新しい色、毎日現る。

唐茶色(からちゃいろ)は、
浅い黄みを帯びた茶色。

「唐」には、
「舶来の」という意味の他に、
「新しい」「美しい」の意味もあるのだという。
つまり、唐茶色とは、
新しい茶色、美しい茶色のことなのだ。

カメラを買って、一年が経った。
あれもこれも勉強しようと、
買ったテキストは、まだ読めないまま、
ただ撮ることに夢中になって
月日が流れてしまった。

一年の終わりに猛省している。
来年こそは、と、もう来る年への
誓いと願いを始めたりしている。

まだ十二月になったばかりだというのに。

街にはあちこちにクリスマスツリーが
見られ、輝くツリーのオーナメントにも
唐茶色のものが見られる。
煌びやかな飾りは、
子供の頃の憧れ。

うちにクリスマスツリーなどなかったけれど、
秋に野山で遊ぶとは、
木の実を拾って帰ったものだった。

痩せた栗の実などを
糸を通して、リボンをつけて、
カバンの飾りにしていた。
ささやかなクリスマス気分だった。

飾りにもできなかった
痩せていびつな木の実は、
ケーキの飾りといっしょに
小さな小箱にしまった。
箱を開ければ、
いつまでもクリスマス気分を
味わうことができた。

年の暮れは、家業も忙しい時期でもあり、
特別に家族で何かパーティーらしき
お祝いをした記憶はない。

けれど、年末のざわざわとした雰囲気と、
キーンと冷えこむ空気、
ケーキのろうそくを消した時に漂う
甘い匂い、
ストーブの火のチロチロと消えそうな色。

時系列は、散らかったカードの
ようにバラバラになっているけれど、
どの記憶も褪せない大切な思い出だ。
一つ一つ異なり、
一瞬一瞬が、
現れては消えていくお茶の湯気のように
体と心をあたためてくれるものでもある。

同じクリスマスでも、
同じ思い出にならないように、
人生に同じ瞬間は、ない。

心惹かれるシーンに遭遇したのに、
あ、撮り逃した!
と思うたびに、カメラもそう教えてくれた。

去年撮った写真を見てみると、
どう撮ればいいのか、
撮ったものを、
どう画像処理したらいいのか、
わからない。
「けど、撮りたいのっ!」
という自分が垣間見えて、おかしくなる。

ただ夢中で、
いい瞬間を捉えたくて、
何枚同じ写真撮ってるんだ…
と我ながら呆れるほどに撮っては、
一枚ごとに喜んだり、落胆していた。

必死だったんだな、と
懐かしさに似た想いで
振り返る。

撮れば、どの瞬間も、
新しく、美しい。

呆れるほど大量の
今年撮った写真を見ながら、
一年後に、今より少しでも成長しているように願う。
そのために、またたくさんの
写真を撮ろう、撮りたいと思う。

新しい瞬間は、年末も新年も関係なく
もう始まっている。

月にお餅に、暮れゆく年の色。

月白(げっぱく)色。
月の光のような淡い青味を含んだ白色をさす。

雪景色

暮れも押し迫ったこの頃、
白といえば、思い出すのはお餅つきだ。
子どもの頃は年末になると、
ご近所数軒がお向かいの家に集まり、
石臼で餅をつくのが暮れの行事だった。

広い土間に石臼が置かれ、
蒸し上がった、あつあつの餅米を
おじさんが杵をうち、
おばさんが合いの手を入れ、もちを返す。

三和土

子どもたちは、つきたてのお餅を
小さな丸餅にする。
年長の子どもは、少し小さめに。
年少の子どもは、頑張って大きめに。
鏡餅は、大人の担当。
立派な鏡餅が作られていくのは
職人技のようで見ていて飽きなかった。

当時、年末というと、
雪が積もっていて、
餅つきが終わって外に出ると
とても寒く、白く、静かだったのを
覚えている。

青森

やわらかく美味しかった
つきたてのお餅は
翌日には、固く冷たくなり、
別物のように感じたものだった。

三が日を待たずに、
ひび割れがしたり、
カビがはえて姿を変えてしまう鏡餅。
鏡開きの日、切り餅にするのに
ひと苦労する母の姿も
懐かしいお正月の光景だ。

鏡餅

今はもうお餅をつくこともなく、
あの日餅つきをしてくれた人たちの
何人かももういない。

けれどこの時期、
寒い夜道を歩いていると、
あの日と同じ年末独特の静けさがあり、
月は、一所懸命丸めたお餅が
空に浮かんでいるように見える。
丸いお餅は、満月か。
そういえば、満月は、望月。
もちの月だ。

