新たなチカラを生み出す色。

久しぶりに撮りに出かけた。
相棒は、新しいカメラ。

左伊多津万色(さいたづまいろ)は、
黄色みを含んだ濃い緑色。

「サイタヅマ」とは、
タデ科の多年草「虎杖」の古い名前。
「虎杖」もまた、
「イタドリ」という読みにくい名前だ。

お江戸の日本橋から日比谷まで撮り歩いた。
新型コロナウイルス感染者数の
減少もあってか、
街に明るいものが感じられた。

眩しい午後の光の中、
オープンカフェや、
ベンチでくつろぐ人たち。

その心地よい秋の光景を、
再び撮ることができるのが嬉しくて、
何枚も撮り続けた。

大手町のショウウィンドウを
撮っていると、
待ち合わせだったのだろう。
女性二人が駆け寄って再会する瞬間を
背後に感じた。

「あぁ、やっと会えたーっ!」
「感無量…」
「長かったねぇ。いつからぶり?」
「まずは今日の作戦をたてよう」
…そう言って、カフェに消えて行った。

ステイホーム、個食、黙食…
会いたい人に会えない。
ゆっくりと食事したり、
お酒を飲みながら話したいのに、
話せない。

ガマン、ガマン。
もう少し、あと少し。
そろそろかなぁ…
やっぱりダメか…。

そんな日々の中で
積もっていく、寂しさや不満や
悲しみもあったと思う。

一気に元通りに!
というのは無理でも、
ひととき、少人数で、
用心しながらも
楽しみを味わえるのだとしたら、
大事にしたい…。
そんな喜びがあふれる瞬間だった。

「虎杖(いたどり)」は、
その葉を揉み込んで貼ると
痛みが和らぐことから
「痛取(いたどり)」と
呼ばれるようになったという。

この自粛期間の胸の痛みを
「痛取(いたどり)」してくれるような、
左伊多津万色(さいたづまいろ)の
木々の葉や、秋の始まりの優しい風が
爽やかに吹き抜けていた。

そうした嬉しいシーンを
たくさん撮ったはずなのに。
帰ってきて写真を
パソコンに取り込んだところ
まだ慣れないカメラのため、
うまくいかない。

あれやこれやと試しているうちに、
操作ミスをしたものか、
SDカードの中のデータが
壊れてしまった。
「読み込むことができません」と
いうエラーメッセージとともに、
二度と見ることができなくなってしまった。

…ショック。

見るのを楽しみにしていた写真も
何枚かあったのに。

もう二度と見られない写真は
存在しないことと同じ。
そう思うと、ひどく落ち込んだ。

しかしその日、目にした、
再会を喜びあう人たちの
姿や言葉、歓声が、
胸によみがえった。

会えなかった時間は、
なかった時間でない。
そして、
見えなくなった写真は、
撮らなかった写真と同じではない。

会えなかった時間に、
心にためた相手への想い、
大切だと気づいたことなど話せば、
交流はより一層、
楽しく豊かなものになる。

写真は消えても、
その日、その場所で撮ったこと、
思ったことは、消えない。

落ち込んでも仕方ない。
しっかり調べて、知ること。
自分で解決できる失敗など
小さなことなのだと
改めて思う。

かんたんに解決できない、
悲しいことや、悔しいことは、
これからも起こるかもしれない。

けれど、悲しみや悔しさの痛みを
経たことで生まれた強さ、
誰かの痛みも和らげる力も、
今の自分にはあるはずだ。

それを大切に胸に抱えて、
見えない未来に、立ち向って行こう。

その力は、
私を遠くまで飛ばす。
きっと、笑顔で
飛んでいける気がする。

毒にもなれる強さを持って。

日暮れの街に灯る
店の窓から
あたたかい笑い声が聞こえるようになった。

雄黄(ゆうおう)は、
明るく鮮やかな橙色。
雄黄という鉱物から作られたことから
この名で呼ばれている。

社会人になり、
一人暮らしをしていた時のこと。
深夜残業で帰宅して、冷蔵庫に何もなく、
コンビニへ行こうとしていた。

マンション前の通りは、広いものの
人通りが少なく、
正面からやってきた男の人と、
ぶつかりそうになった。
右に左によけるものの、
どうしてもぶつかりそうになってしまう。

改めて見ると、その男は
うす笑いのまま動きが止まり、
怖くなった。

通りに面した居酒屋へ
走って飛び込んだ。
初めて入ったその店は、
カウンター席のみの狭さながらも
満席の賑わい。

急いで引き戸を閉めて、
振り返ると、
みんながピタリと話をやめて
私を見ている。

ただならぬ表情を見て、
「お姉さん、どうしたの?」と
尋ねられた。

あわあわとなっていて、
「そこで…男の人が…」
くらいしか話せなかった。

「なんだって!?」と、
紺色の作務衣の女将さんが
カウンターから出てきて、
水を一杯くれた。

「こりゃ、女将さんの出番や」
「説教してやれ!」
陽気なお客さんの言葉に
「よし、いっちょ行ってくるわ」
と、女将さんが腕をまくって、
私と一緒に店を出た。

用心深く辺りを見回し、
シュッと手を伸ばして私を庇いながら、
「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、
マンションまで送ってくれた。

