みっつの、しろい贈り物。

初めて感動した写真集は、
プリンスエドワード島」。
友人からのプレゼントだった。

素色(しろいろ)は、
天然のままの絹の色。
繭から取り出したばかりの生糸の色で、
これを漂白して、白色になると言う。

サブタイトルが、
「世界一美しい『赤毛のアン』の島のすべて!」
というプリンスエドワード島の写真集は、
子供の頃から憧れていた島の、
四季折々の景色がたっぷり見られた。

雄大な緑の景色に現れる、
建物や花の、まぶしい白。
とりわけ心惹かれたのは、
島をまるごと白い世界に
染めてしまう雪景色だった。

何度も何度も見ているうちに、
島を訪れることはできなくても、
私もこんな景色を撮ってみたい…。
そう思うようになった。

数年後、操作もカンタンな
コンパクトカメラを入手して、
撮ったものをSNSに載せるようになった。

その年に、
あすのとびら
という写真集を
別の友人が贈ってくれた。
ページを開くと
怖いほど美しいオーロラと雪景色。

凍える寒さに包まれる雪世界の写真は、
澄んだ美しい空気も感じられた。
それは、私など絶対撮れない景色。

行けないところばかりある。
できないことばかりある。

ちょっと、そんなふうに
すねていた時期でもあった。

その本は、写真詩集。
眺めていると
夜明けの雪景色に、心に止まる言葉があった。

「あるがままのじぶんをうけいれて」。

素色の「素」には、
「ありのまま」の意味がある。

素顔、素直…
「素」には、歳を重ねて、どこかに
置いてきた色があるように思われた。

その後、
カメラを買い替えたり、もらったりして、
ちょっと機能性あるものも使えるようになった。

そんなとき、また別の友人から贈られたのが、
白い表紙が美しい本、
愛の詩集」だった。
初めて「この人の撮る写真が好きだ」と、
写真家について調べ、
その人の作品を次々に鑑賞した。

