暑さに溶け出す、あわいの色。

夕暮れの雲に鳥の形を見つけると、
思い出す鳥の名がある。

トキ。
トキは白い鳥なのだけれど、
飛ぶときに見せる翼の内側、
尾羽、風切羽(かぜきりばね)の色が、
黄みがかった淡くやさしい桃色になっている。
それを鴇(とき)色という。

トキは、遠い昔、どこにでもいる鳥だった。
現在では、日本に野生のトキはおらず、
絶滅危惧種の鳥となっている。

テレビや本でしか見たことのない
私にとっては幻の鳥。
なのに、飛ぶ姿や色の美しさが忘れられず、
夕暮れの空に、その姿を探してしまう。

夏の太陽は、強くまばゆく熱を放つ。
汗をふきふき、少しでも暑さ和いで…と、
日が暮れるを待つのに、
沈む夕陽が、あまりに綺麗だと
なんだか名残惜しくなる。

「行き暮れる」という言葉がある。
行く途中で日が暮れる、という意味。
夕陽を夢中になって見ているうちに、
気づけば夜の帳が下りて、
今いるところも、行き先もわからなくなる…
そんな気持ちになってしまう。

暮れなずむ、行き暮れる…。
黄昏の言葉は、美しく、危険な甘さもあって、
熱にほだされたように、うっとりしてしまう。

黄昏どきは、「誰そ彼(誰ですかあなたは)」と
たずねる薄暗い時。
夕陽を背景にした人の姿が
もう会えなくなった人に見えるときがある。
その人ではないとわかってのに、懐かしく慕わしく眺めてしまう。

また、スマホで夕陽を撮っている人も見かける。
思いつめたように送信している人の姿には、
この美しさを見せたい、感動を伝えたい人があるのだという
切なさが溢れていて、つい見とれてしまう。

無邪気に遊ぶ人たちの姿には、
かつての自分の姿を重ねて
微笑みながら、遠い昔を顧みる。

そんなふうに
あやしく美しい夕陽の魔法の中にいて、
気がつくと、あたりが真っ暗になって、
帰り道が見えなくなる。
行き暮れてしまうのだ。

鴇色は、江戸時代の染色の見本帳によっては
「時色」と表記されていることもあるという。
借字とはいえ、
時を忘れさせ、さまざまな時へと誘う色。
魔界へと放たれた鴇、その色らしい文字にも思える。

夏の夜空に弾ける花火にも、
鳥の羽が広がったような形や
鴇色はなかっただろうか。

夏は、きっぱりとした空の青、雲の白、
そして夜の漆黒の暗さを持っていながら、
その間に、心和む夕暮れの色がある。
暑さに疲れた体を癒してくれる
やさしさのような淡い鴇色が
熱と湿った空気を伴って、
身も心も包み込んでくれる。

昼と夜のあわいの色合いをさまざまに
混ぜて溶かして見せながら…。

何もかも、例年とはちがう今年の夏だけれど、
その色のやさしさ美しさは、
変わらない。

行き暮れた日には
家の灯りのように。
失望や悲しみに襲われた時は、
胸の中で負けまいと灯す炎のように。
きっと、明るく輝いている。

会いたい本に、出会う色。

長年使われて、表面が滑らかになった木に触れると、
小学校の図書館を思い出す。
書架、貸出カウンター、図書カードの棚…。
どれも木の手触りが、優しくて、心地よかった。

礪茶(とのちゃ)色は、赤みがかった茶褐色。
“礪(との)”は、刃物を磨く、
目の粗い砥石のことをいう。

流れた月日に磨かれたような、
礪茶(とのちゃ)色あふれる図書室。
ぐるりと三方にある大きな窓からは、
中庭の緑が見えて、明るく、吹く風も心地よかった。

ただ、全学年の本を網羅するには
狭すぎる書架に、読みたい本はなかった。

私の読みたい本はどこにあるのだろう?

そんなことを考えながら、
本に囲まれた空間にいて、
すべすべとした木に触れながら、
ぼんやりするのが好きだった。

中学、高校の図書館は、
ガリ勉と思われたくなくて
ほとんど行くことがなかった。

当時の日記を読むと、
くよくよしたり、イライラしたり、
支えになる言葉が見つからない苦しさに満ちている。

大阪にある中之島図書館に行ったのは、
短大二年生のとき。
立派な建物に気圧されて、
オロオロしながら、閲覧室の席に着き、
ふと顔を上げた時、ドキッとした。

斜め向かいに座っているのは、
校内で時々見かける、四年制大学の同級生。
人目を引くほど美しい男の子だった。
話したこともなく、相手は私のことを
知っているはずもないのに、見つからないように
隠れるほど、ドキドキした。

重厚で歴史感じる立派な建物、家具、設備、
周りは皆、洗練された人たちに見え、
さらにその同級生まで現れて、
念願の中之島図書館デビューの日は
緊張のあまり何をどうしたのか覚えていない。

その後、何度かその図書館も通い、
落ち着いて調べ物もできるようになった。
同級生の美しい彼とも、その後、
話す機会に恵まれ、会釈しあう友達になれた。
感じもよく、眺めのいい人だったけれど、
親しくはならなかった。

たくさんの人と友達になった。
失恋もした。
気づけば、いつも手もとに本があった。
悩む心、悲しい気持ちに、
しっくりと寄り添ってくれる言葉が
本の中にあった。

我ながら、よく読んだと思う。
けれど、読んだはずでも、
すっかり忘れてしまった本もある。

出会っても、親しくなる人、
深く関わることなく通り過ぎる人が
いるように、
本の出会いにも濃淡がある。

難しかったり、長編であったりして、
挫折しそうになりながら
意地になって読んだのに、
全く内容を思い出せない本がある。
その記憶は、どこに行ってしまったのだろう。

遠い日の夢のように、もう思い出せない本も、
ものを考えたり、言葉を発している時に
ひらひらと現れたりして、
私の中の一部になっているのだろうか。

心の中で砥石となって、
私の中の粗い部分を磨き、削り、
まろやかにしてくれていたら嬉しい。

どんなに素晴らしい本を読んでも、
そのようには生きられないように、
主人公の言葉を、自分の言葉にはできない。

けれど、感動は伝えられる。
伝えようとする時、言葉は自分のものになり、
誰かの力になることも知った。

小さな図書館から始まった本との出会い。
大人になり、欲しい本は買えるようになった。
それでも、やはり図書館は、
行きたいところに変わりはない。
本屋ではもう買えない、
出会うべき本が棚の中で待っている気がするから。

私の読みたい本はどこにあるのだろう?

そう心でつぶやく時、ぐるりと窓に囲まれた
礪茶(とのちゃ)色の心地よい空間が胸に広がる。