走りつづけて見つける色。

中学の時、
十キロ近い距離を走る
マラソン大会があった。
近くの山からスタートして
ゴールは学校。
クネクネ曲がる山道を
走る、苦しい行事だった。

薄花(うすはな)色は、
明るくうすい青紫色。
花色」の薄い色として、
その名がつけられた。

運動は全体的にダメだった。
球技も、リレーも、水泳も、
クラスの足手まといになり、
体育の時間は憂鬱だった。

しかし、マラソン大会は個人戦。
黙々と走っていれば、
目立つことなくゴールできる。
少しほっとする競技だった。

すっすっ、はっはっ。
吸って吸って、吐いて吐いての
呼吸で、山の中を走る。

ほぼ同じペースで走る友人と
二人で走った。
全校生徒、六百人近くいただろうか。
学年別、男女別、
何組かに分かれてスタートする。

大勢でスタートするけれど
長い山道のコースでは、
時々、迷ったかのように
人がいなくなる時がある。

それが心細い時もあり、
伴走してくれる友人が
いてくれると安心した。

きっと、速い人は、トップを目指し、
誰にも負けまい、抜かれまい、と
気を抜くことなく、全力で走っているのだろう。

私は、完走を目指すだけ。
遅くなりすぎぬよう走り抜きたい。

それでも途中、
上り道の辛さに、歩きたくなる。
伴走してくれる友人に
「先に行って」と、歩き出す。

しばらく行くと、友人が
待っていてくれる姿を見つけ、
スピードあげて、走る。

後からスタートした人たちに
勢いよく追い抜かれていく。

「ほら、頑張って!」と
明るく声かけてくれる先輩たち。
その言葉に力づけてもらいながら
歩きたいのを堪えて走る。

下りの道は、転倒に注意。
勢いがつき過ぎると、
人にぶつかることもある。

とにかく、マイペースで走る。
抜かれても、焦らない。
すっすっはっは、の呼吸を続ける。

走ることに慣れてきて、
ほんの少し、ラクになった時、
空を見上げてみる。

木々の間からのぞく空は
遠く、高く、
薄花色のやさしい空の色だった。

その色は、雲に隠れ、透かされ、
青い色が、淡くやわらかく変わってゆく。

つかめそうでつかめない
遥かかなたの色だった。

再び、辺りに視界を戻すと、
後から来た人たちが、
次々に、追い抜いていく。

気になっていた人が後ろからやって来た。

あ! と思う暇もなく、
その人は走り過ぎ、
前方を走っていた、可愛い女の子に
話しかけ、
またスピードあげて駆けていった。

勝ち目ないよなぁ…と、
苦しさに悲しみも足された。

学校に近づく頃には、
伴走していた友人と暗黙の了解で、
それぞれのベストのペースで
別れて走った。

私なりのラストスパートで、
ゴール。
…やった、完走だ!

先生から、遅い順位のカードをもらって、
グランドの隅で息を整える。

先頭チームの人たちは、
グランドの真ん中で
大の字にひっくり返って
空を仰いで、キラキラと輝いていた。

かっこいいなぁ。
あんなふうに颯爽とゴールしてみたいなぁ。

そう思いながら、遠くから見ていた。

苦しい上り、下り。
マイペースで進む。

共に走ってくれる友。
かけられた暖かい言葉。

抜かれて焦る気持ち。
遠くから眺める憧れ。
ささやかな達成感。

あの日、見たもの、感じたものは、
その後の人生で出会ったものに似ている。

走らなければ、気づかなかったこと。
生きなれば、わからなかったこと。

今、私は人生のどのあたりを走っているのだろう。

朗らかに走れる時もあれば、
思いもしないことに足止めさせられたり、
時に、道に迷う時もある。

けれど、もう知っている。

どんな時も呼吸を整えて、
一歩一歩走っていくしかないことを。

負けそうな時にも
走ることをやめなければ、
必ずどこかに、たどり着けることを。

うつむく時も、見上げる時も、
薄花色の空は、いつも優しく見守っていてくれる。

景色を染める、想いの色

人と人とのつながりや、
めぐりあわせなどのことを言う「縁」。

目に見えない縁の名を持つ
縁色(ゆかりのいろ)は、
紫色の別称だ。

由来は「古今和歌集」の歌
「むらさきの一本(ひともと)ゆえに武蔵野の
 草はみながら あはれとぞみる」
からきている。
歌の意味は
「紫草がたった一本生えている縁(ゆかり)だけで、
 武蔵野の草がみな愛おしく思える」
という。

想いが、目にする景色を愛しいものにした、
それが縁色(ゆかりのいろ)だ。

数ヶ月に一度、電話するのが楽しみな友人がいる。
その中でも、中学時代からの友人のSちゃんは、
当時から少し大人びた紫色のイメージがある。

いつも一緒にいるわけではないけれど、
昔から、何かあると、さっと手を差し伸べてくれる。
間違っているときは、辛辣な意見もくれる。
遠すぎず、近すぎず、
心地よい距離で見ていてくれる
信頼できる友達だ。

特別な話がなくても、
電話することもある。
ただ「わかってくれている」信頼で
余計な気遣いもなく、
中学生に戻ったり、母になったり、
一人の女性になったり、と、
気持ちを解放して話せる大切な存在だ。

