サクサク秋さんぽ。

散り敷かれた落ち葉を
踏むと、サクサクと
香ばしい音がした。

纁(そひ)は、
明るい赤橙色。

読みづらいこの名は
古代中国の茜染めからきている。
染める回数によって色名が変わり、
三回染めの名前が「纁(そひ)」だった。

「蘇比」と表記されることもある。
同じ色のはずなのだけれど、
こちらは、調べると
より黄色味の強い色が現れる。

紅葉し、刻々と変化して
豊かな色合いを持つ、
秋の色だなぁ…と思った。

「楓葉萩花秋索々」
という白楽天の詩がある。

「秋索々」。
この言葉を知ってから
落ち葉を踏み歩く時、
ふと頭に浮かぶようになった。

「索索」とは、
「さらさらかさかさ音のするさま」と、
「心の安らかでないさま」という意味がある。
索々、サクサク…。

秋の色をたずねながら、
落ち葉の絨毯の道を、
ゆっくりと歩く。

茜染めのような
濃淡さまざまな色合いは、
目に染みるように美しい。
秋の陽が、より一層その眩しさを増し、
何度も足を止めて眺めいる。

去年の秋は、
無言で、足早に歩き、
色づく葉を見上げるのも、
罪悪感を感じた。

時も歩みも、
止まったままのような日々が続いた。

この秋は、同じ止まるにしても、
ゆったりと景色を愉しむため。
そのことが、こんなにも嬉しい。

「索」には
「探し求める」と、
「なくなる」という意味がある。

紅葉を探して求めても、
季節が過ぎると、
色は褪せ、葉は落ちて、
やがてなくなる。

「秋索々」という言葉は、
刻々と変わる季節の表情、
秋の心もようも見せてくれる。

サクサク歩くと、
去年は見られなかったものが
たくさん見られた。

参道の茶屋で、
おみくじ付きのお団子はいかが?
と、声かけられる。

お陽さまの下で食べるお団子は
また格別!
と、モグモグ食べたら
食べ終えた串に「大吉」が出た。

団子屋さんに持って行ったら
「あら、大吉なのに持って帰らないの?」
と、言われた。
当たりもう一本!
ではなかったらしい。

久しぶりだから、
足腰が心配だ…と
石段を用心深く上がる人、
その背中に、そっと手を当てながら
「ほら、しっかり」と
笑顔で支える人たちの後ろ姿。

互いをスマホで撮りながら、
笑い合うカップル、
友だち、家族連れ。

去年は見られなかった光景、
聞こえなかった声だ。

「日常」とは
こんなに、朗らかなものだったのか…
と、改めて思う。

橋に人だかりがあり、
何の景色かと覗いてみると、
バンジージャンプを楽しむ人がいた。
広々とした自然に向かって
ダイブしながら、大声を出している。

見る人たちも、驚きながら
笑っている。

キョロキョロ、ニコニコ、
サクサクと、秋の道行きは
にこやかな発見に満ちている。

撮る写真は、
染め物のように、さまざまな色合いが
記録されてゆく。
私の茜染めだ。

折々の想いを込めて
染め上げられた布のような
紅葉のグラデーション。

「索」は、
もともと両手で糸を撚り合わせる形から
生まれた文字という。

たくさんの想いや願い、
人それぞれの時間に生まれた糸が
撚り合わされてできた眺めに思われた。

二年前の秋に訪れた、
平泉の高台から見た紅葉を思い出した。

また、旅したいなぁ。
ぽつり、つぶやく。

あたりの人たちのざわめきに、
同じ想いの声が聞こえた気がした。

毒にもなれる強さを持って。

日暮れの街に灯る
店の窓から
あたたかい笑い声が聞こえるようになった。

雄黄(ゆうおう)は、
明るく鮮やかな橙色。
雄黄という鉱物から作られたことから
この名で呼ばれている。

社会人になり、
一人暮らしをしていた時のこと。
深夜残業で帰宅して、冷蔵庫に何もなく、
コンビニへ行こうとしていた。

マンション前の通りは、広いものの
人通りが少なく、
正面からやってきた男の人と、
ぶつかりそうになった。
右に左によけるものの、
どうしてもぶつかりそうになってしまう。

