いと・ころーるを求めて。

秩父銘仙館へ行った。
これまで着物は色々
見てきたつもりでいたけれど、
銘仙という織物は、
ちゃんと見たことがなかった。

銘仙が作られる工程、道具の
展示を見てまわる。
大正から昭和初期の意匠も
たくさん見られ、レトロな気分に浸った。

あれこれと違いはありながらも、
気がつけば、そこに
丹後ちりめんの作られる工程を
重ねて見ていた。

私は「機(はた)屋の娘」だった。
父は糸の整経をし、
母が主に機を織っていた。

私にも家業の手伝いがいくつかあった。
束ねられ、固い紙に包まれた
絹糸の荷をほどくこと。
杼(ひ)に入れる緯糸を巻く管巻き。
縦糸を整経するための糸の配置。
織物業の家ならではの、
子どもの仕事だった。

自分の記憶の中でも、
もう薄ぼんやりとなっていたそれらの作業を、
展示を見ながら、
生き生きと思い出していた。

丹後ちりめんは、銘仙と異なり、
白生地を織る。
なので、色のついた糸を見ると、
「ちがう、これじゃない」
…そう思うのだけれど、
管巻きの機械や整経機を見ると、
懐かしかった。

糸、織物に関わるものは
すべて慕わしいのだと気づく。

銘仙館の中には、藍染のために
藍が建ててあった。
全く別のものではあるのだけれど、
我が家では土間に大きな桶を置いて
糸が染料につけられていたのを
思い出した。
夏は、水が腐ったような臭いがして
嫌だった。
糸が全体に浸かるように作業する
父の爪は、藍染の職人のように
青く染まっていた。

母が織ったちりめん。
それらを収納されていたロッカーを
開けると、ごわついた絹織物独特の匂いがした。

織機の縦糸も懐かしい。
銘仙は縦糸が1300~1600本ほど。
一方、丹後ちりめんは3800本ほどあるという。

この経糸を新しいロールの糸に
交換するときに、古い糸と継ぐ作業がある。
実家では、この手作業をする人を
「経継ぎ(たてつなぎ)さん」と呼んでいた。

機(はた)を止めたあとに、たてつなぎさんは
二人一組でやってきて、夜遅くまでの作業にかかる。

電気を消した暗い工場に、
作業中の機のところだけ電気がついている。
二人のおばさんが
静かに話しながら、手を休めることなく
糸を一本、一本つないでいく。

夜九時過ぎにお茶菓子を持っていく。
蛍光灯の下、白い絹糸が反射して、
おばさんたちのいるところだけ、
パーッと光るように見えた。

二、三時間ほどかかっただろうか。
深夜になって、作業の終わりを告げて
たてつなぎさんは静かに帰られる。
「おおきにぃ」とお礼を言って、
工場の電気を消す。

真っ暗な中でも、
繋がれた糸は、まだ白く光っているように見えた。

色とりどりの銘仙を見ながら、
白く光るような糸や、ちりめんを思い出していた。

結局、着物を着こなすこともできず、
和装と関わりのない暮らしの中でも、
白い絹糸は、自分の中に存在していると
改めて思った。

染められた糸は、自分の中にはなく、
ただ白い糸だけが流れている。
そして、見た色、出会った色を
その糸に着色し、名前を見つけ、
言葉にしてきたのだった。

それは、絹のように
しなやかで光沢のあるものなのか、
木綿のように素朴で強いものであるか。
まだ、私にもわからない。

いと、と、いろ(ころーる)。
これからも見えない糸に導かれ、
出会うものを撮り、言葉を紡いでいこう。

白い糸で結ばれた縁を
大切に結び、
私の目で、想いで、
好きな色に染めていくのだ。