飴色(あめいろ)。
水飴のような、深みのある強い橙色。
カレーのレシピで見る、
「玉ねぎを飴色になるまで炒めて」。
そう、ていねいに時間をかけて、つくる色なのだ。
遠ざかっていても、
飴を味わうように
ずっと大切に思って、
進化させたい、よりよくしたいと思うもの。
それを、また。
迷いつつ、味わいながら、リスタートする。
〜和の色ものかたり〜
飴色(あめいろ)。
水飴のような、深みのある強い橙色。
カレーのレシピで見る、
「玉ねぎを飴色になるまで炒めて」。
そう、ていねいに時間をかけて、つくる色なのだ。
遠ざかっていても、
飴を味わうように
ずっと大切に思って、
進化させたい、よりよくしたいと思うもの。
それを、また。
迷いつつ、味わいながら、リスタートする。
「残業せんと、早よ帰って。
今日は、クリスマスやから」。
出先からの上司の電話に、
予定はないと答えられなかった。
琥珀(こはく)色は、透明感のある黄褐色。
ウィスキーや蜂蜜、水飴の色としても
よく知られている色だ。
独身、一人暮らし。
心躍る予定のないその日、
クリスマスでにぎわう街に
一人出かける気にもなれず、
「先生」と呼ぶ、
経理の女性と二人で帰った。
まっすぐ帰ると言う私に先生は、
「若い子がデートの約束もないの!?」
と、驚き、なぐさめ、
市場で、カゴひと盛りの
おいしそうな海老を買ってくれた。
狭い台所の部屋に帰り、
たくさんの海老を塩茹でにした。
こたつの上にドン! と置いて、
殻をむいて食べる。
…おいしい!
予想を上回るおいしさに、
一人黙々と食べていた。
そこに電話。
「あ、いた!」
学生時代の友人が
「今から、プレゼント届けにいく」と
突然の訪問予告。
海老はもう殻だけになって、
何もないことを言うと、
あきれながら「いいよ」と笑う。
しばらくすると、ノックする音が聞こえ、
玄関を開けると、友人が
ラッピングされたバラ一輪を口に咥え、
フラメンコのポーズで立っている。
その隣に、友人そっくりの弟くん。
免許のない友人を乗せて
クリスマスの夜、
わざわざやってきてくれたと言う。
ケーキもご馳走もなく、
こたつにお茶、という殺風景な我が部屋。
けれど、二人がやってきて、
わいわいおしゃべりしていると、
気分が華やいだ。嬉しかった。
誕生日プレゼントを持ってきてくれたと言う。
私の大好きなイラストレーターの
ポーチとマグカップ。
そして、買った時に、
おまけにつけてもらったという、
さっき咥えていた一輪のバラも添えて。
いろんな喜びで胸がいっぱいになって
何かお礼をしようと、
どこかに行く? と誘うと、
弟くんの次の予定があるから
すぐに帰ると言う。
その日、寂しがっているのを知っていたかのように
プレゼントを持って、現れ、笑わせ、
心に灯りを点して、帰る。
二人は、まるでサンタクロースとトナカイのようだった。
にぎやかなクリスマスもいいけれど、
あの日、静かに過ごしていなければ、
あんな驚き、弾けるような喜びは、
得られなかったかもしれない。
なんとなく出かけていたら
クリスマスのにぎやかさに、
余計寂しくなっていただろう。
先日、食器棚を整理していて、
その時にもらったマグカップを見つけた。
ちょっと欠けてしまったけれど、
あの日の嬉しさを思い出すと、
どうしても捨てられなかったのだ。
琥珀は、太古の樹脂類が土中で石化した鉱物。
何千年の時を経て現れ、宝石となる石の色だ。
静かな師走の夜、懐かしい思い出が
何かの拍子に、こぼれるように現れる。
