散る花びらのゆくえ。

旅先で見た一瞬の光景が、
忘れられないことがある。

一斤染(いっこんぞめ)は、
紅花で染めた淡い紅色をさす。
一疋(いっぴき・二反)を
わずか一斤(約600グラム)で
染めることから、この名がついた。

平安時代、濃い紅花染めは
高価であるため、身分の高い人しか
使用の許されない「禁色」だった。

しかし、うすい紅色ならば、
低い階級の人々も使用が許されたため、
色の薄さを量的に示した
「一斤」をつけた
一斤染の色が生まれたのだ。

当時の人々は、少しでも濃い紅色を
使いたいと願い、憧れたという。

つまり、一斤色は、
人々の要望から生まれたのではない、
身分による線引きの色と言えるかもしれない。

時は流れて、今、一斤色を見ると、
紅色よりも、ひかえめな優しい色合いに
心和み、安らぐ気がする。

桜の花も、二分咲きあたりだと、
空の色によって色味が淡く、はかなげに見える。
満開になる頃に、花全体が
大きく膨らむように一斤染へ染まっていく。

去年の春、富山を旅した時、
桜の時期は過ぎていた。
桜はもう見られないものと思っていた。

ところが、宇奈月温泉駅へと向かう列車で
ぼんやりと窓の外を眺めを見ていると
美しい緑色の自然の中、
一本の満開の枝垂れ桜を見つけた。

雄大な景色の中に、たっぷりと枝を
広げて咲いている桜は幻想的にも見えた。

はっ! と気づいて急いでスマホで写真を
撮ったものの、それがどこの駅だったのか
全く記憶にない。

夢のような景色だった。
偶然にも、その日、その時が満開で、
また乗っていた車両が、
桜の目の前で停まってくれたのだけれど。
待っていてくれた…そんな気がした。

毎年、桜の時期は写真を撮りに行く。
桜の写真は、どれも、特別な時間を映す。
楽しい非日常。
その楽しさは、旅と少し似ている。

今、私たちは、
新型コロナウィルスの感染拡大によって、
予想もしなかった非日常の中にいる。
旅のように、出発した覚えもなく、
この日、ここから、という線引きもなく、
気がつけば放り込まれ、
いつ戻れるかもわからないような非日常だ。

一斤染は、紅色に憧れながら、
使うことを許されなかった人々が、
紅色に憧れて生まれた色。
人々が望んで出来た色ではなかった。
望まれず生まれた色なのに、
その優しく愛らしい色合いが、
春の色として、今では好ましい色になった。

長い年月、さほど愛されずにきた時間を
耐えて、あり続けて、待ったから
今、こんなに愛される色なのだろう。

待てないこともあるけれど、
待つしかない時もある。

一斤染のように、
車窓で見つけた遠い街の一本の桜のように、
待つことの切なさ、大変さ、重みを想う。

意思のままでも、そうでなくても、
流れて行く時間の中で生きていくのなら、
隣り合う人、つながる人と、
語ったり、力をあわせたりして、
できるだけ明るく流されていきたいと願う。

どこかで待っていてくれる、
ひと、時、場所が、明るいものであるように。
いつかまた、光の中で、
一斤染の散る花びらの行方を見たいから。

声を彩る色は何色?

台風の翌日、
近所の畑の木々に鳥が集まり、
賑やかに鳴いていた。

美人祭(びじんさい)色は、
明るく淡い紅色。
美人瞼色も、ほぼ同じ色とあり、
おそらく遠い昔の美女の瞼を彩る色
だったのかもしれない。

先日、このブログの拙文を、
友人が朗読してくれた。

朗読会での動画を見せてもらった。
女性らしい声の友人が、
時に少年ぽく登場人物にあわせて、
声のトーンや強弱を変えながら、
生き生きと、
臨場感たっぷりに読んでくれていた。

単調な文が呼吸して、
色づけられた気がした。
私が書いたものではなく、
別の物語に聴こえた。

声の音色、調子のことを
声色(こわいろ)という。
感情によって、
明るくなったり、暗くなったり、
低く高く、重くなる声の色。

それを見事に使い分けて、
登場人物の気持ちを表し、
地の文の味わいを豊かにし、
盛り上がりをつけていく…。

それまで知らなかった朗読という世界の
深さ、広がりに、驚き、感動した。

振り返って、私は自分の声を
そんなふうに表情豊かに使っているだろうか、
と考えてみた。

私の声は、出欠確認や面接の時、
初対面の人には「え?」と
改めて顔を見られるほど、
太く低く、愛嬌も華もない声だ。

たぶん、嬉しい時に少しだけ高くなるくらいで、
言葉を誰かに届ける時に
声音について考えたことはなかったように思う。

嬉しい時、喜びを伝えたい時、
そして、誰かを強く励ましたい時、
心の内に、この「美人祭色」を描いて
一番いい声音で声かけることができたら。
少しは、気持ちも伝わるのかもしれない。

台風が過ぎて、賑やかに鳥が鳴く様子は
きっと「生きてるかー」「元気だよー」と
交信しているんだね、と友人と話した。

そう思って聴くと、鳥の声音も
美人祭色に華やいだ。

発する時だけでなく、
聴く時も、声音の彩りを想うことの
大切さを知ったのだった。