にすると、どこか頼りないような酸味が
また悲しかった。

先日、友人たちと湘南へ行った。
初夏の暑い日に、海を眺め、浜辺を歩いた。
まだ暑さに慣れておらず、
大量の汗と強い陽射しは、身にこたえた。
そこに、友人が小梅の袋を開けて、
「はい !」と
差し出してくれた。
口に入れると、程よい酸味が広がって、
身体にいいものが入りましたよ、
と、力を注がれたような喜びがあった。

遠足のおにぎりに入っていた梅干しを思い出した。

たくさん歩いて、いっぱい笑って、
そして、差し出してくれた袋から小梅を取り出す。
すっぱーいっ! と言いながら、また大笑いしていた。

「ええ塩梅だ」は、その年の梅の
つけ具合を確認する言葉だった。

結局、梅を漬けることのない大人になってしまったけれど、
悲しいことも、嬉しいことも、
共に味わい、ええ塩梅に人生を楽しんでいる。

取り寄せた梅干しは大当たり。
好きだった酸味と口当たりを、
思い出させてくれる味だった。

暑さの中、
鮮やかな蘇芳色の梅が、
「ほら、元気出して!」
と、再び、日々の食卓に上っている。