よりよき始まりを彩る色。

毎年、新年を迎えると、
その年の恵方にある神社へ参拝している。
今年は晴天の日に参拝できた。

空の青に映えるのは、
丹塗(にぬ)りの鳥居の色。
丹色(にいろ)だ。

もともと赤い色は
「魔除け、厄除け、祈願」
の色とされていた。
この丹色で彩ることで、
魔除け、神性を表すことから、
鳥居の色にも用いられたという。

年の初めの月には、
この丹色の正月飾りを
あちこちで見かける。
それを見ると、
新しい年の空気を感じ、
神聖で、改まった心持ちになる。

今年の初詣には、
年末に買った新しいカメラを
持って出かけた。
慌しい暮れに、
大急ぎで家事をこなし、
嬉々としてカメラ操作を確認したのだった。
おかげで、少し取り扱いが理解でき、
実質の初撮りとなった。

過去にも一月に神社に
撮りに行ったことがあった。
それは、二年前のこと。
扱える自信がなくて、
買うことはないと思っていた
一眼レフカメラを
譲ってもらうことになり、
京都の伏見稲荷大社へ
初めての撮影に行ったのだ。

取り扱い説明書に
ささっと目を通してはいたものの、
実際、撮るとなると、
何が何やら大混乱!
戸惑いながら一眼レフカメラの難しさと
格闘していたのを思い出す。

これからこのカメラを使いこなし、
うまく撮れるように
なるのだろうか。
撮れたらいいなぁ。
そんな気持ちを抱いた記憶は、
伏見稲荷の鮮やかな丹色に染められた。

今年、初詣の写真を撮りながら、
どこか改まる思いになったのは、
その時の記憶が色を通して
蘇ってきたからかもしれない。

あの日格闘した一眼レフカメラは
私の無知という荒っぽさに耐えて、
たくさんのことを教えてくれ、
そして、次にバトンを渡すように
動かなくなった。

最後に撮った写真は、
クリスマスの華やかな赤い色。

その赤色とは少し趣の異なる
黄色みを帯びた赤い色「丹色」から
新しいカメラとの生活が
いよいよ始まった。

「丹」は赤土の古語でもあり、
さらに色とは少し離れて、
「まごころ」の意味も持つ。
「丹精」「丹心」の「丹」だ。

新しい年、新しいカメラで
変わりなく、まごころもって
撮っていこう。

新しくなるのは、よりよくなるため。
今年も、よりよい年にしたい。

真っ赤なお花の贈り物。

紅の八塩(くれないのやしお)色。

調味料の名前のような、
小説のタイトルのような、
ネーミングセンスを感じる色の名だ。

色は、深みのある、真っ赤な紅色である。

八塩の
「八」は「多い」という意味であり、
「塩」は「入(しお)」とも書かれ、
「染め汁に浸す」ことを意味するのだという。

つまり、「八塩」は「何回も染汁に浸す」こと。
濃く、鮮やかに染められた紅花染めの色であるということを
その名で表現している。

混じりけのない紅色の濃染(こぞめ)は、
高価で贅沢なもの。
色合いも美しく、
平安貴族にも憧れの色として
珍重されていたという。

そして現代。
年末は、
平安貴族にも驚かれるかもしれぬほど、
鮮やかな紅の八塩色が街にあふれ、
きらびやかに光って街を彩る。
クリスマスの飾りに
「紅の八塩色」という名前は、
少し違和感もあるかもしれないが、
平安貴族でなくても、
現代人も魅了する
鮮やかで美しい紅色だ。

この時期には、
何気なく買ったものにも、
この色のリボンが飾られたり、
包みの色も、この色であったりして、
その華やかさから、
何か特別なものを贈るような、
贈られたような、
ささやかな高揚感を与えてくれる。

今年の最後の日々が、
この色に彩られて、
楽しい気持ちでしめくくれるとしたら、
それは、とても幸せなこと。

今年の記憶の最後に
この色を添えて、そっと見送る。
あぁ、美しい時間が過ぎてゆくなぁ、と。

ものでなくてもいい。
言葉でも、笑顔でも。
大切に想う気持ちに
濃く、あたたかく、
何度も浸されたような
贈り物は、
ぬくもりや、喜びが
きっと、相手に届くと想う。

寒い日が続く。
身体が固く、小さく
縮まってしまいそうな日には
楽しい時間や
笑ったことを思い出して
心の炎を紅く、紅く燃やして
あたたまろう。

名脇役な色。

「ボケ」というと
どんなイメージがあるだろう?

