着けば都の駅はどこ?

土の香りがする静かな駅は、
しばらくそこに、
佇んでいたくなる。

青丹(あおに)の色は、
暗い黄緑色。
青丹の「青」は、緑色のことであり、
「丹」は土を意味する。

「青丹よし」は奈良の枕詞として
よく知られている。
「青丹」とは、
顔料である岩緑青の古名であり、
奈良はその産地でよく知られていることから
枕詞となったと言われている。

「青丹よし 奈良の都は 咲く花の
     にほふがごとく 今盛りなり」
この歌は、赴任先の太宰府から、
故郷の奈良の都を懐かしんで詠んだ歌と言う。

もう奈良には戻れないかもしれない…
そんな不安な想いから、
懐かしい故郷の美しさを
より一層恋しく想って詠んだのでは
ないかと言う説もある。

その説にしたがって読むと、
故郷の美しさを、誇らしく、
懐かしく想う心が悲しく、
華やかさよりも、寂しい色が
胸ににじんで広がる。

奈良ではないものの、
私にも自然の緑、土の香りに包まれた、
恋しい故郷がある。

都の華やかさはないけれど、
海は青く、土にぬくもりがあり、
四季折々の花が咲く、
「におうがごとく」の美しさだ。
今は遠く、そうそう帰れないのだけれど。

秩父鉄道の駅が、味わいがあっていいよ、
と、友人に聞き、訪れた。

自然に囲まれた駅は、
それぞれどこか懐かしさがあり、
秋の木枯らしの中でも、
あたたかな空気に満ちていた。

背景には、山や木々などの緑。
それは、この季節ならではの、
少し色褪せた緑、青丹の色だった。

ひと気のない寂しさと、漂う懐かしい気配に、
ベンチに腰かける。

ある駅では、
「駅は撮ってもいいけど、僕は撮らないでねー」
と、明るく声をかけられた。
別の駅では、
「無人駅に見えるかもしれませんが、そうではないんです」
と、写真を撮るのをじっと見守る駅員さんもおられた。

別に怒っているわけではなく、
問いかけると、淡々と応えてくださる。
写真を一枚、と、お願いすると、
姿勢を正して、ポーズをとられる。

…あぁ、こういうやりとりが、いいなぁ。

マスク越しでも、距離はとっても、
心の距離の近いやりとり。
来る人を気にかけ、声をかけ、見送る。

大きな駅では、一人一人になかなかこうはできないだろう。

誰かといっしょに、
誰かに会うために、
誰かから旅立つために、
駅に立つ。

ごく普通の日であれ、
特別な日であれ、
駅は、いつも乗り降りする人たちを
静かに迎え入れ、見送ってくれる。

後に残るのは、
山や木々に吸われる音と風。

私は、そういう駅から
旅立って来たのだ。

私が故郷を出たいと想ったのは、
見送る立場が嫌になったから。

都会に出てゆく人は、
ひととき帰ってきても、
また、知らない街へと出発し、
故郷を離れてゆく。

その人たちを見送り、
「ただいま」を待つことが
寂しくて嫌になったのだ。

そうして故郷を離れ、
今ではただいまを言うことも、
帰る家も無くなってしまった。

駅は「おかえり」の入り口。
懐かしい無人駅に降り立つと、
やはり、心の中で「ただいま」を言うのだろう。

あの駅は、今も、誰かの出発を
後押ししているだろうか。

静かな駅に座っていると、
遠い日の駅の思い出が次々と
よみがえる。

土の香りと色褪せた緑。
青丹は、私にとって
「おかえり」の色なのだ。

サクサク秋さんぽ。

散り敷かれた落ち葉を
踏むと、サクサクと
香ばしい音がした。

纁(そひ)は、
明るい赤橙色。

読みづらいこの名は
古代中国の茜染めからきている。
染める回数によって色名が変わり、
三回染めの名前が「纁(そひ)」だった。

「蘇比」と表記されることもある。
同じ色のはずなのだけれど、
こちらは、調べると
より黄色味の強い色が現れる。

紅葉し、刻々と変化して
豊かな色合いを持つ、
秋の色だなぁ…と思った。

「楓葉萩花秋索々」
という白楽天の詩がある。

「秋索々」。
この言葉を知ってから
落ち葉を踏み歩く時、
ふと頭に浮かぶようになった。

「索索」とは、
「さらさらかさかさ音のするさま」と、
「心の安らかでないさま」という意味がある。
索々、サクサク…。

秋の色をたずねながら、
落ち葉の絨毯の道を、
ゆっくりと歩く。

茜染めのような
濃淡さまざまな色合いは、
目に染みるように美しい。
秋の陽が、より一層その眩しさを増し、
何度も足を止めて眺めいる。

去年の秋は、
無言で、足早に歩き、
色づく葉を見上げるのも、
罪悪感を感じた。

時も歩みも、
止まったままのような日々が続いた。

この秋は、同じ止まるにしても、
ゆったりと景色を愉しむため。
そのことが、こんなにも嬉しい。

「索」には
「探し求める」と、
「なくなる」という意味がある。

紅葉を探して求めても、
季節が過ぎると、
色は褪せ、葉は落ちて、
やがてなくなる。

「秋索々」という言葉は、
刻々と変わる季節の表情、
秋の心もようも見せてくれる。

サクサク歩くと、
去年は見られなかったものが
たくさん見られた。

参道の茶屋で、
おみくじ付きのお団子はいかが?
と、声かけられる。

お陽さまの下で食べるお団子は
また格別!
と、モグモグ食べたら
食べ終えた串に「大吉」が出た。

団子屋さんに持って行ったら
「あら、大吉なのに持って帰らないの?」
と、言われた。
当たりもう一本!
ではなかったらしい。

久しぶりだから、
足腰が心配だ…と
石段を用心深く上がる人、
その背中に、そっと手を当てながら
「ほら、しっかり」と
笑顔で支える人たちの後ろ姿。

互いをスマホで撮りながら、
笑い合うカップル、
友だち、家族連れ。

去年は見られなかった光景、
聞こえなかった声だ。

「日常」とは
こんなに、朗らかなものだったのか…
と、改めて思う。

橋に人だかりがあり、
何の景色かと覗いてみると、
バンジージャンプを楽しむ人がいた。
広々とした自然に向かって
ダイブしながら、大声を出している。

見る人たちも、驚きながら
笑っている。

キョロキョロ、ニコニコ、
サクサクと、秋の道行きは
にこやかな発見に満ちている。

撮る写真は、
染め物のように、さまざまな色合いが
記録されてゆく。
私の茜染めだ。

折々の想いを込めて
染め上げられた布のような
紅葉のグラデーション。

「索」は、
もともと両手で糸を撚り合わせる形から
生まれた文字という。

たくさんの想いや願い、
人それぞれの時間に生まれた糸が
撚り合わされてできた眺めに思われた。

二年前の秋に訪れた、
平泉の高台から見た紅葉を思い出した。

また、旅したいなぁ。
ぽつり、つぶやく。

あたりの人たちのざわめきに、
同じ想いの声が聞こえた気がした。