サビない時、サビの時。

新緑美しい五月になった。
ベランダから眺める緑も濃淡鮮やかに、
心地よい季節の到来を知らせてくれる。

山葵(わさび)色は、明るく渋い緑色。
すり下ろした、わさびの色だ。
江戸中期の頃、わさびが庶民に普及するのに
合わせて生まれた色という。

大型連休に入ったけれど、
ずっと家にいる。
本を読んだり、
ネット配信の映画を観たり。
台所の棚の整理をかねて料理したり。
ここ数年の五月の連休には考えられなかった
過ごし方だ。

自分で作る料理は飽きてくるので、
アクセントにわさびを使う。
蕎麦に、お肉に、練り物に。
はっ! と目の覚めるような
味わいが嬉しい。

わさびというと思い出すのが、
わさび漬だ。

高校生の時、お腹ぺこぺこで帰宅し、
台所の小鉢に残っていたものを
「あ! 白和えだ」と
大口でつまみ食いしたところ、
それはわさび漬。
ツーーーーーーン!
どころではなく、
鼻がちぎれ落ちそうな衝撃。
涙あふれながらも、
落ちないように鼻を押さえて悶絶した。

あの痛みと衝撃は、ちょっと忘れられなくて、
以来、わさび漬を食べていない。
とはいえ、わさびが嫌いになったわけでもなく、
毎度、涙ぐみながらも、美味しくいただいている。

それほどわさびを食べているわけではないけれど、
このところ、よく泣いている。

自宅の気安さもあって、
映画や本に感動して、
おいおい泣いているのだ。
今さらながら、
泣くのって、気持ちいいなぁ…と
思う存分泣いている。

思い切り泣くことが、感情を解放してくれ、
ウィルス不安に占領されそうな気持ちが、
幾分ラクになるような気もする。

それでも気のふさぐ時などは、
好きな音楽を、
身体を揺らしたり、時に鼻歌で
一緒に歌ったりと、
自宅ならではの楽しみ方で
たっぷり聴いて元気づけてもらっている。

楽曲の聴かせどころを「サビ」という。
語源は不詳と言うが、
この「サビ」とは、「わさび」から
生まれたという説もある。

寿司でわさび抜きを頼むとき
「サビ抜きで」と言うように、
わさびは「サビ」。
少量でも刺激的な味がするわさびに因んで、
曲の中の最もインパクトのある部分を「サビ」
と言うようになったという。

また、謡曲・語りもので、
独特の謡い口調のことを「寂(さび)」と呼ぶ。
その声帯を強く震わせて発する、
低くて渋みのある声は、
「最も盛り上がるところ」に使われ、
それが時を経て、強調する部分を
「サビ」と言われるようになったというのだ。

ツンと刺激のあるサビと、
寂しいという文字から生まれたサビ。
盛り上がりながら、
どこか、鼻の奥がツンとするような、
人に会えない寂しさを抱えた、
今の気持ちを表現しているようにも思われる。

外出自粛は、
家の中で様々な発見もさせてくれる。
ふだんはバタバタとして
忘れていたことが、
棚や引き出し、パソコンから、
ほら! と現れてくる。

せっかくだから、
鼻の奥がツンとくるような
胸の奥がキュンとなるような
そんな刺激や思い出も
久しぶりに取り出してみよう。

どんな時も、どんな日も、
二度と戻れない、かけがえのない瞬間。

「わさびは笑いながらすれ」とも言う。
ツンときて、泣かされるわさびも、
笑いながらやさしくすれば、
まろやかに美味しくなる。
多分、言葉も同じ。

尖るような気分の時こそ、
やわらかい言葉を心がけたい。

心も頭もやわらかく、
今を充実させて、
いつかまた
人生のサビの部分を
大好きな人たちと、高らかに歌おうと思う。

ヒミツが噴き出す思い出色。

くすんだ淡い青緑、
緑青色(ろくしょういろ)。

箸置き

飛鳥時代、仏教とともに、
中国から伝来したという
緑系の代表的な伝統色だ。

古くから日本画の顔料として、
また、神社仏閣などの建築物や彫刻の
彩色にも用いられてきた。

浅草寺

先日、とある街の文化館で
昭和の懐かしい品々の展示を見た。
何より目を引いたのは、
ガリ版(謄写版)の一式だった。

ガリ版

小学校の頃の文集は、
全てこの印刷方法で作っていた。
道具には、緑青の色が見られて、
あぁ、これだ!
と、嬉しくなった。

ソノシート

文集作りが好きだったという
記憶はないのだけれど、
その作業が終わらず、放課後遅くまで
残っていた記憶がある。

真っ暗な校舎。
先生方の雰囲気も、どこかリラックスして、
昼間よりも親しみをこめて、
話しかけてくれた気がする。
ある先生が引き出しから出して
「内緒よ」とくれたのも、
緑青と黒色の飴で、ハッカの味がした。

木馬

暗くなった校舎は少し怖くて、
いっしょに作業する友達とは、
身体も心の距離も昼間より近くなり、
作業しながら、
たくさん内緒の話をした。

いくつもの内緒が、
ひっそりとふえる時間。

有刺鉄線

それは、誰にも言わないままに、
記憶の器に大切にしまわれて
ふたをされて、
今はもう、開けることはできない。
誰かに訊いたり、思い出すこともできない。

井戸

けれど、その記憶の器から、
ふきこぼれるような思い出が、
美しい顔料となって、
胸の中を嬉しく楽しく包んでくれる。

石像

そんなふうに、誰もが、
折々に取り出したり、
もう開けたくないとそのままにしたり、
あるいは存在すら忘れているような、
さまざまな記憶の器を
持っているのではないだろうか。

表参道

銅製品の青緑のサビをさすときに
「緑青(ろくしょう)をふく」
と言われる。
そのサビもまた、顔料になるのだという。

苔

どんなふうに置かれていても、
記憶は、心の一部となって、
時おり噴き出して
人の想いに、表情に、表れるのだと思う。

椿山荘

「サビ」は時間がつくるもの。
自分の中のサビが深く、味わいのある顔料となって、
見る人、出会う人に、
やさしい一滴の色を贈れるようになりたい。