相手を罵るときに使う言葉。
漫才のボケとツッコミ。
ぼんやりしてるときのこと。

そんな、ちょっとユーモラスな
「ボケ」の名をいただいた色がある。

「惚色」と書いて、「ぼけいろ」。
語感は少し乱暴で、
好ましくない色にも思われるが、
「惚」とは「ほれる」の文字。
つまり、「惚れる色」なのだ。
そう思うと、
一気に好感度が上がる気がする。

色は淡く渋い赤。
くすんだはっきりしない色であり、
はげた色の総称ともされている。

季節が秋へと進んで、
自然の色も少しずつくすんだり、
色褪せたりして、
この惚色になりつつあるように見える。

春とは異なるやわらかさで
色も空気も、
夏からゆっくりと色を落とし、
空気を冷やして、季節が進んでいる。

「惚け(ぼけ)」というと、
「この子は、まぁようよう遊び惚(ほう)けて」
と、叱られたことを思い出す。

子どものころ、
いつまでも日が暮れない夏から、
知らぬ間に秋になり、
いつもの時間に帰ろうとすると、
辺りが真っ暗になってしまい心細かった。

外が暗くなると、当然、
帰るやいなや、両親に怒られる。

子どもの頃は、秋が嫌いだった。

しかし、大人になると、
秋は涼しく、心地良く、
食べ物はおいしくて、
街を歩くと、季節の色合いも豊かに
目を楽しませてくれる。

惚れ惚れするような秋の景色。
枯れてゆく樹々の葉もあるけれど、
ふと、さし色のような美しい色も見つかる。

あ、惚色とは、その色に惚(ほ)れたり、
惚(ほう)けたりするのではなく、
他の色をひきたてて、
心惹きつける…
そんな名脇役な色なのかもしれない。

この秋は、惚色のことも見逃さず
紅葉や銀杏の鮮やかな色を愉しもう。

それが、子ども時代には得られなかった
大人の愉しみのひとつ、と言えるかもしれない。

聴いて、ゆるして、ゆれる色。

コスモスの花が風にゆれている。
のんびり、ふわり、何にもとらわれずに。

風の声や、
見つめる人たちの声を、
うん、うん
とうなずくように揺れながら咲いているコスモス。
その代表的ともいえる淡い紅色は
「聴色(ゆるしいろ)」
だと思う。

