毒にもなれる強さを持って。

日暮れの街に灯る
店の窓から
あたたかい笑い声が聞こえるようになった。

雄黄(ゆうおう)は、
明るく鮮やかな橙色。
雄黄という鉱物から作られたことから
この名で呼ばれている。

社会人になり、
一人暮らしをしていた時のこと。
深夜残業で帰宅して、冷蔵庫に何もなく、
コンビニへ行こうとしていた。

マンション前の通りは、広いものの
人通りが少なく、
正面からやってきた男の人と、
ぶつかりそうになった。
右に左によけるものの、
どうしてもぶつかりそうになってしまう。

改めて見ると、その男は
うす笑いのまま動きが止まり、
怖くなった。

通りに面した居酒屋へ
走って飛び込んだ。
初めて入ったその店は、
カウンター席のみの狭さながらも
満席の賑わい。

急いで引き戸を閉めて、
振り返ると、
みんながピタリと話をやめて
私を見ている。

ただならぬ表情を見て、
「お姉さん、どうしたの?」と
尋ねられた。

あわあわとなっていて、
「そこで…男の人が…」
くらいしか話せなかった。

「なんだって!?」と、
紺色の作務衣の女将さんが
カウンターから出てきて、
水を一杯くれた。

「こりゃ、女将さんの出番や」
「説教してやれ!」
陽気なお客さんの言葉に
「よし、いっちょ行ってくるわ」
と、女将さんが腕をまくって、
私と一緒に店を出た。

用心深く辺りを見回し、
シュッと手を伸ばして私を庇いながら、
「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、
マンションまで送ってくれた。

「また、何か怖いことあったら、
 いつでもおいで」。
突然転がりこんできた小娘に
女将さんはやさしく笑ってくれた。

その夜は、恐怖から一転、
大人のあたたかさと、安心感に包まれた。

先日、日時計を見に行った。
日没前の小高い丘にある時計の周りを
たくさんの花が咲き、人が集まっていた。

夕刻、雄黄の色に辺りを染めて、
日が沈む。
人も、日時計も、ゆっくりと
暗闇の中に消えてゆく。

あの時の女将さんと、今の私は
同じ歳の頃になるのだろうか。
あんなに頼もしい大人になっていないことに
情けなさも感じる。

どんな人にも人生の時計があり、
それぞれの時を生きて、
夕暮れの時を迎える。

雄黄は、毒性が強いことでも知られている。
「雨月物語」では、
蛇の化身を退治するために、
法師が雄黄を持って、
立ち向かおうとする場面もあるほどだ。

蛇退治ではなくても、
日々の暮らしの中で、
思いがけずやってくる、恐ろしいもの、ことなどを
追い払うために、毒なるものが必要な時がある。

あの日、女将さんだって
怖い気持ちはあっただろう。
けれど、飛び込んできた小娘のため
毒なる力を振り絞り、守ってくれた。

暮れどきを知らせる
日時計を見ながら、
人生の夕暮れ時を迎え、自分はどれほど
人を守る力を持てたかを思った。

知恵と経験で得た力。
強さと、優しさと、艶やかさ。
大人になったからこそ、
引き出せるものがあるはずなのに。

居酒屋の灯り、
夕暮れの公園のにぎわい。
雄黄は、ほんのりとあたたかく、
後悔や焦りや、諦めさえも、
まろやかに包み込んでくれる。

日没のあと、浮かび上がる
山々のシルエットに
思い出の日々が滲んで消えていった。

暑さに溶け出す、あわいの色。

夕暮れの雲に鳥の形を見つけると、
思い出す鳥の名がある。

トキ。
トキは白い鳥なのだけれど、
飛ぶときに見せる翼の内側、
尾羽、風切羽(かぜきりばね)の色が、
黄みがかった淡くやさしい桃色になっている。
それを鴇(とき)色という。

トキは、遠い昔、どこにでもいる鳥だった。
現在では、日本に野生のトキはおらず、
絶滅危惧種の鳥となっている。

テレビや本でしか見たことのない
私にとっては幻の鳥。
なのに、飛ぶ姿や色の美しさが忘れられず、
夕暮れの空に、その姿を探してしまう。

夏の太陽は、強くまばゆく熱を放つ。
汗をふきふき、少しでも暑さ和いで…と、
日が暮れるを待つのに、
沈む夕陽が、あまりに綺麗だと
なんだか名残惜しくなる。

「行き暮れる」という言葉がある。
行く途中で日が暮れる、という意味。
夕陽を夢中になって見ているうちに、
気づけば夜の帳が下りて、
今いるところも、行き先もわからなくなる…
そんな気持ちになってしまう。