改めて見ると、その男は
うす笑いのまま動きが止まり、
怖くなった。

通りに面した居酒屋へ
走って飛び込んだ。
初めて入ったその店は、
カウンター席のみの狭さながらも
満席の賑わい。

急いで引き戸を閉めて、
振り返ると、
みんながピタリと話をやめて
私を見ている。

ただならぬ表情を見て、
「お姉さん、どうしたの?」と
尋ねられた。

あわあわとなっていて、
「そこで…男の人が…」
くらいしか話せなかった。

「なんだって!?」と、
紺色の作務衣の女将さんが
カウンターから出てきて、
水を一杯くれた。

「こりゃ、女将さんの出番や」
「説教してやれ!」
陽気なお客さんの言葉に
「よし、いっちょ行ってくるわ」
と、女将さんが腕をまくって、
私と一緒に店を出た。

用心深く辺りを見回し、
シュッと手を伸ばして私を庇いながら、
「よしよし、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、
マンションまで送ってくれた。

「また、何か怖いことあったら、
 いつでもおいで」。
突然転がりこんできた小娘に
女将さんはやさしく笑ってくれた。

その夜は、恐怖から一転、
大人のあたたかさと、安心感に包まれた。

先日、日時計を見に行った。
日没前の小高い丘にある時計の周りを
たくさんの花が咲き、人が集まっていた。

夕刻、雄黄の色に辺りを染めて、
日が沈む。
人も、日時計も、ゆっくりと
暗闇の中に消えてゆく。

あの時の女将さんと、今の私は
同じ歳の頃になるのだろうか。
あんなに頼もしい大人になっていないことに
情けなさも感じる。

どんな人にも人生の時計があり、
それぞれの時を生きて、
夕暮れの時を迎える。

雄黄は、毒性が強いことでも知られている。
「雨月物語」では、
蛇の化身を退治するために、
法師が雄黄を持って、
立ち向かおうとする場面もあるほどだ。

蛇退治ではなくても、
日々の暮らしの中で、
思いがけずやってくる、恐ろしいもの、ことなどを
追い払うために、毒なるものが必要な時がある。

あの日、女将さんだって
怖い気持ちはあっただろう。
けれど、飛び込んできた小娘のため
毒なる力を振り絞り、守ってくれた。

暮れどきを知らせる
日時計を見ながら、
人生の夕暮れ時を迎え、自分はどれほど
人を守る力を持てたかを思った。

知恵と経験で得た力。
強さと、優しさと、艶やかさ。
大人になったからこそ、
引き出せるものがあるはずなのに。

居酒屋の灯り、
夕暮れの公園のにぎわい。
雄黄は、ほんのりとあたたかく、
後悔や焦りや、諦めさえも、
まろやかに包み込んでくれる。

日没のあと、浮かび上がる
山々のシルエットに
思い出の日々が滲んで消えていった。

秋めいて、あきらめる色。

山粧う秋の景色を
観に出かけた。
目に眩しい、盛りの紅葉を
捉えることはできなかったけれど、
色とりどりの秋の葉の美しさを堪能した。

黄丹(おうに)色は、
鮮やかな赤みの橙色。

「黄丹」は昇る朝日の色とされ
皇太子の位の色を表し、
儀式に着用する束帯装束の
袍(ほう)の色とされている。

平成から令和への
皇位継承儀式でも目にした
「絶対禁色」である。

この秋は、気楽にあちこちと
出かけられないこともあり、
ネットやテレビで
葉の色づき加減を確認して
出かけた。
けれど、慎重になりすぎたあまり、
早すぎたり、遅すぎたりして、
期待した色鮮やかな紅葉に、
うまく出会うことができなかった。

これも、今年らしい出来事かもしれない。
そう思いながら、目にする秋の葉を
愉しんだ。

秋の葉の色づきは、
好天ならば眩しく嬉しいものなのに、
雨の日や曇天になると、
うら淋しい眺めになる。

また桜のように一気に散ることなく
枯れたまま木の枝に残っている姿、
散り敷かれた落ち葉の褪せた色合いも、
間に合わなかった寂しさの色が
濃くなる気がする。

間に合わなかった…と
あきらめるしかないのだけれど。

秋のあきらめ。
と、思いながら、スマホを出して
「あきらめる」という言葉を検索してみた。

「あきらめる」は、
「諦める」と書き、
「仕方ないと断念したり、
 悪い状態を受け入れること」
という意味がある。

けれど、もうひとつ。
「明らめる」
と書く言葉があるのを知った。
この「あきらめる」は、
「明るくさせる」という意味。
まるで明暗逆のようなこの言葉を、
私は今まで知らなかった。

枯れそうになった葉が
ぽっと色づいたような、
花咲か爺ならぬ
明らめ婆の気分になった。

言葉ひとつで、目の前の世界の
色は変わる。

紅葉に間に合わなかった伊香保では、
遠くに雪をかぶった山が見えた。
冬が近づいている。

気がつくと、十一月も残りわずか。
黄丹色の袍に、いにしえの時を想う
皇室行事を見ることのできた
令和二年。
ざわざわとして、ひと月ひと月が
表面をなで走るように過ぎていった気もする。