光に透かしてみると、
思い出が溶けて、胸を熱くする。
クリスマスのイルミネーションが
今年は見られた。
昨年見られなかった分、
まぶしいほどに煌めいていた。
華やかな思い出も、
静かでやさしい思い出も、
私の中で地層のように重なっていて
今の自分を作っている。
にぎやかさに笑う時もあれば、
その中で、静かに耳をすます時もいい。
どちらも、琥珀色に輝くクリスマス。
今年も、静かに過ごすことになりそうだけれど、
健やかであることに感謝し、
心穏やかな未来が来ることを祈ろう。
いくつになっても、
サンタクロースはやってくる。
散り敷かれた落ち葉を
踏むと、サクサクと
香ばしい音がした。
纁(そひ)は、
明るい赤橙色。
読みづらいこの名は
古代中国の茜染めからきている。
染める回数によって色名が変わり、
三回染めの名前が「纁(そひ)」だった。
「蘇比」と表記されることもある。
同じ色のはずなのだけれど、
こちらは、調べると
より黄色味の強い色が現れる。
紅葉し、刻々と変化して
豊かな色合いを持つ、
秋の色だなぁ…と思った。
「楓葉萩花秋索々」
という白楽天の詩がある。
「秋索々」。
この言葉を知ってから
落ち葉を踏み歩く時、
ふと頭に浮かぶようになった。
「索索」とは、
「さらさらかさかさ音のするさま」と、
「心の安らかでないさま」という意味がある。
索々、サクサク…。
秋の色をたずねながら、
落ち葉の絨毯の道を、
ゆっくりと歩く。
茜染めのような
濃淡さまざまな色合いは、
目に染みるように美しい。
秋の陽が、より一層その眩しさを増し、
何度も足を止めて眺めいる。
去年の秋は、
無言で、足早に歩き、
色づく葉を見上げるのも、
罪悪感を感じた。
時も歩みも、
止まったままのような日々が続いた。
この秋は、同じ止まるにしても、
ゆったりと景色を愉しむため。
そのことが、こんなにも嬉しい。
「索」には
「探し求める」と、
「なくなる」という意味がある。
紅葉を探して求めても、
季節が過ぎると、
色は褪せ、葉は落ちて、
やがてなくなる。
「秋索々」という言葉は、
刻々と変わる季節の表情、
秋の心もようも見せてくれる。
サクサク歩くと、
去年は見られなかったものが
たくさん見られた。
参道の茶屋で、
おみくじ付きのお団子はいかが?
と、声かけられる。
お陽さまの下で食べるお団子は
また格別!
と、モグモグ食べたら
食べ終えた串に「大吉」が出た。
団子屋さんに持って行ったら
「あら、大吉なのに持って帰らないの?」
と、言われた。
当たりもう一本!
ではなかったらしい。
久しぶりだから、
足腰が心配だ…と
石段を用心深く上がる人、
その背中に、そっと手を当てながら
「ほら、しっかり」と
笑顔で支える人たちの後ろ姿。
互いをスマホで撮りながら、
笑い合うカップル、
友だち、家族連れ。
去年は見られなかった光景、
聞こえなかった声だ。
「日常」とは
こんなに、朗らかなものだったのか…
と、改めて思う。
橋に人だかりがあり、
何の景色かと覗いてみると、
バンジージャンプを楽しむ人がいた。
広々とした自然に向かって
ダイブしながら、大声を出している。
見る人たちも、驚きながら
笑っている。
キョロキョロ、ニコニコ、
サクサクと、秋の道行きは
にこやかな発見に満ちている。
撮る写真は、
染め物のように、さまざまな色合いが
記録されてゆく。
私の茜染めだ。
折々の想いを込めて
染め上げられた布のような
紅葉のグラデーション。
「索」は、
もともと両手で糸を撚り合わせる形から