「また、何か怖いことあったら、
 いつでもおいで」。
突然転がりこんできた小娘に
女将さんはやさしく笑ってくれた。

その夜は、恐怖から一転、
大人のあたたかさと、安心感に包まれた。

先日、日時計を見に行った。
日没前の小高い丘にある時計の周りを
たくさんの花が咲き、人が集まっていた。

夕刻、雄黄の色に辺りを染めて、
日が沈む。
人も、日時計も、ゆっくりと
暗闇の中に消えてゆく。

あの時の女将さんと、今の私は
同じ歳の頃になるのだろうか。
あんなに頼もしい大人になっていないことに
情けなさも感じる。

どんな人にも人生の時計があり、
それぞれの時を生きて、
夕暮れの時を迎える。

雄黄は、毒性が強いことでも知られている。
「雨月物語」では、
蛇の化身を退治するために、
法師が雄黄を持って、
立ち向かおうとする場面もあるほどだ。

蛇退治ではなくても、
日々の暮らしの中で、
思いがけずやってくる、恐ろしいもの、ことなどを
追い払うために、毒なるものが必要な時がある。

あの日、女将さんだって
怖い気持ちはあっただろう。
けれど、飛び込んできた小娘のため
毒なる力を振り絞り、守ってくれた。

暮れどきを知らせる
日時計を見ながら、
人生の夕暮れ時を迎え、自分はどれほど
人を守る力を持てたかを思った。

知恵と経験で得た力。
強さと、優しさと、艶やかさ。
大人になったからこそ、
引き出せるものがあるはずなのに。

居酒屋の灯り、
夕暮れの公園のにぎわい。
雄黄は、ほんのりとあたたかく、
後悔や焦りや、諦めさえも、
まろやかに包み込んでくれる。

日没のあと、浮かび上がる
山々のシルエットに
思い出の日々が滲んで消えていった。

ほんものに、染まれ!

久しぶりに使おうとしたら、
カメラが壊れていた。

甚三紅(じんざもみ)は、
黄みがかった紅色。

どんな色かイメージしにくい、
この色名は、
江戸時代の染め屋
「桔梗屋甚三郎(ききょうやじんざぶろう)」の
名にちなんでつけられたという。

壊れたカメラは、
バッグに入るコンパクトサイズで、
六年前に買ったもの。
ちょっと背伸びして買ったお気に入りだった。

が、背伸びが過ぎたようで、
買った当時は、使い方がわからなかった。
取扱説明書を読んでみても、
チンプンカンプン。

ま、いいや、撮っちゃえ!
と、出かけたものの、
あれ? ええっと? どうしよう!?
…そう混乱する中で、
初日から、カメラを落としてしまった。

派手に落としたものの故障はなく、
まずは丈夫なカメラであることが
相棒として頼もしかった。

その後も何度も落としたり、
雨でびしょ濡れにしたり、
吹雪の中で転んだり…。
なかなかハードな使い方により、
突然、レンズフードが閉じなくなったこともある。

あぁ、ついに故障!?
とドキッとしたことは、かず知れず。

江戸時代、紅色は、
鮮やかで人気があった。

ところが、紅花を使った染めは高価で
庶民には手が出ない。
そこで桔梗屋甚三郎は、
茜(蘇芳という説もある)を使って、
紅花染めに近い色を染めることに成功した。

安価なその紅色は、
庶民に大人気となった。

売れに売れた結果、
甚三郎は長者になり、
作った色も「甚三紅」と
呼ばれるようになった。

とはいえ、
本物の紅色でないことから
「紛紅(まがいべに)」とも言われたという。

きちんと学ぶことなく、
基礎知識すら知り得ていない私の撮る写真は、
紛いものと自覚している。

それでも、撮る時は、本気だ。
あの角度から、こちらから、と、
自分なりのよい写真を追求して撮る。
何枚も、何枚も。

これで世に出られるわけもなく、
収入が得られるわけでもないのに。
なぜ撮る?

そんな問いかけもあった夏だった。

なかなか撮りに行けない状況の中、
動けない自分の心と、
動かなくなったカメラのリセットボタンを
何度も押しながら、
自問自答し続けた。

ただ、いい風景をカメラに収めたら、
誰かに見てもらいたい。

そのことだけが、自分を動かす。

桔梗屋甚三郎が
紅花を使わずに、
初めて鮮やかな紅色を
染め上げた瞬間を思う。

嬉しかっただろう。
鮮やかさに心躍ったことだろう。

名をあげる。
収入を得る。
結果、そうなったのだけれど。

目指す色を工夫を重ねて
染め上げた瞬間の喜びは、

“あぁ、人に見せたい!”

ではなかったかと思う。

情熱的な紅色を
たくさん見つけた時、
あぁ撮りたい!
人に見せたい!
と思った。

その時、
もう撮ることのできなくなったカメラの
シャッター音が聞こえた気がした。

迷っても、壊れても、
何かになれなくても、
撮りたい。発信したい…。
その気持ちが、シャッターを押させる。

修理代が高くつくため、
今回、古い型のカメラを買った。

洗濯物を干していると、
赤とんぼが物干し竿に留まった。
その赤色を撮りたい! と思った。

「それは、ほんもの? 紛いもの?」
そう問いかけながら、
これからも色を求め続けていく。

ほんものかどうかは、
のちの日に人が評価する。