なかなか会えないけれど、
電話のつながりが縁の糸だった。

苦しみや悩みを打ち明けなくても、
後から気づくと、あの時救われていたんだなぁ
と思うことがある。

父も電話が好きな人だった。
母が習い事で夜によく留守にしていたこともあり、
晩酌しながら、あちこちに電話していたようだ。

二人で留守番した夜、
酔って饒舌になった父が、
遠い街に住む、同級生の女性に
時々電話していることを話してくれた。

その昔、父の憧れの人だったのだろうか。
知的で、受け応えが優しくて、
毎回、話すのがとても楽しいのだ、と。

ところが、ある日の電話で、
いつものような明るさがなく、
言葉も固く、重苦しい雰囲気になった。
「電話したら迷惑ですか?」
と尋ねると
「そうね。そろそろ声が聞きたいな、という頃に
 電話くれると嬉しいな」
と、言われたのだそうだ。

その言葉を思い出して口にする父の表情は、
悲しくも幸せそうに見えた。

素敵な言葉だなぁ、と感心した。
適当にごまかさず、冷たく断るのでもなく、
やわらかな、優しい言葉で、
友情を大切にしつつ、大人の女性として
一線を引く。

たった一本の紫草が景色を変える。
たった一本の電話が縁を結ぶ、
人の心の世界を美しく染めてゆく。

父の憧れたひとに、会ったこともなく、
写真も見たことがない。
けれど、私の想像の中のそのひとは、
美しい紫色を姿勢よく着こなされていたような気がする。

今年、父の話を聞いた当時のその方と
同い年になる。
そんなふうに人の心を大切にする
言葉を発せる大人になっているかというと
心もとない。

ただ、縁ある人たちとの交流の中で
美しい結びつきを大切にし、
関わる人の心を優しく染められるような人に
なりたいと思っている。

まちがっていたら、Sちゃんは叱ってくれるだろうか。

あこがれを淡く薄めて許す色。

半色(はしたいろ)は、
深い紫と、浅い紫の中間の色。
「半」というのが、中間の意味だという。

平安時代は、身分によって「位色」が
定められていて、
深紫や深紅のように濃い色は、
高貴な人にしか使うことが許されなかった。
それを禁色(きんじき)という。
その禁色に対して、
浅い色、薄い色などの中間色である
半色(はしたいろ)は、許し色(ゆるしいろ)として
位を問わず、使うことが認められていた。

使うことが許されない美しい色を
淡くしてでも身にまといたい…。
遠い昔の人にも色への憧れや好奇心があったようで、
今と変わらぬオシャレ心に、とても親近感を感じる。

現代では身分にかかわらず、自分の好みで色を選び、
どんな色も身につけることができる。

とはいえ、私が高校生の頃、
この半色(はしたいろ)のセーターと
黒のサテンの光沢あるボトムスを買ってきた時、
ひどく叱られたことがあった。
それほど派手でもなく、シックにまとめたつもりが
どうも両親の目には、色気付いて、はしたない
なんとも情けない娘に育ってしまった…
そう映ったらしい。

娘としての「禁色」を選んでしまったのだった。
両親にとって半色のセーターは、許し色にはならなかった。

なぜ、そんなに怒られたのだろう。

今、思うに、平安の昔でなくても、着るものは
それを身にまとう人の身分、とまでは言わなくても
その人の生き方を表わすことになるのかもしれない。
色やカタチはもちろん、着こなし方も
その人の品とか想いとか、どうありたいかを表現する。

両親には、両親なりの娘にどう生きてほしいか、
どう生きてほしくないか、を
洋服ひとつにも見ていたのかもしれない。

半色(はしたいろ)。
高貴さはそのままに、淡くやさしく、ひかえめな色。
もう何色を着ても、両親に怒られることはないけれど、
年相応に、出会う人に不快感をもたれないよう、
この色をわが身にあててみたい。

うつろう時を、藍にたくして。

二藍色。
「ふたあいいろ」と読む。

色は、藍に紅花を染め重ねた紫。
ただ、紫といっても、
赤紫から青紫色まで、
紅の強みによって色調に幅がある。

なんとも移ろいやすい色…。
紫陽花にも似た、
色合いのバリエーション。

どうして、こんなふうに一つの名前に
色合いの幅があるのだろう。

それには、ちゃんとワケがあった。

二藍(ふたあい)色とは、
遠い昔の平安時代から、
身にまとう人の年齢によって、
紅みを足したり、藍を足したりと、
色の調整が行われる色だったのだ。

若いほど紅を強めに、歳を重ねるほどに藍を強く。
鮮やかな藍と、落ち着いた藍。

あの「源氏物語」の光源氏も、息子の夕霧に
「あまり紅みの強い二藍では軽く見られる」と
忠告したという場面もあるというから、
年齢と色というのは、
遠い昔から深いかかわりがあるのだろう。

もう少しあっちかな?
ちょっと行き過ぎ、こっちかな?
と、紅と藍の間を行きつ戻りつしているような
二藍(ふたあい)色。
その名も愛らしい。

語感も“ふたあい”というと、
あっちの人がいいかな?
こっちの人のほうがいいかな?
と、心移ろう男女の様子が想像されておもしろい。

古くから男女問わず愛された色だったというが、
衣の色が年ごとに少しずつ藍が濃くなってゆくのを、
当時の人たちは、どんな気持ちで受け容れ、
袖を通していたのだろう。

大人になる喜びや、
もう少し若いままでいたい切なさや、
老いの哀しみや…。

色に込められた意味は、時を越えて
人の気持ちを想像させる喜びも与えてくれる気がする。

また、今ふうに見ると、
二藍(ふたあい)とは、
二つの愛や、
二つのアイ(英語の“私”)などの
意味に通じるようにも思われる。
二藍の名を人に言わないまでも、
身にまとうときに、
ふと、自分なりの意味や思いがよぎって、
密やかな喜びを味わわせてくれるような。

紅かったり青かったり、と、
微妙に移ろう色合いの紫陽花も、
そんな愉しみをたっぷりと含んで
ぽってりと心豊かに咲いているように見える。