「聞く」のではなく
じっくりと「聴く」。
よく聴けば、わかりあえる。
ゆるすことができる。
だから「聴色(ゆるしいろ)」なのだろうか。

よく聴くことは、よく話すことでもある。
言い訳から始まってもいい。
自分の気持ちを精一杯、心をこめて話せば、
やがてわかりあえる、と信じている。

もし、わかりあえなかったとしても、
話し合い、気持ちを伝えあうことで、
互いに知らなかった気持ちを発見したり、
これまでとはちがう感情が生まれるかもしれない。

話すこと、聴くことを、
逃げず、あきらめずにいたい。

だから、コスモスのような姿勢でいよう。
コスモスのように、淡くやさしい気持ちでいよう。

何でも話せるような、
ふわりと受け止めてくれるような
そんな微笑みをたたえていよう。

コスモスを見ていたら、思い出した。
「静かに行くものは健やかに行く
 健やかに行くものは遠くまで行く」
というイタリアのことわざを。

そして、
「健やかな人は、よく聴くことができ、
 よく聴くひとは、
 静かに聴(ゆる)すことができる」
…こんな言葉を思いついた。

生きていたら、色々なことがあるけれど、
よく人の話を聴き、
自分の心の声を聴き、
静かに聴(ゆる)す。
いつか、そんな境地にいけたらいいな、
と思う。

秋の心地良い風が吹いている。
のんびり、ふわりと
風にゆらされるコスモスが
うん、うん
と、うなずいて笑っていた。

燃え立つように、変わるもの。

五百万本が咲くという
「曼珠沙華まつり」があると
聞いて、観に行った。

それは想像以上に壮観な眺め。
鮮やかな朱色の絨毯が、
一面に敷き詰められたような
目にまぶしい満開の景色だった。

その色は、
紅でもなく、朱でもなく。
黄みの強い赤色、
「銀朱(ぎんしゅ)」
が一番近い色に思われた。
「銀朱」とは、
水銀と硫黄を混ぜて
つくられた人工の朱色だ。
そのせいか、ほんの少し毒気をはらんだような
強い色に感じられる。

群生する銀朱の花々は、
子どもの頃は、決して摘んで帰ってはいけない、
じっと眺めることも禁じられていたものだった。
彼岸の頃に咲くため、彼岸花と呼ばれていて、
当時は墓地でしか見かけなかった。

その赤さと炎を思わせる咲き姿からか、
「持ち帰ると火事になる」とか
「不吉を持ち帰る」「摘むと手が腐る」
などといった迷信もあるらしい。
球根に毒があることから、そんなふうに言い伝え、
子供たちに注意を促していたのかもしれない。

少し怖くて妖しい曼珠沙華。
夏の陽射しをたっぷり浴びて、
熱を放つような色と形で咲く花。
人の心をも惑わすような
妖艶な花姿だ。

こんなに美しいのに、人から忌み嫌われる。
その謎を、その存在を、気になりつつも、
気にすることがいけないことにように思っていた。

この日、たくさんの人が
今が盛りと咲き誇る、
曼珠沙華の美しさに見とれ、
褒め、感動しながら
歩いている様子に時の流れを感じた。

時が変わり、
ところが変われば、
同じものも価値が変わることもある。

もう消えた、と思った情熱も
時期がきて、
ところを得たときに、
一気に燃え上がることも
あるかもしれない。

少し体調を崩した夏だったけれど、
小さな情熱も消さず、臆せず、あきらめず、
進んでいこう、そう思った。

こんなふうに一気に何かを変えてしまうくらいに。
目をつむっても、まぶたに色が残るくらい熱をもって、
銀朱のような秋を燃やしていこう。

淡くて強い、結びいろ。

中紅花色。
今回も、ちょっと難読。

「なかのくれないいろ」と読む。
駅名のような、夕暮れのような、
一度聞いただけでは、
読み方を忘れてしまいそうになる名前だ。

デザイン名刺をつくった。
色だけは、この色に決めていて、
あとは、モチーフもコンセプトもなく、
信頼できるデザイナーにお任せした。

そんないい加減な依頼にもかかわらず、
できあがってきたデザインは、
小躍りしたくなるほど、
気持ちにぴったりとくるものだった。

和の色、人との縁、いと…。
そんなキーワードは浮かんでくるものの、
いざとなると、どんなデザインにしたいか、
ぼんやりとして、
言葉にできなかった。
けれど、ブログから想いを、
くみとってデザインしてくれた。

水引の淡路結び。
それがモチーフだった。
この結びの意味は、
「両端を持って引っ張るとさらに強く結ばれることから、
末永くおつきあいしたいといういう意味をもつ」
という。

熨斗につける水引の結び。
それは、寿ぎのしるし。
言葉を大切にして結ばれるご縁が、
言祝ぐ(ことほぐ)つながりとなって、
大きくなってゆく…。
そんな結びつきが感じられて、
とても嬉しかった。

中紅花色(なかのくれないいろ)というのは、
数ある紅(くれない)色の中の、
中間の色。

なぜこの色を選んだのか。
本当のところ、私にもわからない。
けれど、直感的に、
「この色にしたい!」
そう思ったのだ。

淡い色をていねいに塗り重ねられたような
やさしい色合い。
やさしいだけに、
最後はどんな色になるかわからない。
別の色が混じって、
濁ったり、極彩色になったり、
あるいは、淡いまま消えてしまうのかもしれない。

