聴いて、ゆるして、ゆれる色。

コスモスの花が風にゆれている。
のんびり、ふわり、何にもとらわれずに。

風の声や、
見つめる人たちの声を、
うん、うん
とうなずくように揺れながら咲いているコスモス。
その代表的ともいえる淡い紅色は
「聴色(ゆるしいろ)」
だと思う。

「聞く」のではなく
じっくりと「聴く」。
よく聴けば、わかりあえる。
ゆるすことができる。
だから「聴色(ゆるしいろ)」なのだろうか。

よく聴くことは、よく話すことでもある。
言い訳から始まってもいい。
自分の気持ちを精一杯、心をこめて話せば、
やがてわかりあえる、と信じている。

もし、わかりあえなかったとしても、
話し合い、気持ちを伝えあうことで、
互いに知らなかった気持ちを発見したり、
これまでとはちがう感情が生まれるかもしれない。

話すこと、聴くことを、
逃げず、あきらめずにいたい。

だから、コスモスのような姿勢でいよう。
コスモスのように、淡くやさしい気持ちでいよう。

何でも話せるような、
ふわりと受け止めてくれるような
そんな微笑みをたたえていよう。

コスモスを見ていたら、思い出した。
「静かに行くものは健やかに行く
 健やかに行くものは遠くまで行く」
というイタリアのことわざを。

そして、
「健やかな人は、よく聴くことができ、
 よく聴くひとは、
 静かに聴(ゆる)すことができる」
…こんな言葉を思いついた。

生きていたら、色々なことがあるけれど、
よく人の話を聴き、
自分の心の声を聴き、
静かに聴(ゆる)す。
いつか、そんな境地にいけたらいいな、
と思う。

秋の心地良い風が吹いている。
のんびり、ふわりと
風にゆらされるコスモスが
うん、うん
と、うなずいて笑っていた。

燃え立つように、変わるもの。

五百万本が咲くという
「曼珠沙華まつり」があると
聞いて、観に行った。

それは想像以上に壮観な眺め。
鮮やかな朱色の絨毯が、
一面に敷き詰められたような
目にまぶしい満開の景色だった。

その色は、
紅でもなく、朱でもなく。
黄みの強い赤色、
「銀朱(ぎんしゅ)」
が一番近い色に思われた。
「銀朱」とは、
水銀と硫黄を混ぜて
つくられた人工の朱色だ。
そのせいか、ほんの少し毒気をはらんだような
強い色に感じられる。

群生する銀朱の花々は、
子どもの頃は、決して摘んで帰ってはいけない、
じっと眺めることも禁じられていたものだった。
彼岸の頃に咲くため、彼岸花と呼ばれていて、
当時は墓地でしか見かけなかった。

その赤さと炎を思わせる咲き姿からか、
「持ち帰ると火事になる」とか
「不吉を持ち帰る」「摘むと手が腐る」
などといった迷信もあるらしい。
球根に毒があることから、そんなふうに言い伝え、
子供たちに注意を促していたのかもしれない。

少し怖くて妖しい曼珠沙華。
夏の陽射しをたっぷり浴びて、
熱を放つような色と形で咲く花。
人の心をも惑わすような
妖艶な花姿だ。

こんなに美しいのに、人から忌み嫌われる。
その謎を、その存在を、気になりつつも、
気にすることがいけないことにように思っていた。

この日、たくさんの人が
今が盛りと咲き誇る、
曼珠沙華の美しさに見とれ、
褒め、感動しながら
歩いている様子に時の流れを感じた。

時が変わり、
ところが変われば、
同じものも価値が変わることもある。

もう消えた、と思った情熱も
時期がきて、
ところを得たときに、
一気に燃え上がることも
あるかもしれない。

少し体調を崩した夏だったけれど、
小さな情熱も消さず、臆せず、あきらめず、
進んでいこう、そう思った。

こんなふうに一気に何かを変えてしまうくらいに。
目をつむっても、まぶたに色が残るくらい熱をもって、
銀朱のような秋を燃やしていこう。

空にかからぬ虹の色。

虹を見たら、なぜそれを人に言いたくなのだろう。

いつ消えてしまうかわからない儚さからか。
やっと出会えた、そんなときめきがあるからか。

「虹色」は、虹の七色全てだろうかと思いきや、
意外にも一色。淡い紅色のことをさす。
紅花で染めた薄い絹地の色だ。
薄い絹地は、光の反射により、青みが強かったり、
紫みが強く見えたりするという。
光を織り込んだような絹地の色は、
見る角度によって移ろうように見えるから「虹色」なのだ。

光や角度によって表情を変える
虹色の無限性、不思議さ。

それは、ひとの気持ちにも似ている気がする。
たとえば「好き」という気持ち。

自分の気持ちも、我知らず月日の流れによって変化するし、
相手の気持ちも、その日、その時の様子で
色や温度が変化したり、さまざまな色合いが入り混じって見える。

光と色がある限り、刻一刻と変化する。
揺れ動く感情と同じで、
誰にも止めることができない。

もし、それをひととき見ることができたら…。
視界の中にとどめることができたなら…。

虹を見つけた喜びはそれに似ているのかもしれない。
そして虹色は、見つけた喜びに高揚する頬の色にも見える。

おうちの色は、いとをかし。

生糸の入ったスカーフを見つけたと、母が贈ってくれた。

春の終りの空のような、薄い青紫のおうち色。
おうちとは枕草子にも登場する花、栴檀(せんだん)の古称だ。

実家が織物業だったので、子どもの頃のお手伝いも
糸にまつわることが多かった。
そんな日々を忘れないで欲しい
という気持ちが母にはあったのだろう。

もちろん忘れる訳がなく、この糸を見るだけで、
故郷が近くにやってきたような優しさに包まれた。

糸は細い。しかし、決して弱くはない。強くものを結ぶ。

家系図を眺めていたとき、
あぁ人は、こうして過去から未来へと
糸で結ばれているのだ、と思った。
誰かがいなくなっても、糸は切れたりしない。
つながりを保ち、未来につながってゆく。

家系図だけではない。
今は、ネットワークという見えない糸が、
遠くにいる人たちと
瞬時に結びつけてくれる時代だ。
時間や距離が隔ててしまった人たちとも、
空のむこうの網の目が
つながっていて、これからも無限につながってゆく。

いと、をかし。

 

桜の、いろはにほへと。

 

いろはにほへと ちりぬるを──。
いろはかるたで遊んでいた子どもの頃には
知らなかったその意味。

「色はにほへど 散りぬるを」。
さまざまに解釈はあるらしいけれど、
「匂いたつような色の花も散ってしまう」
つまり、この世に不変なものなどない、ということらしい。

桜の散る頃は、その言葉に、特に切ない実感がある。
桜色は、ごく薄い紫味の紅色で、
染井吉野の誕生以前からある、山桜の色。
咲き方も散り方も鮮やかで、
毎春、心をざわつかせてくれる色だ。

今年もたくさんの桜を見た。
蕾は、春まだきの寒さに縮んでいるようで、
きりりと引き締まる想いになり、
満開の桜の下にいると、
ぬくもりに満ちていて、ほどけた想いになった。
桜色は、あたたかく、
やさしい空気も運んでくるのだと思う。

花吹雪の中を歩くと、
花道を歩いているような心持ちがする。

花道を通っていよいよ舞台へ。
さあ、朗らかで、嬉しい、春が来た。