消えない炎の色。

手紙が好きだった。
中学、高校生の時は、帰ったらまず、
郵便受けを見るのが楽しみだった。
赤く四角い箱型の。
それを開けるとき、私の顔も紅く染まっていたと思う。

真朱(しんしゅ)色は、少し黒味のある赤色。
色名につく「真」は
「混じりもののない自然のままの朱である」という
意味を持つ。

中学の時、友人の紹介で
福岡の男の子と文通することになった。

最初の手紙を郵便受けに見つけた時は、
甘い秘密を持ったようで、ドキドキした。
急いで部屋に持ち帰り、
封を開けたのを覚えている。

写真も同封してくれていた。
福岡市内から離れた町の、
田んぼのあぜ道で、直立して写るペンフレンドは
丸刈りにジャージの素朴な少年。
足元がマジックで黒く塗られていたのを
透かして見ると、おじさんのつっかけを
履いていた。

その素朴さに親しみを感じて、
他愛もない話の手紙のやり取りが始まった。

「真朱」は「まそほ」とも読む。
「しんしゅ」と「まそほ」、二つの名前。

遠い町の知らない男の子と文通している、
などと知られたら、怒られる!
そう思って、
差出人の名前を女の子の名前にしてもらった。

「なおき」君を「なおみ」ちゃんに。
二つの名前をうまく使い分けて
互いの学校のこと、友達や勉強のこと、
遠い分だけ、誰に気遣うこともなく、
素直に率直に話していたように思う。

恋人でもボーイフレンドでもなく、
周りのほとんどの人が知らない交友関係、
ペンフレンド。
手紙が届くたびに特別なときめきがあった。

けれど、数ヶ月で突然、
「彼女ができました。ごめんね」
と、文通は終わることになった。
失恋とは違うけれど、
あぁ、私たちは異性だったのだと気づいた。

これまで通りに、彼女の話をしてくれたらいいのに…
と、思ったけれど、なおき君にすれば
彼女に悪いと思ったのかもしれない。

真朱にはこんな万葉のうたがある。

「ま金吹く 丹生(にふ)の ま朱(そほ)の色に出て 言はなくのみぞ我が恋ふらくは」

鉄を精製する真朱色の土のように、色には出さない、言葉にしないけれど。
私は恋い焦がれている…という意味。

恋とは言えなかったけれど、交流をなくしたことの
欠落感を誰にも言えない寂しさがあった。

もう来ないとわかっていても、
手紙を待って、毎日郵便受けを
のぞいていた。

最後の手紙から二年ほど経って、
高校生になったなおき君から、手紙が来た。

「バンドをやっています」という近況に、
モノクロの彼の写真が添えられていた。
見違えるほど大人っぽくなっていた。
いろんなことがあったのだろう。
私もいろんなことがあったよ。

そう思っても、何から書いていいのか
わからなくて、返事は出せなかった。

数年前、福岡を旅した時に、
もしかしたら、どこかですれ違っているかもしれないな。
そう思うと、ほのぼのと愉快な想いになった。

交流は途絶えても、
真朱のポストに手紙を投函するときの
弾む想い。
帰宅して真っ先に郵便受けを見て
手紙を見つけた時の喜びは、消えない。

誰の心の中にも、
秘めた炎のような思い出があって、
ふとしたきっかけでチロチロと燃えたり、
それを懐かしく見つめる時があるのではないだろうか。

レトロなポストは真朱の炎。
「なおみちゃん」は、元気でいるだろうか。

暑さに溶け出す、あわいの色。

夕暮れの雲に鳥の形を見つけると、
思い出す鳥の名がある。

トキ。
トキは白い鳥なのだけれど、
飛ぶときに見せる翼の内側、
尾羽、風切羽(かぜきりばね)の色が、
黄みがかった淡くやさしい桃色になっている。
それを鴇(とき)色という。

トキは、遠い昔、どこにでもいる鳥だった。
現在では、日本に野生のトキはおらず、
絶滅危惧種の鳥となっている。

テレビや本でしか見たことのない
私にとっては幻の鳥。
なのに、飛ぶ姿や色の美しさが忘れられず、
夕暮れの空に、その姿を探してしまう。

夏の太陽は、強くまばゆく熱を放つ。
汗をふきふき、少しでも暑さ和いで…と、
日が暮れるを待つのに、
沈む夕陽が、あまりに綺麗だと
なんだか名残惜しくなる。

「行き暮れる」という言葉がある。
行く途中で日が暮れる、という意味。
夕陽を夢中になって見ているうちに、
気づけば夜の帳が下りて、
今いるところも、行き先もわからなくなる…
そんな気持ちになってしまう。

暮れなずむ、行き暮れる…。
黄昏の言葉は、美しく、危険な甘さもあって、
熱にほだされたように、うっとりしてしまう。

黄昏どきは、「誰そ彼(誰ですかあなたは)」と
たずねる薄暗い時。
夕陽を背景にした人の姿が
もう会えなくなった人に見えるときがある。
その人ではないとわかってのに、懐かしく慕わしく眺めてしまう。

また、スマホで夕陽を撮っている人も見かける。
思いつめたように送信している人の姿には、
この美しさを見せたい、感動を伝えたい人があるのだという
切なさが溢れていて、つい見とれてしまう。

無邪気に遊ぶ人たちの姿には、
かつての自分の姿を重ねて
微笑みながら、遠い昔を顧みる。

そんなふうに
あやしく美しい夕陽の魔法の中にいて、
気がつくと、あたりが真っ暗になって、
帰り道が見えなくなる。
行き暮れてしまうのだ。

鴇色は、江戸時代の染色の見本帳によっては
「時色」と表記されていることもあるという。
借字とはいえ、
時を忘れさせ、さまざまな時へと誘う色。
魔界へと放たれた鴇、その色らしい文字にも思える。