それでも、この一年の日々で
令和という新しい元号が
ゆっくりと、身に、心に馴染んだ気がする。

コロナだ、自粛だ、新生活だ、と、
馴れないこともあったけれど、
心をならし、ざわめきを抑えながら
それらとも共に暮らすよう
自分なりに努めてきたと思う。

紅葉を眺めていると、
ぽとり、ぽとり、と葉が散り落ちる音が
聞こえてきた。

木の葉が盛んの落ちるのを
時雨にたとえた、
「木の葉時雨(しぐれ)」
という季語がある。

木を、土を慈しむ、優しい雨が、
秋の名残りを知らせる葉書のように
落ちてゆく。
古い葉を落として、土にかえり、
栄養になって、新しい命を育む準備が
もう始まっている。

物言わぬ自然が、
その姿で、あり方で、今やっていることに
何ひとつ無駄はないのだと、励ましてくれる。

焦るな、焦るな、と、
自然はおおらかに包み込んでくれる。
諦めないで、明らめながら、
この秋の道を進んでいこう。

実りのときの色。

二ヶ月ぶりに撮りに行った。
景色が驚くほどに秋めいて、
彩り豊かになっていた。
濃く深く、鮮やかにして優しい秋の色。

仏手柑(ぶしゅかん)色は、
深く渋い緑色。
仏手柑(ぶしゅかん)とは
シトロンの一種。
調べてみると、
高知の四万十で栽培されている果実、
「ぶしゅかん」の色が
この色に近いと思った。

十月になった。
暑さの余韻があるように、
夏の名残が、まだあちこちにあると思っていた。

けれど自然は、
季節の変化を察知し、色を変えていた。
秋という字は、「実り」、
そして、大切な「とき」を意味する。

大切に育ててきた稲や果実がなる
実りの「秋(とき)」。
収穫のとき、喜びの季節だ。

外出自粛、ソーシャルディスタンス、イベント中止…
そんな世の中の動きの中でも
時が満ちたら、こんなふうに花が咲き、
稲が実り、景色が色づく。
もちろん、そこには丹精する人がいて、
日々世話をし、作業を行い、秋の姿へと導いてくれたのだ。
その尊さを、改めて感じた。

どんな時も、暦に従い、
やるべきことをやり、積み重ねていくこと。
その厳しさ、大変さを経たから
喜びの時がやってきたのだ。

秋の彩りは眩しく、美しい姿で、
そのことを教えてくれた。
振り返って、自分はこの数ヶ月、
きちんと成すべきことをやってきただろうか。
こんな時だから…と、言い訳をして
怠けてはいなかっただろうか。

その答えは自分で出さなくても、
「実り」として結果に現れる。
稲穂が重く頭を垂れているように
自分の中で積み重ねてきたものがあれば、
どっしりと肚の奥に感じられるものがあるはずだ。

景色をじっと眺めながら、
自分自身も見つめていた。
手応えは、とても頼りないものだった。

仏手柑(ぶしゅかん)色を探して
見つけた高知の「ぶしゅかん」。
その果実について調べているうちに、
五年前に高知を訪れた時のことを思い出した。

荒々しく雄大な桂浜、
可愛らしいはりまや橋、
のどかな山寺からついてきた猫…。
操作も構図もよくわからないまま、
目にするものを撮っていた。

今見ると、あぁ、せっかくの景色を…
と悔やまれ、再び訪れることができたら
どんなふうに撮るだろうかと
写真を眺めていた。

そして、「あ!」と気づいた。
カメラを変えて、たくさん撮って、
失敗を重ね、五年の月日がたった。
ささやかな前進らしきものもあり、
なにより撮ることを楽しめるようになり、
人生が豊かになった。
それは実りなのだろう。
そう思うと、喜びが胸に満ちた。

仏手柑色は、春の新緑とも違う
鮮やかにして、優しく包み込むような緑色。
雨風や厳しい暑さを越えた
花や田の実りの色を輝かせる、
ときめく色。

ときめくは「時めく」とも書き、
「よい時勢にめぐりあって栄えること」という意味を持つ。
かつての日常が戻るには、
もう少し時間がかかりそうだけれど、
いつかまた、きっと、時めく時は、やって来る。

あれから一年か…
もう五年も経ったのか…と、
思い出は、先の見えない現実から、
心を遠いところまで羽ばたかせてくれることがある。

秋を楽しもう。
また未来のどこかで、懐かしく思い出せるような
素晴らしい秋(とき)にしよう。