遠くに行けなくても、
いつもの街、少し離れた場所で、
はっ! とする写真は撮れるのだと
教えられた。

そして、
こんなふうにはなれなくても、
こんなふうになれたらいいな、
と、ブログを始めることにした。

三冊の本は、
やさしい友人たちが、
それぞれ別の時、
別の想いで
贈ってくれたものだった。

受け取った時は
ただの点と点、
バラバラに存在していた。

けれど、何度も眺めているうちに、
それらの点がつながり、美しい丸となって
私を静かに動かしてくれた。

「素」には、「根本になるもの」の意味もある。
私の根本、土台となる三つの出会い。
贈ってくれた友人たちに、心から感謝したい。

受け取ったのは、ものだけではない。
言葉や、視線や、想いなど
目に見えないものが、
私に色を与えてくれたのだ。

振り返ると虹のような景色に見える。

今年も、もうすぐ暮れようとしている。
日々を後ろへ、後ろへと見送って、
虹のように鮮やかだった日々も
少しずつ消えようとしている。

消えてしまっても、
残した写真と
その時々の想いは残る。

年々、経験を重ねても、
素朴な色を忘れずに。
色を重ねても、
素である、自分の天然の白い色を
失わずに行こう。

新しい年を楽しみにして。

咲く白、置く白、羽ばたく白。

わからないから怖いこと。
知っているから怖いこと。

夏の終わりとともに、
怖いことも、
では、さらば! と別れたいのだけれど…。

白和幣(しらにぎて)は、
カジの皮の繊維で織った布の白い色。
和幣(にぎて)とは、神に供える布のことを言う。

20代の頃、まだ一人暮らしをしていた時に
風邪をこじらせた。

薬が効かない…。
気管支が弱かったこともあり、
熱も出て、咳も悪化していった。

深夜にひどく咳き込んだ時、
息が吸えなくなった。

布団の中で、強く目をつむり、
このまま息ができなくなるのかな?
という苦しさに襲われた。

ぎゅっと、強く目をつむっていると、
白いぼんやりした形が見えた。

いくつの時だっただろう。
小学生になったばかりの頃か、
家族で山に登った。

大きな白い百合を摘んで
上機嫌で歩いていたが、
下山の時、足が痛くなって、
父に背負ってもらった。

手にしている百合が
父の顔に当たり、
匂いにむせるからと、
山道の脇の草むらに、
置いていくように言われた。

美しい花を手放すのは、
とても惜しかったけれど、
もう歩けないから…。
と、泣く泣く置いて帰った。

咳がひどくて息のできない時、
瞼にぼんやり浮かんできたのは、
その時の百合の花だった。

生き生きと咲いていたのに、
手放す時は、大輪のまま
哀しそうに萎れていた。

いつも徹夜、不摂生も、
ものともせず、
走り回っていたのに。
今や、心細く布団にくるまって
息も絶え絶えに萎れている…。
そんな自分の姿と重ねた。

このところ、
自宅療養をして苦しむ人たちの
ニュースを見ると、あの日の自分を
思い出す。

息ができなくなる苦しさ、恐怖。
一人でいることの、心細さ。

知っているから理解でき、
それだけに怖くて、胸が痛む。

どんどん変異するウィルスが
これからどうなるのか。
それもわからなくて、怖い。

しかし、
恐怖に身を縮めていても、
完璧に避けることはできそうになく、
ウィルスがこの世からなくなることも
ないようだ。

理解して、用心しながら、
少しずつ前に進むしかない。

息ができずに、
「死」を意識した瞬間に
思ったことは、
── まだ出会うべき人がいる。
  出会うべき時がある。
  生きたい、出会ってみたい──
だった。

その願いは切実で、
生きようとする力をくれるものだった。

遠い日に、泣きながら
置いて帰って百合のように、
前に行くために手放さなければ
ならないものがある。

あの時、父は
「捨てるんと違う。山に返しとくんだ」
と言ってくれた。

山に供える気持ちで、
そっと、踏まれないように、
置いて帰ったことを思い出す。

和幣(にぎて)は、神に祈る時、
榊の枝につけて捧げる、祈りのしるしのような
神聖なもの。

その白い和幣(にぎて)のような
百合を捧げて、
今は返しておく、
でもまた、会いにくる…と、
願いをこめた。

これからのウィズコロナという時代を
生きていくために、諦めることも
多くなるだろう。

そう考えると、暗く沈む思いになる。
それでも、「いつか必ず」と、
希望を持って、生きていく。

見上げる空は、秋の色。
秋の風は「色なき風」と言う。
まだ色のない、どんな色にも染まれる風。

そういえば秋の異称は「白秋」。
白い季節だ。
清らかな風に、
彩り豊かなたくさんの祈りをのせて
心を、願いを、羽ばたかせよう。

いつか見た白、見たい白。

「白梅にあくる夜ばかりとなりにけり」
梅の花を見て、
この句の光景を思った。
与謝蕪村、辞世の句だ。

鉛白(えんぱく)は、鉛から作られた白い粉の色。
古代から白色顔料として用いられた。
人間の美肌の色として、とても美しく見えるため
ルノワールも女性の肌を描くのに使用したという。

そんな人の心を惹きつける色なのに、
小さな鉛がポトンポトンと
重く響いて落ちる色にも見える。

おひさまが白く眩しい、
小学校低学年の春休み、
遠方に住む母の妹、M子おばさんが、
私より五つ年下の息子Hちゃんを連れてやってきた。
M子おばさんは離婚したばかりだった。

長い滞在だった。
父方と母方の親戚は仲が悪く、
父は不機嫌だった。
ある日、
父の妹家族がうちに来ることになり、
急いで、M子おばさんとHちゃんと私の三人で、
映画に行くように命じられた。

父は、妹家族が来るのにM子おばさんがいては
具合が悪いと思ったらしい。

汽車に乗って二駅先の映画館。
時間も中途半端で、興味もない
字幕つきの映画だった。
まだ、字幕が読めない私とHちゃんは、
何て言ってるの? と何回もM子おばさんに訊き、
「いいから黙って観てなさい」と叱られた。

Hちゃんは飽きて、
「帰りたい」と言い出した。
仕方なく、貸切のような映画館の中を
追いかけっこしたり、お菓子を買ってもらったりして
時間をつぶしたが、私だって帰りたかった。

閉館時間になり、M子おばさんは家に電話する。
…まだ帰ってきたら、あかんのやって。
不機嫌そうに私に言う。
夜も深まり、眠い、帰りたいと
駄々をこねるHちゃんと
辺りをぐるぐると歩いた。

私もくたびれてきて、言葉も尖り、
甘えるHちゃんに冷たく当たってしまった。
すると、M子おばさんが
「あんたはお父ちゃんもお母ちゃんもおるし、
 この子の気持ちなんか、わからへんやろなぁ」
と、寂しそうに言った。