サンタクロース

丸いお餅のような月を見上げると、
餅米を蒸した湯気の
あたたかさ、
あの日わいわいと時を過ごした
近所のおじさんおばさんの
声が聴こえるようで、想いが和む。

日本家屋

日々は積み重なって、
思い出は遠くなるけれど、
記憶は消えない。

消えないばかりか、
ふと思い出した時に、
のどかな気持ちになって、
やさしく心をあたためてくれる。

私は思い出で、できている。

世界貿易センタービルディング

新しい年がやってくる。
お餅のように、満月のように、
淡い青色をたたえた美しい想いで
新年を迎えよう。
どんな色も受け容れられるよう
濁りを落として、迎えよう。

クリスマスツリー

そんな気持ちでいたら、
きっとまた、いい色に染まる。
心地良い色になれる。
そんな予感がしている。

皆様もよいお年を。

真っ赤なお花の贈り物。

紅の八塩(くれないのやしお)色。

調味料の名前のような、
小説のタイトルのような、
ネーミングセンスを感じる色の名だ。

色は、深みのある、真っ赤な紅色である。

八塩の
「八」は「多い」という意味であり、
「塩」は「入(しお)」とも書かれ、
「染め汁に浸す」ことを意味するのだという。

つまり、「八塩」は「何回も染汁に浸す」こと。
濃く、鮮やかに染められた紅花染めの色であるということを
その名で表現している。

混じりけのない紅色の濃染(こぞめ)は、
高価で贅沢なもの。
色合いも美しく、
平安貴族にも憧れの色として
珍重されていたという。

そして現代。
年末は、
平安貴族にも驚かれるかもしれぬほど、
鮮やかな紅の八塩色が街にあふれ、
きらびやかに光って街を彩る。
クリスマスの飾りに
「紅の八塩色」という名前は、
少し違和感もあるかもしれないが、
平安貴族でなくても、
現代人も魅了する
鮮やかで美しい紅色だ。

この時期には、
何気なく買ったものにも、
この色のリボンが飾られたり、
包みの色も、この色であったりして、
その華やかさから、
何か特別なものを贈るような、
贈られたような、
ささやかな高揚感を与えてくれる。

今年の最後の日々が、
この色に彩られて、
楽しい気持ちでしめくくれるとしたら、
それは、とても幸せなこと。

今年の記憶の最後に
この色を添えて、そっと見送る。
あぁ、美しい時間が過ぎてゆくなぁ、と。

ものでなくてもいい。
言葉でも、笑顔でも。
大切に想う気持ちに
濃く、あたたかく、
何度も浸されたような
贈り物は、
ぬくもりや、喜びが
きっと、相手に届くと想う。

寒い日が続く。
身体が固く、小さく
縮まってしまいそうな日には
楽しい時間や
笑ったことを思い出して
心の炎を紅く、紅く燃やして
あたたまろう。

想いをしまう部屋の色。

納戸(なんど)色。
御納戸(おなんど)色ともいわれ、
緑みを帯びた深い青色をさす。

「納戸」という言葉を
知ったのはいつだろうか。
大人になって、家探しを始めたときに
知った言葉のような気もする。

辞書に当たると、
「中世以降は、一般に室内の物置をいい、
 寝室にも用いた」とある。

ほんのりと薄暗く、
ひんやりとしたなかで、
大切な何かが丁寧にしまわれている。
そんな空気を感じる「納戸」。

納戸色の名前の由来は、
薄暗い納戸部屋の色、
納戸の入り口にかける垂れ幕の色、
高貴な家の納戸を管理する役人の制服の色、
と、諸説ある。

どの説であれ、江戸時代から
人気の色であったらしい。

淡い色をも引き立てる色であるのに、
目立つことを嫌い、
控えめでありながら
惹き寄せられる粋な色、「納戸色」。

その名には、和の色に興味を持って以来、
ずっと心惹かれていた。

家の中に、ものをしまう部屋が必要なように、
人も、心の中に
薄暗く静かで、人には見せない
納戸のような部屋を持っていると思う。

大切な思い出、
姿を変えながら光る夢や希望。
ときおり、その部屋をのぞきこみ
励まされたり、反省したり、
こみあげる笑いに、力をもらったり。
歴史をたたんでしまいこんでおく
心の中の、とっておきの部屋。

「今年の思い出」という行李を、
また心の中の納戸に運ぶ時期がきた。

一年という日々は、ながめかえすと
広い海のようで、あちこちに
喜び、悲しみ、失望、愛情、
それに伴う笑顔や涙が漂着している。

深い海の底に落としてしまったものもある。
けれど、思いがけなく、こちらに流れてきてくれて
受け取ったものもある。

人が見たらガラクタのような日々も
成果も、自分には宝物。

そして、それは、海に出なければ、
得られなかったものばかり。

失くしたものを、いつまでも惜しむのではなく
感謝したい。
得られたものは、またより大きく膨らませられるよう
努力したい。

納戸色は、懐の深い色。
この色の海を空を、
それを眺めた日々の心の色を
思い出しながら、
今年の行李を
大切にしまおうと思う。