生まれた文字という。
たくさんの想いや願い、
人それぞれの時間に生まれた糸が
撚り合わされてできた眺めに思われた。
二年前の秋に訪れた、
平泉の高台から見た紅葉を思い出した。
また、旅したいなぁ。
ぽつり、つぶやく。
あたりの人たちのざわめきに、
同じ想いの声が聞こえた気がした。
日暮れの街に灯る
店の窓から
あたたかい笑い声が聞こえるようになった。
雄黄(ゆうおう)は、
明るく鮮やかな橙色。
雄黄という鉱物から作られたことから
この名で呼ばれている。
社会人になり、
一人暮らしをしていた時のこと。
深夜残業で帰宅して、冷蔵庫に何もなく、
コンビニへ行こうとしていた。
マンション前の通りは、広いものの
人通りが少なく、
正面からやってきた男の人と、
ぶつかりそうになった。
右に左によけるものの、
どうしてもぶつかりそうになってしまう。
改めて見ると、その男は
うす笑いのまま動きが止まり、
怖くなった。
通りに面した居酒屋へ
走って飛び込んだ。
初めて入ったその店は、
カウンター席のみの狭さながらも
満席の賑わい。
急いで引き戸を閉めて、
振り返ると、
みんながピタリと話をやめて
私を見ている。
ただならぬ表情を見て、
「お姉さん、どうしたの?」と
尋ねられた。
あわあわとなっていて、
「そこで…男の人が…」
くらいしか話せなかった。
「なんだって!?」と、
紺色の作務衣の女将さんが
カウンターから出てきて、
水を一杯くれた。
「こりゃ、女将さんの出番や」
「説教してやれ!」
陽気なお客さんの言葉に
「よし、いっちょ行ってくるわ」
と、女将さんが腕をまくって、
私と一緒に店を出た。
用心深く辺りを見回し、
シュッと手を伸ばして私を庇いながら、
「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、
マンションまで送ってくれた。
「また、何か怖いことあったら、
いつでもおいで」。
突然転がりこんできた小娘に
女将さんはやさしく笑ってくれた。
その夜は、恐怖から一転、
大人のあたたかさと、安心感に包まれた。
先日、日時計を見に行った。
日没前の小高い丘にある時計の周りを
たくさんの花が咲き、人が集まっていた。
夕刻、雄黄の色に辺りを染めて、
日が沈む。
人も、日時計も、ゆっくりと
暗闇の中に消えてゆく。
あの時の女将さんと、今の私は
同じ歳の頃になるのだろうか。
あんなに頼もしい大人になっていないことに
情けなさも感じる。
どんな人にも人生の時計があり、
それぞれの時を生きて、
夕暮れの時を迎える。
雄黄は、毒性が強いことでも知られている。
「雨月物語」では、
蛇の化身を退治するために、
法師が雄黄を持って、
立ち向かおうとする場面もあるほどだ。
蛇退治ではなくても、
日々の暮らしの中で、
思いがけずやってくる、恐ろしいもの、ことなどを
追い払うために、毒なるものが必要な時がある。
あの日、女将さんだって
怖い気持ちはあっただろう。
けれど、飛び込んできた小娘のため
毒なる力を振り絞り、守ってくれた。
暮れどきを知らせる
日時計を見ながら、
人生の夕暮れ時を迎え、自分はどれほど
人を守る力を持てたかを思った。
知恵と経験で得た力。
強さと、優しさと、艶やかさ。
大人になったからこそ、
引き出せるものがあるはずなのに。
居酒屋の灯り、
夕暮れの公園のにぎわい。
雄黄は、ほんのりとあたたかく、
後悔や焦りや、諦めさえも、
まろやかに包み込んでくれる。
日没のあと、浮かび上がる
