さようならば、秋の色。

秋が深まり、
紅葉だよりなど聞かれるようになった。
冷え込む朝は、寒さよりも
葉の色づきが気になって仕方ない。

藤黄(とうおう)色は、
鮮やかな黄色。
採取される植物の顔料「藤黄」から
この名がついたという。

「イチョウ並木が鮮やかに色づいています」
という情報に、いてもたってもいられずに、
秩父を訪れた。

当日は、「雨ときどき曇り」予報。
けれど、目的地にたどり着いた時は、
笑ってしまうほどの土砂降り。
激しい雨の中、
誰もいないイチョウ並木を
ずぶ濡れになりながら撮って歩いた。

雨に煙る景色の中では、
やわらかな黄色に見える並木道。
膝から下が重くなるほど濡れながら、
近づいてよく見ると、葉はまだ若い黄色。
雨にぬれることも楽しむように
キラキラと輝いている。

雨の重さを、ときどき振り払うように、
パーンと弾けて水しぶきあげる葉っぱたち。
溌剌とした瑞々しい命の輝きを見た。

その眩しい色は、
華やかに見えながらも、
落ち着いた日本の秋景色の色。
藤黄色は、古くから日本画の絵の具、
工芸品の塗色として珍重されてきた
和の色だ。

並木道の木々を包む、
たっぷりとした藤黄色の葉は、
時にハラハラと落ちていく一枚一枚に、
「さようなら」
と、手を振るように見送っている。

いつか、自分も落ちてゆくことを
知りながら、やさしく見守るように。

「さようなら」の言葉は、
「それなら」「それでは」
という接続語から来ているらしい。
“さようならば(それならば)、これで別れましょう”
から生まれた言葉という。
時が満ちて、枯れてゆく。
それでは、これで。
と、落ちてゆく。

人も木々の葉も同じなのだなぁ。

若い頃は、老いることなど思いもせず、
その姿や動きは、自分には関係ないものと
思っていたようなところがあった。
枯葉になって落ちていくのを
無邪気にバイバーイ! と
手を振ってしまうような。

さまざまな色のイチョウが見られる
その並木道は長く続いていて、
時に汽車型の園内周遊バスがやってくる。

遠足の子供たちが傘さして進む。
雨の中も楽しそうに賑やかに。

それを見守る優しい老人のように、
ゆっくりと注意深く、
誰も乗せずに、寂しそうに去ってゆくバス。

おそらく今年はオープンしなかった
バーベキュー場やレストランも
引越しのあとのように
しんとしている。

静かな夏が過ぎて、
さみしい秋が来て、
やがて身も縮む寒さの冬がくる。

来月末にはもう、
今は藤黄色に輝く葉も落ちて、
景色は全く変わっているだろう。
うらがれたイチョウ並木の光景に
この秋の景色を懐かしく思い出す人は
いるだろうか。

毎年、季節や自然の色に
「それならば、これで。」
と、別れを告げて来たのに、
今年はそれも言えなかったような
あっけないような寂しさが胸にある。

いつも通りのようで
全く異なる2020年の秋。
せめて彩りだけでも
いつもよりうんと鮮やかであるように願う。

冷たい風の中、
その願いだけは叶えられそうな気がしている。

実りのときの色。

二ヶ月ぶりに撮りに行った。
景色が驚くほどに秋めいて、
彩り豊かになっていた。
濃く深く、鮮やかにして優しい秋の色。

仏手柑(ぶしゅかん)色は、
深く渋い緑色。
仏手柑(ぶしゅかん)とは
シトロンの一種。
調べてみると、
高知の四万十で栽培されている果実、
「ぶしゅかん」の色が
この色に近いと思った。

十月になった。
暑さの余韻があるように、
夏の名残が、まだあちこちにあると思っていた。

けれど自然は、
季節の変化を察知し、色を変えていた。
秋という字は、「実り」、
そして、大切な「とき」を意味する。

大切に育ててきた稲や果実がなる
実りの「秋(とき)」。
収穫のとき、喜びの季節だ。

外出自粛、ソーシャルディスタンス、イベント中止…
そんな世の中の動きの中でも
時が満ちたら、こんなふうに花が咲き、
稲が実り、景色が色づく。
もちろん、そこには丹精する人がいて、
日々世話をし、作業を行い、秋の姿へと導いてくれたのだ。
その尊さを、改めて感じた。

どんな時も、暦に従い、
やるべきことをやり、積み重ねていくこと。
その厳しさ、大変さを経たから
喜びの時がやってきたのだ。

秋の彩りは眩しく、美しい姿で、
そのことを教えてくれた。
振り返って、自分はこの数ヶ月、
きちんと成すべきことをやってきただろうか。
こんな時だから…と、言い訳をして
怠けてはいなかっただろうか。

その答えは自分で出さなくても、
「実り」として結果に現れる。
稲穂が重く頭を垂れているように
自分の中で積み重ねてきたものがあれば、
どっしりと肚の奥に感じられるものがあるはずだ。

景色をじっと眺めながら、
自分自身も見つめていた。
手応えは、とても頼りないものだった。

仏手柑(ぶしゅかん)色を探して
見つけた高知の「ぶしゅかん」。
その果実について調べているうちに、
五年前に高知を訪れた時のことを思い出した。

荒々しく雄大な桂浜、
可愛らしいはりまや橋、
のどかな山寺からついてきた猫…。
操作も構図もよくわからないまま、
目にするものを撮っていた。

今見ると、あぁ、せっかくの景色を…
と悔やまれ、再び訪れることができたら
どんなふうに撮るだろうかと
写真を眺めていた。

そして、「あ!」と気づいた。
カメラを変えて、たくさん撮って、
失敗を重ね、五年の月日がたった。
ささやかな前進らしきものもあり、
なにより撮ることを楽しめるようになり、
人生が豊かになった。
それは実りなのだろう。
そう思うと、喜びが胸に満ちた。

仏手柑色は、春の新緑とも違う
鮮やかにして、優しく包み込むような緑色。
雨風や厳しい暑さを越えた
花や田の実りの色を輝かせる、
ときめく色。

ときめくは「時めく」とも書き、
「よい時勢にめぐりあって栄えること」という意味を持つ。
かつての日常が戻るには、
もう少し時間がかかりそうだけれど、
いつかまた、きっと、時めく時は、やって来る。

あれから一年か…
もう五年も経ったのか…と、
思い出は、先の見えない現実から、
心を遠いところまで羽ばたかせてくれることがある。

秋を楽しもう。
また未来のどこかで、懐かしく思い出せるような
素晴らしい秋(とき)にしよう。