けれど、
これから表現していくことが、
淡い紅色を一枚一枚のせていくように
少しずつほの紅く染まっていき、
誰かの心に灯を点すように
読まれ、愛され、つながっていくようなりたい。

そんな夢を抱いて、
やさしくあわい色、中紅花色(なかのくれないいろ)を
選んだのだと思う。

熱すぎず、冷たすぎず、
でも、遠くからでも、わかってもらえるような
ぬくもりのある色。
見つめているとじんわりと、
その温度の伝わるような色を放っていきたい。

そういう願いをこめて、
一枚、一枚、心をこめて名刺をお渡しするように
これからも、このブログを続けていこう。

見逃したくない色は、うつろいやすく。

和の色には、
その名を聞いただけでは、
すぐにわからない色がある。
朱華色(はねずいろ)も、そのひとつ。

もっとも、朱華色(はねずいろ)とは
庭梅の色ともザクロの色とも言われていて、
色調も紅から朱まで幅のある
謎めいた色ではある。

調べていて、一番多く見られたのが
黄色がかった淡い赤色だった。
褪せやすい色であることから、
移ろいやすさの枕詞としても使われていたという。
なかなか正体のつかめないような、
にくらしい色だ。

そんな移ろいやすさを恋する心に見立て、
詠まれた歌が万葉集にある。

「思わじと言ひてしものを朱華色のうつろひやすき我が心かも」

意味は
「もう恋なんてしないと言っていたのに、
朱華色みたいに私の心は移ろいやすいの」
という説と
「あんなひと、もう好きじゃないって言ったのに
朱華色みたいに移ろいやすい私の心…やっぱり好き!」
という説がある。

どちらも現代の歌詞にもありそうな恋心で、
切なく揺れる感情は、
昔も今も人の中に変わらず存在することに
心くすぐられる。
揺さぶられる想いの色は、
喜んだり、悲しんだり、期待と不安の中で、
やはり謎めいたまま、
紅から朱の間の色調を行き来するのだろうか。

去年の夏、下鴨神社に参詣した際、
境内の茶店で
140年ぶりに復元されたというお菓子をいただいた。
葵祭の申(さる)の日に神前にお供えされたという
ほんのりと朱華色(はねずいろ)のお餅、
その名も「申餅(さるもち)」。
いにしえの都人は「葵祭の申餅」と親しんで呼んでいたのだそう。

申餅に添えられたしおりに、
「はねず色とは、明け方の一瞬、空面が薄あかね色に
染まる様子で、命の生まれる瞬間を表すとされています」
と書かれてあった。

明け方の一瞬、命の生まれる瞬間。
なんて美しい瞬間だろう。

毎日、毎朝、その瞬間があり、
その瞬間の色が「朱華色(はねずいろ)」なのだ。

日々、空の色が違うように、
見るところで、その日の心持ちで、
色が変わるように…はっきりとこの色、
と決めなくてもいい。
それぞれの心の中に描く色があり、
決めないほうがいい色もあるのかもしれない。

少し謎めいて曖昧さのある朱華色(はねずいろ)。

明日は、少し早起きして、
自分だけの、今日の命の生まれる瞬間の色を見よう、
そう思った。

思ひは、火の色に似て。

鮮烈な思いは、何色をしているだろう。

思色(おもひいろ)は、緋色(ひいろ)の別名、
同じ色だ。

緋色は「火色」とも書く。
明るい、少し黄みがかった赤色で、
「思ひ」の「ひ」と、
「緋色」の「火」をかけて、
火のように燃える情熱を表している色なのだ。

熱く燃ゆるような思ひの色は、
記憶の中で、ぽつんぽつんと赤く点るのだろうか、
それとも、全てを赤く染めていくのだろうか。

高校生の時、赤い傘を持っていた。
柄(がら)のない真っ赤な傘。

あまり大きな傘ではなく、
ひどい雨の日は、制服に雨がしみて重くなった。

それでも、赤い傘は、黒い制服、黒いカバンに
火が点るような明るさを与えてくれた。

嬉しいときは、傘がひらくような
悲しいときは、傘を閉じたまま雨の中を歩くような…
赤い点は、傘の色と重なって見えた。

 