山々のシルエットに
思い出の日々が滲んで消えていった。
山粧う秋の景色を
観に出かけた。
目に眩しい、盛りの紅葉を
捉えることはできなかったけれど、
色とりどりの秋の葉の美しさを堪能した。
黄丹(おうに)色は、
鮮やかな赤みの橙色。
「黄丹」は昇る朝日の色とされ
皇太子の位の色を表し、
儀式に着用する束帯装束の
袍(ほう)の色とされている。
平成から令和への
皇位継承儀式でも目にした
「絶対禁色」である。
この秋は、気楽にあちこちと
出かけられないこともあり、
ネットやテレビで
葉の色づき加減を確認して
出かけた。
けれど、慎重になりすぎたあまり、
早すぎたり、遅すぎたりして、
期待した色鮮やかな紅葉に、
うまく出会うことができなかった。
これも、今年らしい出来事かもしれない。
そう思いながら、目にする秋の葉を
愉しんだ。
秋の葉の色づきは、
好天ならば眩しく嬉しいものなのに、
雨の日や曇天になると、
うら淋しい眺めになる。
また桜のように一気に散ることなく
枯れたまま木の枝に残っている姿、
散り敷かれた落ち葉の褪せた色合いも、
間に合わなかった寂しさの色が
濃くなる気がする。
間に合わなかった…と
あきらめるしかないのだけれど。
秋のあきらめ。
と、思いながら、スマホを出して
「あきらめる」という言葉を検索してみた。
「あきらめる」は、
「諦める」と書き、
「仕方ないと断念したり、
悪い状態を受け入れること」
という意味がある。
けれど、もうひとつ。
「明らめる」
と書く言葉があるのを知った。
この「あきらめる」は、
「明るくさせる」という意味。
まるで明暗逆のようなこの言葉を、
私は今まで知らなかった。
枯れそうになった葉が
ぽっと色づいたような、
花咲か爺ならぬ
明らめ婆の気分になった。
言葉ひとつで、目の前の世界の
色は変わる。
紅葉に間に合わなかった伊香保では、
遠くに雪をかぶった山が見えた。
冬が近づいている。
気がつくと、十一月も残りわずか。
黄丹色の袍に、いにしえの時を想う
皇室行事を見ることのできた
令和二年。
ざわざわとして、ひと月ひと月が
表面をなで走るように過ぎていった気もする。
それでも、この一年の日々で
令和という新しい元号が
ゆっくりと、身に、心に馴染んだ気がする。
コロナだ、自粛だ、新生活だ、と、
馴れないこともあったけれど、
心をならし、ざわめきを抑えながら
それらとも共に暮らすよう
自分なりに努めてきたと思う。
紅葉を眺めていると、
ぽとり、ぽとり、と葉が散り落ちる音が
聞こえてきた。
木の葉が盛んの落ちるのを
時雨にたとえた、
「木の葉時雨(しぐれ)」
という季語がある。
木を、土を慈しむ、優しい雨が、
秋の名残りを知らせる葉書のように
落ちてゆく。
古い葉を落として、土にかえり、
栄養になって、新しい命を育む準備が
もう始まっている。
物言わぬ自然が、
その姿で、あり方で、今やっていることに
何ひとつ無駄はないのだと、励ましてくれる。
焦るな、焦るな、と、
自然はおおらかに包み込んでくれる。
諦めないで、明らめながら、
この秋の道を進んでいこう。
夕暮れの雲に鳥の形を見つけると、
思い出す鳥の名がある。
トキ。
トキは白い鳥なのだけれど、
飛ぶときに見せる翼の内側、
尾羽、風切羽(かぜきりばね)の色が、
黄みがかった淡くやさしい桃色になっている。
それを鴇(とき)色という。
トキは、遠い昔、どこにでもいる鳥だった。
現在では、日本に野生のトキはおらず、
絶滅危惧種の鳥となっている。