帰れない三人で
電話ボックスの近くに座り込んで
空を見上げた。
星なのか、梅だったのか、
白いポツポツとした美しいものを見た記憶がある。

早くに親を亡くした父は、
妹に対して親のような想いでいたのだろう。
両親健在の母にその気持ちはわかるまいと
思っていたようだ。

母は、いつまでも妹に心が向き、
自分を見てくれない妻の気持ちが
わかるまいと思っていたのだろう。

父や母だけでなく、
M子おばさんも私もHちゃんも、
みんな、何かが足りなくて、
それをわかってもらえない寂しさを
抱えていたのではないだろうか。

数年前、その映画館の辺りを歩いてみた。
すっかり様子が変わっていて、
あの日、座り込んでいた電話ボックスもなくなっていた。
あれもない、これもなくなった…と
歩いていくと、
昔、存在すら知らなかった川や神社を見つけた。

ないものばかりに捉われていると、
見逃してしまうものがある。

鉛白は、美しい白さを作る鉛ゆえの
毒性を持つ。

自分の手にできなかったものは、
白く美しく輝いて見える。
毒があるとしても、手に入れたくなる魅力があるのだ。
白い梅に、そんな魔力を感じて、少し恐れを抱く。

遠い日に、星か、梅かと思った
白い煌めきを思う。
それは、蕪村がこの世を去るときに
詠んだ白い梅の美しさに近い気がする。

蕪村は晩年、若き芸妓との恋を
弟子たちに咎められ、別れることとなった。
けれど、寂しさも、恋心も、
人の心に咲くものは誰にも止められない。

ポツポツと咲く梅の花は、
静かで可憐。
人生の秘密を知っていて、
また春が来たよと、
微笑むように咲いている。

おなかの中で、光る珠。

どんよりとした気分の時、
一瞬にして世界の色が変わった。
そんな出会いはないだろうか?

魚肚白(ぎょとはく)色は、
青みがかった明るい灰色。
魚の肚(胃袋)の色に似ていることから
この名がついたという。

関東に引っ越してきて、
仕事を始めたばかりの頃のこと。
東京の電車の数に面食らいながら、
お客様のところへ向かう車内。

電車は間違っていないか、
無事に目的地に着けるのか、
何より、仕事はうまくいくのか。
不安と気の重さで、うつむいていた。

あれは、中央線だったと思う。
乗り換えて、空いた席に座り、
やれやれ…と顔を上げると
向かいの席に、
あれ?
この世にはいない、父がいる!?

窓から射す、午後の陽射しと
空の淡い青が溶けた
魚肚白色の光の中に、
父が座っていたのだ。

その人も、私を見て驚いてる。
お互い「あっ!」と声が出た。

父にそっくりの人は、父の兄、
横浜在住の伯父だった。
あまりの偶然に驚きながら、
伯父は隣の席に移動して、
しばし近況を語った。

数年ぶりに会った伯父は、
思ったよりずっと父に似ていた。

懐かしく、嬉しく、
心がほどけるひとときだった。
暗く、重い表情の私に
空から父が、ヒョイっと伯父を
よこしてくれた。
そんな優しいイタズラに思われた。

入社一年目の夏の終わり。
仕事がうまくいかず、
その日も深夜まで残業。
ヘトヘトになって、
憂鬱になって、電車に揺られていた。

誰もが疲れ果てている車内。
最寄り駅まで、まだだなぁ…と
顔を上げると、学生時代の先輩が
今まさに降りようとドア近くに立っていた。

私の、はっ! とした気配に
気づいてくれて、先輩は、笑いながら
おいでおいで、と手招きして
いっしょに降りようと誘ってくれた。

ホームのベンチに座って、
なんという事もない、近況を話す。
こぼれる弱音に、学生時代と変わりなく
笑い飛ばされた。

それだけで楽しくて、
無邪気な自分に戻り、
大きな声で笑っていた。

程なく、終電が黒い夜の中を
ほんのりと青白い光でホームを照らし
入ってきた。

それじゃあ、また。

と、学生のように別れた。
職場も遠いのに、たまたま同じ電車の
同じ車両に乗っていたという偶然。

疲れも吹き飛ぶ
驚きと嬉しさだった。
その数分の語らいのおかげで、
さて、明日も頑張るか!
と、力が湧いたのを覚えている。

これも、
父なのか、神様なのか、
遠い空の上から
見守ってくれている誰かの
優しい贈り物のように思えたひとときだった。

日々、瑣末なことに追われて過ごす自分は
とても小さな点だけれど、
時に視点を
うんと空高く、遠いところへ飛ばしてみる。
神の視点で世界を見下ろす。

あの人があそこにいて、
この人はそっちにいて、
自分がここにいる。
その小さくて大切な点を、
ひょいとつまんで会わせることができたら、
どんな喜びが生まれるだろう。