暮れなずむ、行き暮れる…。
黄昏の言葉は、美しく、危険な甘さもあって、
熱にほだされたように、うっとりしてしまう。

黄昏どきは、「誰そ彼(誰ですかあなたは)」と
たずねる薄暗い時。
夕陽を背景にした人の姿が
もう会えなくなった人に見えるときがある。
その人ではないとわかってのに、懐かしく慕わしく眺めてしまう。

また、スマホで夕陽を撮っている人も見かける。
思いつめたように送信している人の姿には、
この美しさを見せたい、感動を伝えたい人があるのだという
切なさが溢れていて、つい見とれてしまう。

無邪気に遊ぶ人たちの姿には、
かつての自分の姿を重ねて
微笑みながら、遠い昔を顧みる。

そんなふうに
あやしく美しい夕陽の魔法の中にいて、
気がつくと、あたりが真っ暗になって、
帰り道が見えなくなる。
行き暮れてしまうのだ。

鴇色は、江戸時代の染色の見本帳によっては
「時色」と表記されていることもあるという。
借字とはいえ、
時を忘れさせ、さまざまな時へと誘う色。
魔界へと放たれた鴇、その色らしい文字にも思える。

夏の夜空に弾ける花火にも、
鳥の羽が広がったような形や
鴇色はなかっただろうか。

夏は、きっぱりとした空の青、雲の白、
そして夜の漆黒の暗さを持っていながら、
その間に、心和む夕暮れの色がある。
暑さに疲れた体を癒してくれる
やさしさのような淡い鴇色が
熱と湿った空気を伴って、
身も心も包み込んでくれる。

昼と夜のあわいの色合いをさまざまに
混ぜて溶かして見せながら…。

何もかも、例年とはちがう今年の夏だけれど、
その色のやさしさ美しさは、
変わらない。

行き暮れた日には
家の灯りのように。
失望や悲しみに襲われた時は、
胸の中で負けまいと灯す炎のように。
きっと、明るく輝いている。

ふっくら丸い夕暮れの色。

寒さに背中も丸くなる冬。
街で見かける雀たちも、
羽毛に空気を取り込んで
「ふくら雀」になって
寒さをしのいでいる。

ふくら雀

ふっくら丸いその色は、
赤みがかった茶色、
「雀茶(すずめちゃ)色」だ。

東京駅

冬のこの時期は、
空気も澄んで、夕暮れ空が
とても美しい。
その夕暮れは、
雀色時(すずめいろどき)
とも言うのだとか。

日本家屋

はて、雀の色をしていただろうか…。
とも思うけれど、
雀の色は、誰もが知っているのに
いざ言葉で表そうと思うと、
おぼろげで、どんな色かと
表現できない…。
そんな曖昧で、
ぼんやりしたところが
夕暮れの空のイメージに重なることから
その名で呼ぶようになったのだと言う。

丸の内

確かに夕焼けの色は、
表現しようとすると、
どんどん色を変えてゆき、
言葉が色に追いつかない。

そして、
夜の闇に吸い込まれる直前は、
雀の色のような
ほの赤く暗い茶色の時がある。

丸の内

言葉にできないものを、
ほら、できないでしょう?
というものに表現してみせた
昔の人の心の使い方を
すばらしいと思う。

バイオリン

今年も、
ニューイヤーコンサートに出かけた。
新年らしく、ワルツにポルカ。
心躍るひとときだった。

とりわけ今回心惹かれたのは
バイオリンの表情豊かな音色。
あの小さな楽器から放たれる音が、
軽やかに、時に重厚に
肩にとまったり、
全身を包み込んだり。

銀座マリオン

その様子は、
木の枝にとまる雀たちのように思われた。
仲間と歌い、笑い、おしゃべりし、
ぱーっと飛び立って行ったり、
風にのって、ふわふわ飛んでいたかと思うと、
静寂の中、じっとこちらを見つめているような。

雀

これもまた、
言葉にできない感動で、
曖昧な雀色に
心を染められたような時間だった。

何に出会ったとしても、
見ようとしなければ、見えない。
聴こうとしなければ、聴こえない。

神田川

曖昧でも、表現できなくてもいい。
まずは感じてみよう。
そこから、発見や
喜びが生まれる、そんな気がする。

昔の人が「雀色の時」という名を
夕暮れに当てて、
しみじみとそうだな、と思ったように。

根津美術館

春は遠いけど、確実に進んでいて、
新しい気づきや喜びは、
土の中で
芽吹く時を待っている。