テレビや本でしか見たことのない
私にとっては幻の鳥。
なのに、飛ぶ姿や色の美しさが忘れられず、
夕暮れの空に、その姿を探してしまう。
夏の太陽は、強くまばゆく熱を放つ。
汗をふきふき、少しでも暑さ和いで…と、
日が暮れるを待つのに、
沈む夕陽が、あまりに綺麗だと
なんだか名残惜しくなる。
「行き暮れる」という言葉がある。
行く途中で日が暮れる、という意味。
夕陽を夢中になって見ているうちに、
気づけば夜の帳が下りて、
今いるところも、行き先もわからなくなる…
そんな気持ちになってしまう。
暮れなずむ、行き暮れる…。
黄昏の言葉は、美しく、危険な甘さもあって、
熱にほだされたように、うっとりしてしまう。
黄昏どきは、「誰そ彼(誰ですかあなたは)」と
たずねる薄暗い時。
夕陽を背景にした人の姿が
もう会えなくなった人に見えるときがある。
その人ではないとわかってのに、懐かしく慕わしく眺めてしまう。
また、スマホで夕陽を撮っている人も見かける。
思いつめたように送信している人の姿には、
この美しさを見せたい、感動を伝えたい人があるのだという
切なさが溢れていて、つい見とれてしまう。
無邪気に遊ぶ人たちの姿には、
かつての自分の姿を重ねて
微笑みながら、遠い昔を顧みる。
そんなふうに
あやしく美しい夕陽の魔法の中にいて、
気がつくと、あたりが真っ暗になって、
帰り道が見えなくなる。
行き暮れてしまうのだ。
鴇色は、江戸時代の染色の見本帳によっては
「時色」と表記されていることもあるという。
借字とはいえ、
時を忘れさせ、さまざまな時へと誘う色。
魔界へと放たれた鴇、その色らしい文字にも思える。
夏の夜空に弾ける花火にも、
鳥の羽が広がったような形や
鴇色はなかっただろうか。
夏は、きっぱりとした空の青、雲の白、
そして夜の漆黒の暗さを持っていながら、
その間に、心和む夕暮れの色がある。
暑さに疲れた体を癒してくれる
やさしさのような淡い鴇色が
熱と湿った空気を伴って、
身も心も包み込んでくれる。
昼と夜のあわいの色合いをさまざまに
混ぜて溶かして見せながら…。
何もかも、例年とはちがう今年の夏だけれど、
その色のやさしさ美しさは、
変わらない。
行き暮れた日には
家の灯りのように。
失望や悲しみに襲われた時は、
胸の中で負けまいと灯す炎のように。
きっと、明るく輝いている。
真っ暗に撮れてしまった写真を、
パソコンで画像調整した。
置き去りにしていた写真の中の朝陽が、
ほんのりとやわらかい明るさで現れた。
洗朱(あらいしゅ)色は、
黄色味を帯びた薄い朱色。
「洗(あらい)」には、
布などを洗うことで
「色が薄くなる」という意味があり、
洗い弱めたような薄い朱色を
この名で呼ぶ。
四年前、人生初の「友人と旅行」をした。
シーズンオフの箱根へ女三人旅。
宿は貸切状態で、
ゆったりと温泉につかった。
あれこれと語る中で、
ウェブデザイナーのRちゃんに、
気になっていたブログ作成について訊いた。
とても、自分でできるとは思えなかったけれど、
お湯の中でRちゃんの話を聞いていると、
「私も始めてみたいな」と、心が湧き、動き始めた。
翌朝、一番に目覚めて、テラスに出ると、
朝陽にゆっくりと染められていく
濃紺の空と景色が広がっていた。
まだ操作もわからない、
買ったばかりのカメラを取り出して
夢中で撮っていた。
けれど、撮れた写真は、
がっかりするほど真っ暗で、
ぼんやり朱色が写っているだけだった。
こんな私に、ほんとにブログ始められるのかな?