自分の未来を思い描いて、
喜びあふれる瞬間をデザインする。

今は、動けない点でいることが
少しつらい時もあるから、
心だけは、広い世界を見おろしてみよう。
ワクワクしながら想像しよう。

魚肚白色を調べていて、
「南総里見八犬伝」のエピソードを見つけた。

「仁・義・礼・智・信・孝・悌」
それぞれの文字の珠をもった
八人の若者の物語。
その中で、釣った鯛の肚から
「信」の珠が現れる。

「肚(はら)」には、
「表に表さず心に思うこと」
の意味もある。

肚に「信」の珠を持つ。
窓から入る光のような、
暗闇に光るヘッドライトのような。

未来を、
自分の健やかさを、信じる。
それでも、心が弱った時は、
思いがけず与えられた嬉しい瞬間を
思い出しみよう。

嬉しい記憶は光になって
「信」じる尊さの珠を輝かせてくれる。
生きていくことは、光の珠をつなげること。
小さくても、キラリ光る珠をつなげて
生きていこう。

そう肚を決めることが
明日につながる気がする。

流れつづける糸のように。

今年は二度、
滝を撮りに行った。
勢いのある水が、
段差のある下へと落ちて流れる。
その姿は、
汚れのない白い絹糸が、
まっすぐに、時に風に煽られながら
美しい流れを作っているように見えた。

生絹(すずし)の色は、
白い絹糸の色。
生絹(すずし)とは、まだ練らないままの絹糸、
生糸(きいと)のことをいう。

滝を見るのが好きだ。
変わらないように見えて、
実は一滴たりとも、
同じ水が同じ場所に流れていない。

勢いがあって、清冽で、
眺めているこちらの心の中の
澱までも流されていくような思いになる。

つらいニュースに心が重くなった日には、
勢いよく流れる滝を思い出す。
嬉しいことがあった日には、
光を浴びて輝く流れを思い描く。

滝を見つめていると、
自分はここから湧き出て、
この下に落ちてゆくのだ。
という強い意志を感じる。

どんな邪魔が入ろうとも、
突き進んでみせる勇姿にも似て。

続けていくことで、汚れ、濁ることもある。
けれど、次々に湧いてくるものが清らかであれば、
それらは洗い流される。

流れていた生絹(すずし)は、
激流に呑まれ、時間に揉まれ、
やがてしなやかな絹糸になって、
遠くの川や、海を、
空の色に似た
美しい絹織物にしてくれるのかもしれない。

今年は、時間も暦も季節までもが
勢いよく、流れ去って行った気がする。
光や水のようにつかんだつもりが、
何もつかめなていなかったような悔しさもある。

それでも、その中で、
始めたこと、愚鈍に続けたことがあった。

その一つが、
体力の低下を感じて始めた、筋トレ体操だ。
もともと身体を動かすことは苦手だった。
筋肉痛があったり、ちょっと体がだるい日など
やめたいな、という日もあった。
けれど続けていくうちに、
体力、筋力がついてきて、
あれを頑張ってる私なら大丈夫。
と、自信が持てるようになった。