淡い思いが実ったり、壊れたり、
友とわかりあえたり、仲違いしたり、
そのたびに、ポツンポツンと
思いが点ったり、消えたりして
赤い点を残していった。

今、思うと、ささいなことで
本気で怒って喧嘩をしたり、
幼い失恋に、学校へ行くのがつらくなるほど
傷ついて、泣いて、大騒ぎして。
あまりにたくさんの赤い点があることに
おかしくなる。

と、同時に、あの頃のように
心がすぐに燃えて、いきいきと
喜怒哀楽を表していた
やわらかい心は、かけがえのないものだったと
苦々しくも、懐かしく、愛しい気持ちになる。

今も、折り畳み傘は、小さくて柄のない赤。

傘といっしょに記憶もひらいて
当時の切ない気持ちを思い出させてくれる。

ただ一所懸命で、不器用ながら突き進んだ
あの日の自分が積み重なって
今の自分ができている。

傘を開くと、あの日の思ひが頭の上に広がって
クールでいたい大人の私を赤く染める。

大人の分別や冷静さも素敵だけれど、
あの日の思「ひ」は、いつまでも消えないよう
大切に守っていきたい。

そんな思色の「ひ」なのだ。

思い焦がれて、染まる色。

焦色。
「こがれいろ」と読む。

焼け焦げて黒色に近い「焦茶色」とはひと味ちがう、
深く渋い赤色。

「思い焦がれる」という言葉もあるように、
赤い「思色」に通じる、
感情の「焦がれ」を表しているからか、
基本の色は燃える色、赤色なのだ。

そんなにも情熱的な名前でありながら、
思いが時を経て、やさしい記憶になったような、
滋味ある色にも見える。

この色を見ると、一枚の写真を思い出す。
家族みんなが精一杯よそゆきの服を来て
奈良の遊園地へ行ったときのものだ。

父に手をひかれて、たよりない足取りで歩く小さい私。
見るたびに父の愛情を感じて、
懐かしく、あたたかい思いになる。

その気持ちは、焦がれるように、
この時に帰りたいと思うものではない。

きっと、この色が与えてくれる懐かしさが、
時の経過のなかで
失くしたものを思い出させ、
同時に得たものの大切さ、重さを教えてくれるのだろう。

今では、この時の父の年齢も超えてしまった。
父の生きた年数も、もうすぐ超えようとしている。

けれど、この写真をみると、
「人ができることは、自分もできると信じて頑張りなさい」
と、いつも励ましてくれた父の言葉をいきいきと思い出して、
“さぁ、これから、これから! ”
と、娘にかえったように若く瑞々しい意欲が漲ってくるのだ。

もうすぐ父の日。
会えないけれど、今年も、心からの感謝を伝えようと思う。

空にかからぬ虹の色。

虹を見たら、なぜそれを人に言いたくなのだろう。

いつ消えてしまうかわからない儚さからか。
やっと出会えた、そんなときめきがあるからか。

「虹色」は、虹の七色全てだろうかと思いきや、
意外にも一色。淡い紅色のことをさす。
紅花で染めた薄い絹地の色だ。
薄い絹地は、光の反射により、青みが強かったり、
紫みが強く見えたりするという。
光を織り込んだような絹地の色は、
見る角度によって移ろうように見えるから「虹色」なのだ。

光や角度によって表情を変える
虹色の無限性、不思議さ。

それは、ひとの気持ちにも似ている気がする。
たとえば「好き」という気持ち。

自分の気持ちも、我知らず月日の流れによって変化するし、
相手の気持ちも、その日、その時の様子で
色や温度が変化したり、さまざまな色合いが入り混じって見える。

光と色がある限り、刻一刻と変化する。
揺れ動く感情と同じで、
誰にも止めることができない。

もし、それをひととき見ることができたら…。
視界の中にとどめることができたなら…。

虹を見つけた喜びはそれに似ているのかもしれない。
そして虹色は、見つけた喜びに高揚する頬の色にも見える。