生色(しょうしき)。
この名から想像できないけれど、
金色の別称だ。
仏教では、金は、錆びずに“生まれたまま”の輝きを
保つことから、生色という名がつけられた。
高校生のとき、友人からもらった財布が、
この色だった。
四角い掌サイズの小銭入れ。
とても気に入っていた。
ところが、夏休みのある日、
電話ボックスに置き忘れてしまった。
気づくのが遅く、
あわてて引き返したけれど、
すでに財布はなかった。
携帯電話などない時代のことだ。
財布がなければ、帰りのバス代もなく、
助けを頼む電話もできない。
さて、困った!
と、泣きそうな思いで、
電話ボックス内に落ちてはいないかと
探したところ…
分厚い電話帳の間に、ぺらんと
はさまれたメモ書きを見つけた。
「ここに財布を置き忘れた方へ。
警察に届けたので、取りに行ってください」
と。
驚きと、嬉しさで、メモを持つ手が震えたのを覚えている。
警察に行き、落とした時間と物と残金が
一致したことから、落とし主と認められ、
暗い部屋に通された。
しばらくすると、穴をあけ、太いひもに通されたいくつもの
落とし物の財布を見せられた。
色とりどりの財布の中から、金の財布を
指さすときに、ふと、「金の斧、銀の斧」の
物語が頭によぎった。
私の斧(財布)は、本当に金色だったのだけれど。
個人情報にうるさい現代でもそうなのだろうか?
その時は、拾って届けてくれた人の名前と住所を
メモ書きして渡された。
新学期になって、御礼に行くことにした。
一人では少し不安で、友人について来てもらった。
その日も暑くて、探し当てた家の玄関は開け放たれていた。
突然の訪問に、驚きながら現れたその人は、
思っていたよりも若いお母さん。
控えめな明るさで、あたたかく応対してくださり、
奥から、小さな坊やも出て来てくれた。
お小遣いで買ったささやかな菓子も、
固く遠慮されたものの、
無邪気な坊やに渡して、本当にあの日、
助かった、嬉しかった、ありがたかった…
そんな感謝の想いを、拙い言葉で述べ、
早々に帰った。
とても良い、嬉しい思いが胸に満ちていた。
けれど、そばで見ていた友人がぽつりと、
「あの人、いい人すぎて損をして生きてるように見える…」と
率直な思いを話してくれた。
確かに、ずるい気持ちで得するくらなら、
敢えて清貧を選ぶ、そんな強さと清潔さを感じられる人だった。
ほんの数分の会話にも、そう思える美しさに
心惹かれた自分に気づいた。
いつも清々しい想いで、ものを見ること、
人に会うこと、ことにあたること。
そうすることが、どんなに飾り立てた美しさよりも
魅力的な輝きになると、あの日に教わった気がする。
この生色(しょうしき)は、
「しょうじき」と読まれることもある。
錆びないで、生まれたままの輝きを
保つ色の名、「しょうじき」。
この読み方に、多くを語らない教えのようなものを
感じる。
心の錆は、ずるさを許す自分の中からひろがっていく。
私の中の「しょうじき」は、
まだまだ弱く、得られるならば、銀の斧を捨て、
金の斧をわが物にしようと求めてしまう。
身の丈を知り、おてんとさまに恥じないように。
それを教えてくれたあの日の落とし物は、
私にとってかけがえのない拾い物だったのかもしれない。