それだけではない。
苦手なことを続けられる
自分への信頼ができた。

始めた当初は、
足も腕も思うような形にならない、
弱々しい筋力だった。
でも、今できることをやる。
続けてみる。
期待も落胆もなく、無理はせず。

すると、少しずつ、できるようになる。
身体が、心持ちが変わっていく。

それは、カメラを始めた時に感じた
自分にだけわかる小さな成長にも似ていた。

続けないと、行けないところがある。

今は小さな水滴にしか見えないこと。
それがいつか、少しずつ水量を増やし、
勢いを増して、やがて何かを起こすかもしれない。

今、ここには見えない、
遠いところ、遠い先の時間へ。
その景色を想像すると、広大さに圧倒されながら
ゆったりとした安心感に満たされる。

今日決めたこと、
今日行ったことは、
明日につながっていく。
やめないでいこう。

今は見えない未来は、
どこに流れていくのだろう。
どこに流れるとしても、
機嫌よく、明るくいられますように。

いろんな不安も心配も抱えたままでいい。
弛まなく流れていこう。

生絹の糸のように、
白く、強く、しなやかに。

想い出を、注いで澄ます器の色。

錫(すず)のぐい呑を買った。
お酒の味が澄んでまろやかになる、
と聞いて、どうしても欲しかったのだ。

「錫色(すずいろ)」は、銀色に近い明るいねずみ色。
光の中で、控えめに輝く色だ。

先日、母の見舞いに大阪に行き、
深夜、母の部屋の引き出しの整理をした。
すると棚の奥に、たくさんの写真が
無造作に入れられた紙袋を見つけた。

現れたのは古いモノクロ写真。
独身時代の父のものだった。
青春真っ盛りの父が、友人たちと
少し照れながら写っている。
バラバラに押し込んであったので、
時系列はわからない。

グループで写っている写真の中に、
父ひとりだけ、前列の女性の両肩に
そっと手をのせている一枚を見つけた。
美しく、優しく微笑む人だった。

その人とは他のグループ写真にも、
近くにいて写っているものが数枚あった。
…お父ちゃん、恋してたんやなぁ。
我知らず微笑んでいた。

海や山で遊ぶ父、時には演劇もしている父。
私の知らなかった姿がたくさんあった。
と、そんな写真の束の中に一枚の
色あせたハガキを見つけた。

差出人は女性。
美しい文字、サラサラと流れるような文章で
父の結婚へのお祝いの言葉と、
近況が書かれていた。
赤ちゃんがまだ小さく、手がかかって大変だけれど、
とても可愛い、と。
「貴方も子宝に恵まれなさいませ」。
その一文に、目がとまった。

生前、父から、どうしても叶わなかった恋を
あったことを聞いていた。
詳しくは知らないけれど、
色々な事情があったのだろう。

叶わなかった恋は、ずっと続くのか…。
大切な思い出として語る父の姿に、
ふと、そんなことを思ったのを
覚えている。

錫色は別名「銀鼠(ぎんねず)」ともいう。
銀鼠は水墨画でいうところの
「墨の五彩(ごさい)」の中の「淡」、
二番目に薄い色だ。
この「五彩」とは、墨の濃淡によって
「無限の色が表現できる」という意味。

父の若き日の写真はすべて白黒。
写されたシーンには様々な濃淡があった。
写真も手紙も、
その時、その時の気持ちによって
濃くなったり、淡くなったりして、
記憶の中でさまざまに蘇っていたのだろう。

本人がいなくなった後も、
こうして私に何かを伝えてくるように。

明るく楽しいことばかりでは、
きっと心の色合いの濃淡も、
単調になってしまうのかもしれない。

ハガキの人は、父の好きな人だったかどうかは
わからない。
深読みしすぎだ、と天国で笑っているかもしれない。

けれど、
「子宝に恵まれなさいませ」という一文を
受け取った父の気持ち。
それを書いた女の人の気持ち。
真実はわからないままでも、
叶わなかった恋の最後の手紙だとしたら…
切なく美しく、いつまでも光を放つように思われる。

錫は錆びない金属だという。
叶わなかったから、錫のように
ずっと錆びず汚れず残る想いもあるだろう。

錫のぐい呑の中を覗くと、
銀色に輝く器に、夜の闇が
ひっそりと映る。
静かに飲み干すと、
闇が胸の奥に落ちていく気がした。

滴る色がくれるもの。

関東でも雪予報になった寒い日、
風邪をひいて寝込んだ。
雪の気配のせいか、
小学校を休んだ日のことを思い出した。

蒼白色(そうはくしょく)は、青みを帯びた白色。
蒼白とは、特定の色を指すのではなく、
青みがかかった様子全般のことを言う。
「顔面蒼白」などというように、
蒼白には、不安や恐怖、不健康な響きがある。

子どもの頃は、よく風邪をひいた。
また、学校に行くのが
たまに気が重く感じられる日があり、
そんな日には、
こっそりとコタツに体温計を入れて、
熱のある演技をした。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、
家内工業でもあるからか、
両親は「休むか?」と、欠席させてくれた。