と、夢も冷める思いで景色を眺めたのだった。
ステイホームのこの数ヶ月。
二年前に買っていた写真加工のマニュアルを
やっと読むことができた。
ほんの少し知識を得て、過去の写真を加工してみた。
すると、写真の中の朝陽や夕陽が、
ゆっくりと周りを明るく照らして、
その時々に感動した景色を再び見せてくれた。
陽の色は洗われた朱色。
洗朱色だ。
振り返ると、あの四年前の旅行が
なければ、このブログも始めていなかったかもしれない。
Rちゃんの助けがなければ、
途中で投げ出したくなることもたくさんあった。
完成後も、Rちゃんは、より多くの人に読まれるようにと、
様々なアドバイスもくれた。
あの旅がなければ…。
旅に出る前は、友人との旅、ただそれだけだった。
でも、今となって思うと、
ブログを始めるきっかけをくれた、
大切な旅だった。
起こることには意味はない。
それにどんな意味をつけるのか、
どんな感情を抱き、決意するかは、
自分次第。
未来のことなどわからない。
過去のことも、
今いるところから見てみないと
気づけないことがある。
このブログで紹介する和の色も、百色を超えた。
今、思うように撮りに行けない中で、
続けていくために、できることを考えてみる。
きっと、こんなふうに思い悩んだことも、
やってみたことも、いつか懐かしく思い出すのだろう。
どんな過去もさっぱり洗って、
差し出すような、優しい洗朱色を見て思う。
失敗した、と思ったことも、
少しの工夫で、生きてくることがある。
あるいは、時に洗い流されて
今の自分にはわからなかったことを
教えてくれるかもしれない。
時間は、いつも私を包み、
続けることの意味を教えてくれる
永遠の先生だ。
約束しなくても現れる朝陽のように、
これからも当たり前のように
和の色さがしを続けて行こう。
「何億光年輝く星にも寿命があると…」。
山口百恵のラストソング「さよならの向こう側」の
歌詞に、抱えきれない時間と星との距離に驚いた十代の頃。
それまでは、星がそんなに遠いとは想像もせず、
「寿命」を「授業」と聞き違えていたほどに
無知だった。
星の色は、寿命の長さによって異なる。
若い星ほど青白く、老いた星ほど
赤みがかっているという。
鶏冠石(けいかんせき)色は、明るい橙色。
「鶏冠石(けいかんせき)」という
鶏のトサカのような赤い鉱物を
粉末にした顔料の色である。
先日、上野の東京文化会館のステージ裏を
ガイド付きで見学できるツアーに参加した。
夜の部をあえて予約したのは、
この建物の照明がガラスに反射して、
上野公園へと広がっていくように見える様子、
「天の川」と呼ばれる、
鶏冠石色の星が輝く景色が見たかったから。
ステージ裏の壁には、
まさに綺羅、星のごとく有名な出演者のサインが
所狭しと書かれていた。
カーテンコール体験もさせてもらった。
幕の間からステージに出て、
眩しいほどの照明を全身で感じる。
スポットライトも、星、だった。
ステージ、照明、サイン、といった
晴れがましい場所に立ったことはない。
いつも遠くから眺めている側だった。
遠く眺める、といえば
故郷を離れて、最初の帰省した夜、
見上げた空の星が、あまりに近くて
驚いたことがある。
都会よりも空が低く、
星々は鮮やかに群をなし、美しく明滅していた。
わーっ! と、小さく叫んで
静かな花火を見るように星空を見上げていた。
鶏冠石は、かつては日本の花火の原材料に
使われていたのだという。
湿気に弱く、置きっ放しにしておくと、
変色してボロボロと崩れてしまうらしい。
文化会館で見つけた、たくさんの星は
鶏冠石色。
たくさんの星は、たくさんの人たちの夢に見えた。
私の夢は、置きっ放しにしていないだろうか。
ボロボロと崩れてしまってはいないだろうか。
星を見失わないように、努めているだろうか。
「さよならの向う側」へと消えた山口百恵も、
たくさんの感謝とともに「私、きっと忘れません」と
歌っていた。
空にも、水たまりにも、星は見つけられる。
今ここにいること、与えられたことに感謝しながら、
目指す方向を見据えよう。
心の中の星も、年を重ねるけれど、
輝きは見たもの、感じたものの分、強くなるはず。
まだまだ学ぶべきことは多い。
私にはやはり、
何億光年の「授業」が必要なのかもしれない。
杏(あんず)色。
熟した杏の果実のやわらかい橙色をさす。
杏の果実をポーンと投げたような夕陽が
