個性が光る、いろ。

同じ場所、
同じ姿に見えていたものが、
ちがって見える瞬間がある。

埴(はに)色は、渋い橙色。
埴(はに)とは、きめの細かい気赤色の粘土のことで、
この埴で作られた焼き物が埴輪(はにわ)とされている。

二月に宮崎を旅した時、
はにわ園に行った。
一歩足を踏み入れると、
たくさんのハニワ。
約400体の複製ハニワが、
森の中のあちこちに
物語を描くように置かれている。

それぞれ違う形で、
見たことのないものもいっぱい。
眺めたり、撮ったりしていると、
花壇のお手入れ中のご婦人たちに
「ちょっとー! カメラのひとーっ!」
と、声かけられた。

「こっちこっち」と
呼ばれて駆けつけると、指差して
「ほら、ジョウビタキ」と
おしえてくれた。

ジョウビタキは、チベットやロシアから来た渡り鳥。
食べ物を求めて、人なつこく鳴くのだという。

「人馴れしてるでしょ?
私が掃除に来る曜日を知っていて、
 すぐ近くまで来るの」。
と、笑顔で語るご婦人と
しばらく話しながら一緒に
ジョウビタキをカメラにおさめた。

その日、はにわ園を訪れる人は
ほとんどなく、一人で歩いていると
ハニワの仲間になったような気がした。

ほら、こっちを撮って。
あっちから撮って。
ハニワがポーズをとって待っている。

よく見るとさまざまな表情がある。
遠くから見たときには、
「ハニワ」のひとくくりで見ていたのに。
近づくほどに、
それぞれ異なる人格を持っているように見える。

同じ埴色でありながら、
その表情や動きで、やわらかい色や、
強い色、悲しい色と、違って映るのだ。

「カメラのひと~っ!」と
また呼ばれた気がした。

振り返ると、笑っているハニワたち。
特徴も華もない、この私が、
もし、ハニワになるとしたら、
目印になるのはカメラ、だろうか。

髪型、服装、武器、道具で、
性別や職業、身分がわかるというハニワ。
その暗い目の奥から
苦しさ、悲しさ、喜び、生きがい…と、
それぞれの持つストーリーが流れて来る。

広い森を歩いていると、
昼近くになり、陽射しがどんどん強くなっていた。
木々の間からこぼれる光が、
また別の物語を語り出す時間。

草しげり、暗くなった所で、
光を集めるハニワに出会った。
それまで、日陰だったのに、
太陽の向きが変わり、
スポットライトを浴びたハニワ。

この時を待っていました!
と、喜びに輝いている。

どこにも動けなかったけれど、
ここでこうして、
できることを精一杯取り組んでいたら、
光がやって来た。

そんな喜びに、
微笑みをたたえて神々しく光る姿を、
しばらくぼんやり見ていた。

主役、脇役、性別、身分。
全て関係なく、おひさまは
光集めるチャンスを与えてくれる。
等しく、やさしく、強く、眩しく。

ハニワは黙って教えてくれていた。
その教えの深さを、今、改めて思い知る。

掃除を終えたご婦人たちが
おしゃべりをしながら帰る。
埴色に近いジョウビタキが
それを追いかけるように飛んでいく。

生きて、笑って、光を浴びることの幸せ。
あの時見た光景が、
再び、会いたい、手に入れたい、
とても幸せな眺めとして
胸に広がる。

また、カメラの人になって、
あの場所に行こう。
光は、きっとやって来る。

サビない時、サビの時。

新緑美しい五月になった。
ベランダから眺める緑も濃淡鮮やかに、
心地よい季節の到来を知らせてくれる。

山葵(わさび)色は、明るく渋い緑色。
すり下ろした、わさびの色だ。
江戸中期の頃、わさびが庶民に普及するのに
合わせて生まれた色という。

大型連休に入ったけれど、
ずっと家にいる。
本を読んだり、
ネット配信の映画を観たり。
台所の棚の整理をかねて料理したり。
ここ数年の五月の連休には考えられなかった
過ごし方だ。

自分で作る料理は飽きてくるので、
アクセントにわさびを使う。
蕎麦に、お肉に、練り物に。
はっ! と目の覚めるような
味わいが嬉しい。

わさびというと思い出すのが、
わさび漬だ。

高校生の時、お腹ぺこぺこで帰宅し、
台所の小鉢に残っていたものを
「あ! 白和えだ」と
大口でつまみ食いしたところ、
それはわさび漬。
ツーーーーーーン!
どころではなく、
鼻がちぎれ落ちそうな衝撃。
涙あふれながらも、
落ちないように鼻を押さえて悶絶した。

あの痛みと衝撃は、ちょっと忘れられなくて、
以来、わさび漬を食べていない。
とはいえ、わさびが嫌いになったわけでもなく、
毎度、涙ぐみながらも、美味しくいただいている。

それほどわさびを食べているわけではないけれど、
このところ、よく泣いている。

自宅の気安さもあって、
映画や本に感動して、
おいおい泣いているのだ。
今さらながら、
泣くのって、気持ちいいなぁ…と
思う存分泣いている。

思い切り泣くことが、感情を解放してくれ、
ウィルス不安に占領されそうな気持ちが、
幾分ラクになるような気もする。

それでも気のふさぐ時などは、
好きな音楽を、
身体を揺らしたり、時に鼻歌で
一緒に歌ったりと、
自宅ならではの楽しみ方で
たっぷり聴いて元気づけてもらっている。

楽曲の聴かせどころを「サビ」という。
語源は不詳と言うが、
この「サビ」とは、「わさび」から
生まれたという説もある。

寿司でわさび抜きを頼むとき
「サビ抜きで」と言うように、
わさびは「サビ」。
少量でも刺激的な味がするわさびに因んで、
曲の中の最もインパクトのある部分を「サビ」
と言うようになったという。

また、謡曲・語りもので、
独特の謡い口調のことを「寂(さび)」と呼ぶ。
その声帯を強く震わせて発する、
低くて渋みのある声は、
「最も盛り上がるところ」に使われ、
それが時を経て、強調する部分を
「サビ」と言われるようになったというのだ。

ツンと刺激のあるサビと、
寂しいという文字から生まれたサビ。
盛り上がりながら、
どこか、鼻の奥がツンとするような、
人に会えない寂しさを抱えた、
今の気持ちを表現しているようにも思われる。

外出自粛は、
家の中で様々な発見もさせてくれる。
ふだんはバタバタとして
忘れていたことが、
棚や引き出し、パソコンから、
ほら! と現れてくる。

せっかくだから、
鼻の奥がツンとくるような
胸の奥がキュンとなるような
そんな刺激や思い出も
久しぶりに取り出してみよう。

どんな時も、どんな日も、
二度と戻れない、かけがえのない瞬間。

「わさびは笑いながらすれ」とも言う。
ツンときて、泣かされるわさびも、
笑いながらやさしくすれば、
まろやかに美味しくなる。
多分、言葉も同じ。

尖るような気分の時こそ、
やわらかい言葉を心がけたい。

心も頭もやわらかく、
今を充実させて、
いつかまた
人生のサビの部分を
大好きな人たちと、高らかに歌おうと思う。