学校を休むとなれば、一日は自由だ。
誰もこない部屋で、うとうとしながら、
マンガを読んで過ごした。

お昼前になると
父と近くの病院に行く。
白い壁と、ほんのり青いリノリウムの床。
病院独特の匂い。
一気に自分の顔色が青ざめて
病人らしくなった気がした。

診察室に入る時は、
いつもドキドキした。
もの静かな先生、
聴診器を当てられる冷たさも
怖くて緊張した。
看護士さんの白衣、
キビキビとした動きも
背筋をすーっと寒くした。

病院から帰ると、再び一人の時間。
茶の間のコタツで寝ていると、
父を訪う人が次々とやって来た。

玄関からまっすぐに土間を抜けて
工場に行けるようになっていたので
客人は皆
「こんにちは~」
と、言いながら返事を待たずに工場に向かう。

物売りの人たちもやって来る。

近くのうどん屋さんが
へぎにのせた茹でたてのうどんを
配達してくれたり、
立ち売り箱にパンや練り物をのせて
売りに来るおばさんもいた。

工場の入り口にあるトイレの前で
そんなおじさんや、おばさんにばったり会うと、
「まあ、おねえちゃん、学校は?」と訊かれ、
悪いことをしていないのに、きまり悪かった。

一人のんびり過ごす自由と、
なんとなく居心地の悪い不自由さの間を
あっちこっちしながら、過ごす一日。

お昼を過ぎると、天気のいい日は
照る陽に温められて、
つららからポトポトポトポトと、
水滴が落ち始める。

下校時間を過ぎると、
その陽射しの中を雪合戦しながら
きゃっきゃと楽しそうに帰って来る友だちの声が
聞こえて来る。

たった一日休んだだけなのに、
懐かしくて、うらやましい、
少し遠くに感じる声。

私の知らないことが、色々あったんだろうな。
おもしろいことあったのかな?
そう思うと、取り残されたようで寂しかった。

「明日は行けそうか?」と
両親に訊かれると、元気に答えていけないと
思いながら、うん、と答えた。

取り戻した健やかさと、隠し持った楽しみで、
きっとその時の私の顔は、
うっすらと赤かっただろう。

蒼白色は、不思議な色名で、
紅みの明るい灰色もさす。
同じ一日、同じ私が、
青の蒼白色から、紅みの蒼白色に変わる。

つららから落ちる水滴も、
光の角度や、見る角度で色が変わった。
色でさえ、同じ名前で違う色を持つ。

たまには、同じものであれ、
ちがうところから見る大切さを
あの時間は教えてくれていた。

見つめていた時間は、
つららから落ちる水滴のように
私の心に何かを落としてくれていたのだ。

ベランダの水滴は、
それを思い出させてくれた。
私は、今もポトポトと滴る時間に
教えられている。

景色に染まる、まぶしい色。

いつか行きたい…
そう思っていた場所に行く。
その喜びが大きいと、つい、
羽目を外してしまうことがある。

雪色(せっしょく)は、
雪の色、雪のような白い色。
とはいえ、単純な白でなく、
紫や紅みがかったりして、
様々な色に見える色だという。

十一月の山形で、
雪を見るとは思わなかった。

目指したのは、蔵王。
小説「錦繍」の冒頭
「前略 蔵王のダリア園から、
 ドッコ沼に登るゴンドラ・リフトの中で、
 まさかあなたと再会するなんて、
 本当に想像すらできないことでした」
という美しい文章に心惹かれて、
いつかそのゴンドラリフトに乗ってみたい
とずっと思っていた。

たとえ、紅葉のシーズンを過ぎていたとしても。

そうして、たどり着いたものの、
「運休中」の看板。
ショックだけれど、落ち込んでいる時間はなく、
すぐに別のロープウェイ乗り場に向かった。

蔵王のロープウェイに乗れればいい。
そう思って、乗り込んだ。

紅葉の時期は過ぎているのに、
朝9時発のロープウェイは満員だった。
あまりに賑やか過ぎて、乗り継ぎの便は
少しあたりを散歩してから乗ることにした。

そして、見上げた行き先に驚いた。
なんと白く凍った木々茂る山だった。

旅に出る前、見るとはなく見たガイドブックに
「蔵王の樹氷」という文字を見たのを思い出した。

まさか、そこに行くことになるとは思いもしなかった。

麓から見ると、白く凍ったように見えた山頂も
近くで見ると、着氷したばかりのようで
太陽の光を浴びて、ぽとぽとと雫を落としている。

美しい!
青空の色や、山の緑が透けて見える雪色が、
ほのかに色を変えながら輝いていた。
雫がダイヤモンドのように光る瞬間もあった。

思いがけない出会いに興奮して、
さらに高く登って見たら、
どんな景色が見えるだろう…。
その好奇心が抑えられなくなった。

そこに、山を撮りに来たと思われる装備で、
熊よけの鈴をつけた壮年の男性が、
展望台のような小さな山に向かって登って行く姿を見た。
よし! と、勝手について行くことにした。