ゆっくりとあたりを染めて沈んでゆく光景が
美しい季節。
先週は、関西に帰省していて、
「ただいま」と呼びかける景色を
みごとに杏色に染めて見せてくれた。
「ただいま」の色。
思えば、大人になるにつれ
「ただいま」という場所が
ふえていたことに気づいた。
日々暮らす家に。
親が待つ家に。
会社勤めの時は、出先から帰ったときに。
最近では、
旅から帰って、
ネットで語り合う親しい友人に。
たどり着いた時、
ほっとして言う
「ただいま」。
「ただいま」というとき、
どこか、ほんのり明るくあたたかく、
嬉しい気持ちになる。
その気持ちを喩えるなら、
夕陽の色、杏色。
そんな明るく、あたたかい色を放つ
夕陽ではあるのだけれど、
寂しさもいっしょに連れてくるときがある。
それは、新卒で入社した会社を辞めた日の翌日。
あまりに忙しくて、
夕陽を観ることのない暮らしから、
何ヶ月ぶりかで、ぼんやり過ごしていた。
一人暮らしの部屋に、
ぽつんと取り残されたような夕暮れ。
明日からの暮らし、仕事、
将来のこと。
いろいろ考えると、寂しさと不安で、
いたたまれない気持ちになった。
そんなとき、父から電話。
「夕方は寂しいやろ」と、
あたたかい声。
あぁ、言葉にできない気持ちを
わかってくれていたのだ、
という安心感に包まれた。
父に会社員の経験はなかったけれど、
「会社を辞めた」
「一人でいる」
という
私の寂しさを誰よりも理解し、
寄り添おうとしてくれたのだ。
きっと、父は父なりに
その人生の中で、
寂しい夕方をいくつも経験したきたのだろう。
寂しさに出会ったとき、
一時的な楽しさに逃げたり、
ごまかしたりせず、
きちんと向き合うことで、
寂しさの受け容れ方や、
克服のしかたを知ることができる。
そうして身につけた強さは、
深く、美しい優しさになるのかもしれない。
父に、そのことを
さりげなく教えられたのだった。
どんなに楽しい一日でも、
誰かといっしょでも、
夕焼けを観ると、
一日の終り、楽しいことの終り。
そんな気がして寂しくなる。
でも、昼間の明るさから夜の暗さのあわいに
こんな美しい色があることに
しみじみと感謝する想いもある。
健康的で、明るい杏色の夕陽。
一日の終りに、観ることができたなら、
楽しさも嬉しさも、
そして寂しさも哀しささえも、
抱きしめる想いで、眺めてみようと思う。
萱草色(かんぞういろ)は、黄色がかった薄い橙色。
ユリ科の「萱草」という花の色に
ちなんでつけられた名前だ。
見ると憂いを忘れるという中国の故事から、
萱草は「忘れ草」とも呼ばれ、
その色も、別れの悲しみを
忘れさせてくれる色とされていた。
(※画像は萱草の花ではありません)
万葉集にも
“恋しい人を忘れるために、この花を身につけたけれど、
どうしても想いが消せない”
という歌がある。
昔も今も、恋する切なさは変わりなく、
萱草は、その苦しさを紛らわせる
おまじないに使われていたのだ。
平安時代には、宮廷の忌事のときに着用された色でもある。
表裏に萱草色を重ねた女子の袴は
「萱草の襲(かんぞうのかさね)」として、
喪服に用いられていた。
こんな派手な橙色を忌事に!? と、驚く。
けれど、
平安貴族にとって
慶びのときに使われるのが華やかな紅色なので、
やや赤みを落としたこの色が、
控えめな印象で、遠慮する心を表していたのだという。
もしかしたら、凶事の悲しみを「忘れる」ために、
この色を身にまとったのかもしれない。
現代の感覚でこの色を見ると、
萱草色は、やさしい夕暮れの色を思い出す。
美しく落ち着いた橙色の夕空を見ていると、
楽しい一日なら、暮れてゆくのが惜しいような、
つらい一日なら、ほっとするような。
やはりどこか「忘れる」ことにつながるような気もする。
祭の夜店で見る電球の色も、これに近い。
にぎやかで楽しい、ウキウキする気持ちと、
祭のあとにやってくる寂しさの予感があって、
「忘れたくない」想いを焼きつけるような色にも見える。
忘れること。
忘れたくないこと。
いろんな想いや思い出を抱えて、日々をすごしてゆく。
一日一日を、色づけして記録するとしたら
何色が多くなるのだろう。
今は忘れたい日も、いつか、忘れたくない、
そんなふうに思えて、
この色に染まるといいな、と思う。
そういえば、赤と黄色の間をたゆたうこの色は、
どんな記憶も、想いも夢も、
やさしく溶かして生まれた色のように見える。