余白を愛する、くろ。

黒は同じようでいて、さまざまな色がある。

「玄(げん)」は、真っ黒一歩手前の、
明るさ、暖かみのある黒だ。

「玄」の意味を辞書でひくと
「赤黒い」「奥深くて暗い」とある。
「玄米」や「玄関」は、この意味からきているのだろうか。

この文字を見て、思い出される言葉がある。
「玄人(くろうと)」だ。

平安時代、白塗りしただけで芸のない遊芸人のことを
「白人(しろひと)」と呼んでいた。
それが江戸時代になって「しろうと」と変化し、
平凡さを軽蔑する意味も含む「素」の字を当てた
「素人」になったという。

そして、白塗りしただけの芸人の「白」に対して、
芸のある人を「黒」とし、
「素人」の対義語として生まれたのが「玄人」の言葉だった。
「玄」の字が選ばれたのは、「黒」よりも
奥深く深遠な趣き、意味があったからだとか。

もうひとつ、玄といえば思い出す言葉ある。
冬の別名、「玄冬(げんとう)」だ。

人生には、青春、朱夏、白秋、玄冬、という四季がある。
若き日の「青春」、多忙に燃える「朱夏」、
落ち着きの「白秋」をすぎて、
いよいよまとめの時、「玄冬」を迎える。

ここで現れる「玄」。
暗い冬。
人生の最後の季節で、
次世代にものごとを託して退いていく年代のことをいうらしい。
まさに人生の「玄人」になって、
「白秋」の人びとに任せて、
託して去ってゆく時のことなのかもしれない。

黒と白。
玄と素。
それぞれの存在があって、
それぞれのよさがひきたつ。

私の世代は「白秋」。
さまざまな経験を経て、白く澄んだ想いで
若い人たちのさまざまな色を活かしつつ、
先輩方から知恵や経験をうけとっていきたい。

人生は彩りにあふれている。
全ての色をうけとって、深遠な玄の色になりたい。
そのためにも、人生の実りの秋、
白秋の今、
まだまだやるべきことがある。

聴いて、ゆるして、ゆれる色。

コスモスの花が風にゆれている。
のんびり、ふわり、何にもとらわれずに。

風の声や、
見つめる人たちの声を、
うん、うん
とうなずくように揺れながら咲いているコスモス。
その代表的ともいえる淡い紅色は
「聴色(ゆるしいろ)」
だと思う。

「聞く」のではなく
じっくりと「聴く」。
よく聴けば、わかりあえる。
ゆるすことができる。
だから「聴色(ゆるしいろ)」なのだろうか。

よく聴くことは、よく話すことでもある。
言い訳から始まってもいい。
自分の気持ちを精一杯、心をこめて話せば、
やがてわかりあえる、と信じている。

もし、わかりあえなかったとしても、
話し合い、気持ちを伝えあうことで、
互いに知らなかった気持ちを発見したり、
これまでとはちがう感情が生まれるかもしれない。

話すこと、聴くことを、
逃げず、あきらめずにいたい。

だから、コスモスのような姿勢でいよう。
コスモスのように、淡くやさしい気持ちでいよう。

何でも話せるような、
ふわりと受け止めてくれるような
そんな微笑みをたたえていよう。

コスモスを見ていたら、思い出した。
「静かに行くものは健やかに行く
 健やかに行くものは遠くまで行く」
というイタリアのことわざを。

そして、
「健やかな人は、よく聴くことができ、
 よく聴くひとは、
 静かに聴(ゆる)すことができる」
…こんな言葉を思いついた。

生きていたら、色々なことがあるけれど、
よく人の話を聴き、
自分の心の声を聴き、
静かに聴(ゆる)す。
いつか、そんな境地にいけたらいいな、
と思う。

秋の心地良い風が吹いている。
のんびり、ふわりと
風にゆらされるコスモスが
うん、うん
と、うなずいて笑っていた。