晴れて日が差し、樹氷が溶けて来て
道がぬかるんでいる。
これは、スニーカーの私には無理だったか。
少し焦ったが、
「慎重に、ゆっくりと」と、唱えながら登った。
20分ほどで三宝荒神山の山頂についた。
やはり、来てよかった!
という素晴らしい眺め。

鈴をつけた男性も、あちこち移動しながら
シャッターを切っている。
思い切って「月山はどこですか?」
と、訊いてみた。
「今日は雲が出ていて見えないね」との答え。

そうか、雲の向こうか…。
今回の旅では会えないのか…と、
名残惜しく眺めていたら、その男性は
足取りも軽く降りて行った。

山頂でのんびりしていたら、
晴れて気温が上がり、氷が溶けて
ぬかるみがさらにひどくなっている。

樹氷に覆われたこの山に登る人は少なく、
これは、転んだら誰にも気づいてもらえない。
そう思って、登りよりも慎重に歩を進めた。
それでも、何度か
ぬかるみに足を取られそうになった。

旅先の自然は、いつも予想以上に美しくして、
「あなたが来ようと思うなら、
 その時、一番美しい景色を見せてあげましょう」
そう言ってくれている気がする。

でも、その優しさに調子にのってはいけないのだ。

美しさも怖さも、
まさか出会うとは思いもしていなかったところに
ポッと現れる、襲いかかる。

自然の中では、本当に怖いと思った時は、
すでに遅い。
という言葉を思い出していた。

旅はたくさんのことを知り、学ぶ場では
あるけれど、人に迷惑をかけてはいけない。
旅の出会いは、楽しくなければ。

そう反省しながら、帰りのロープウェイの
乗り口に、やっとの思いでたどり着くと、
数名の救急隊員が
駆け上っていくのに遭遇した。

下山した駐車場には救急車、
担架で救出に迎おうとする隊員が数人集まっていて、
不穏な空気に包まれていた。

どうか無事に救出されますように…。
反省の思いが、人ごととは思えず
心の中で祈りとなった。

美しい景色を見せてくれた蔵王を振り返り、
感謝しながら、「錦繍」という小説は、
生きて、出会うことの喜びを教えてくれたのだった
と、思い出していた。
また、読み返そう。
そして、
次に来る時のために、登山靴を買おうと思った。

田園発、心潤す色。

富山では、どうしても見たい景色があった。
宮本輝さんの小説「田園発港行き自転車」で
主人公たちが訪れる場所だ。

「──私は自分のふるさとが好きだ。
ふるさとは私の誇りだ。」

冒頭、登場人物の“千春”が、生まれ故郷が
いかに美しく、心慰めてくれるかを語るシーン。
彼女の紹介してくれた街の情景に
すっかり魅せられて、
いつか必ず行こうと決めていた。

潤色(うるみいろ)は、濁ってくすんだ色。
灰色やねずみ色ではなく、さまざまな色が
合わさって見える色だ。

富山では、あちこちで、
「潤色」を見つけた。
私はこの色を、
湿気をたっぷりと含んで景色の彩りを
にじませた色と思った。

“千春”は、東京での仕事に慣れず、
故郷富山に帰る日の送別会で、
生まれ育った町、入善町の美しさ、
素晴らしさを生き生きと語る。

冒頭のそのシーンから、
水清らかで、緑やさしい光景をもつ入善の街は
ゆっくりと胸に広がり、読み進むほどに
強く心から離れなくなった。

広い、広い田園風景。
そこに映る立山連峰。
両手を広げても、
自分のちっぽけさを感じさせる
スケール感に、感嘆の声をあげた。
神々しく、雄大でありながら、
ガラス細工のように繊細に見える
水田の透明さ。

「愛本橋って、黒部峡谷からの風の通り道ね」
と、作品中語られるが、
遠い峡谷から、冷たい風が通って
川を下り、海へと流れていく。

水だけでなく、風も、匂いも、ここを通って
海へ向かっていく。
海の方を見ていると、風になって
遠くまで飛んでいけるような心地。

山中の赤い橋。
作品を読まなければ、もしかしたら
通過していたかもしれない。
けれど、立ち止まって、
橋から見る景色を味わい、
遠くからこの橋の眺める。

その姿は、周りの豊かな自然に
馴染みながら、華やかな気品があった。
作品中でも「清潔な色香を漂わせた芸妓」“ふみ弥”に
喩えられていて、
ひと目見たら、
吸い込まれそうな、
心奪われてしまうような
妖しくも溶けるような魅力を感じた。
いつまでも見ていたい、
見飽きることのない橋だった。

振り返ると、
「川べりにゴミひとつ落ちていない」
と、“千春”が語っていた黒部川は、
流れも美しく、本当にゴミがない。
清澄な空気と水に、そこに立つだけで
人も、景色も、すべて
洗われていくような気がした。

どこを見ても、美しく、懐かしい。
そうだ、この田園風景も
海へと続く町並みも、私の故郷に少し似ている。
“千春”が語る。
「離れて見ないとわからんことがたくさんあるわ」。

そして、立山連峰にかかる雪や、
山々をふいに明るくさせたり、暗くする厚い雲が
田園の虫一匹にまで恩恵を与えていることに気づくのだ。

“千春”が気づいたように、
今の自分の身体も、心も、
故郷の自然が育ててくれたもの。
そこにあった人、もの、自然、あらゆるものから、
恩恵を受けていたことに気づいたのだった。

富山から帰って、もうすぐ二週間。
鼻の奥にかすかに残っていた富山の香りも消えつつある。
さみしいけれど
「私はいつでも、まっさらになれる」という“千春”の言葉に
力をもらう。

また、まっさらになって、心潤しにあの街に行こう。

光あつめる真ん中の色。

雲居鼠(くもいねず)色は、
白に近い、明るい灰色。

「雲居」とは、雲のあるところ、
遠く、高く離れているところのこと。
こうした意味から、
雲の上の人や所、
つまり宮中をさす言葉とされていた。

あちこちで、色鮮やかに街を彩る
イルミネーションが見られる季節になった。
雪の多い街に育ったからか、
白く輝く光には特に心惹かれる。

赤、緑、青の三つの色は、
「光の三原色」という。
この三色の重ね方で、色が変わる。
そして、三つの色を重ね合わせた
一番明るい色が白になる。

人も、自分以外の人たちに会うことで
様々に色を変え、
最後は、重ね合わせた
色の中心である白になるのだろうか。

たくさんの色に混じって、
真ん中にある自分、
それがきっと自分の核、
本当の部分なのかもしれない。

日々揺れる感情の中で、
濁った目や心が
会えたことで、
さっぱりと洗われるような
思いにさせてくれる
友達がいる。

ただ会えることが嬉しく、
たくさん話し、笑って、
そのことで
嫌な感情も吹き飛んで、
あぁ、会えてよかった!
と、思えることの幸福感。

今年もたくさんの再会があった。
待ち合わせる時は、
様々な思い出が彩り豊かに蘇り、
心ときめいた。

そんな思いがあふれて、
会った瞬間、発光するような
喜び、笑顔が生まれた気がする。

再会は、
偶然だけでは叶わない。
努力の賜物と思うようになった。

毎日、出会っては、別れる。
帰ってくる人もいるが、
去っていく人、
巣立って行く人もいる。

距離が遠くて会えない人も、
距離は近くても会えない人も、
会える時間を作ってでも会いたい人との
距離は同じのような気がする。

その人に会う時間を
作ろうとするところから
再会は始まっている。

誰かを大切に思う気持ちを
あたためながら、味わいながら、
日常の面倒なことも、
少し腹の立つことも、
縦にしたり、横に置いたりして
整理しながら、
その日、その時を、楽しみに待つ。

好きな人たちに会う楽しみは、
遠い空の雲を仰ぐ気持ちに、
ちょっと似ている気がする。

「雲居」という言葉の意味を思いながら、
昔の人たちは、
その色を身にまとう時
どんな心持ちだったのだろうと
思いを馳せる。

ひととき、雲の上のような人たちに
近づくような誇りと喜びを
持っていたのではないだろうか。

好きな色を身にまとう。
誰かに会うために、
好きな自分に会うために。

雲は遠いけれど、
いつも当たり前のように空にあって
私たちを見下ろしている。

来年は誰に会えるのか、
どんな楽しみが待っているのか
知ってるような明るさで。