夏の夜空に弾ける花火にも、
鳥の羽が広がったような形や
鴇色はなかっただろうか。

夏は、きっぱりとした空の青、雲の白、
そして夜の漆黒の暗さを持っていながら、
その間に、心和む夕暮れの色がある。
暑さに疲れた体を癒してくれる
やさしさのような淡い鴇色が
熱と湿った空気を伴って、
身も心も包み込んでくれる。

昼と夜のあわいの色合いをさまざまに
混ぜて溶かして見せながら…。

何もかも、例年とはちがう今年の夏だけれど、
その色のやさしさ美しさは、
変わらない。

行き暮れた日には
家の灯りのように。
失望や悲しみに襲われた時は、
胸の中で負けまいと灯す炎のように。
きっと、明るく輝いている。

散る花びらのゆくえ。

旅先で見た一瞬の光景が、
忘れられないことがある。

一斤染(いっこんぞめ)は、
紅花で染めた淡い紅色をさす。
一疋(いっぴき・二反)を
わずか一斤(約600グラム)で
染めることから、この名がついた。

平安時代、濃い紅花染めは
高価であるため、身分の高い人しか
使用の許されない「禁色」だった。

しかし、うすい紅色ならば、
低い階級の人々も使用が許されたため、
色の薄さを量的に示した
「一斤」をつけた
一斤染の色が生まれたのだ。

当時の人々は、少しでも濃い紅色を
使いたいと願い、憧れたという。

つまり、一斤色は、
人々の要望から生まれたのではない、
身分による線引きの色と言えるかもしれない。

時は流れて、今、一斤色を見ると、
紅色よりも、ひかえめな優しい色合いに
心和み、安らぐ気がする。

桜の花も、二分咲きあたりだと、
空の色によって色味が淡く、はかなげに見える。
満開になる頃に、花全体が
大きく膨らむように一斤染へ染まっていく。

去年の春、富山を旅した時、
桜の時期は過ぎていた。
桜はもう見られないものと思っていた。

ところが、宇奈月温泉駅へと向かう列車で
ぼんやりと窓の外を眺めを見ていると
美しい緑色の自然の中、
一本の満開の枝垂れ桜を見つけた。

雄大な景色の中に、たっぷりと枝を
広げて咲いている桜は幻想的にも見えた。

はっ! と気づいて急いでスマホで写真を
撮ったものの、それがどこの駅だったのか
全く記憶にない。

夢のような景色だった。
偶然にも、その日、その時が満開で、
また乗っていた車両が、
桜の目の前で停まってくれたのだけれど。
待っていてくれた…そんな気がした。

毎年、桜の時期は写真を撮りに行く。
桜の写真は、どれも、特別な時間を映す。
楽しい非日常。
その楽しさは、旅と少し似ている。

今、私たちは、
新型コロナウィルスの感染拡大によって、
予想もしなかった非日常の中にいる。
旅のように、出発した覚えもなく、
この日、ここから、という線引きもなく、
気がつけば放り込まれ、
いつ戻れるかもわからないような非日常だ。

一斤染は、紅色に憧れながら、
使うことを許されなかった人々が、
紅色に憧れて生まれた色。
人々が望んで出来た色ではなかった。
望まれず生まれた色なのに、
その優しく愛らしい色合いが、
春の色として、今では好ましい色になった。

長い年月、さほど愛されずにきた時間を
耐えて、あり続けて、待ったから
今、こんなに愛される色なのだろう。

待てないこともあるけれど、
待つしかない時もある。

一斤染のように、
車窓で見つけた遠い街の一本の桜のように、
待つことの切なさ、大変さ、重みを想う。

意思のままでも、そうでなくても、
流れて行く時間の中で生きていくのなら、
隣り合う人、つながる人と、
語ったり、力をあわせたりして、
できるだけ明るく流されていきたいと願う。

どこかで待っていてくれる、
ひと、時、場所が、明るいものであるように。
いつかまた、光の中で、
一斤染の散る花びらの行方を見たいから。

灯りをつけましょ三月に。

弥生(やよい)、嘉月(かげつ)、花見月(はなみづき)…。
三月は美しい異名を持つ。

紅緋(べにひ)色は、冴えた黄みの赤色。
古代、茜染で作られた緋色(ひいろ)は、
平安時代より重ね染めが行われ、
より鮮やかで赤い、紅緋色となった。
それは、神聖な色として、
巫女さんの袴の色にも使われる。

現在の「緋色」と言えば、この色をさすと言う。

今年は、三月になっても
ひな祭りの曲も聴かれず、
うっかりと忘れていた。

二月の末に宮崎の飫肥(おび)という街に
出かけて、あちこちに雛人形が
飾られているのを見かけた。
そこでやっと、
あぁ、桃の節句が近いんだ…と、
思い出したのだった。

人形を飾る雛壇に敷かれるのは
緋毛氈(ひもうせん)。
緋色は生命力を意味し、
魔除けの効果を期待できることから
この色が敷かれると言う。

私の雛人形は、男雛と女雛、
別々にもらったものだった。
金屏風、雪洞、緋毛氈も、別々にやってきたもの。
けれど、こじんまりとして、とても好きだった。

毎年、床の間に飾られていたが、
ある時、その部屋に応接セットが
置かれることになり、
雛人形は椅子に隠れて
見えなくなってしまった。

学校から帰ってきて、床の間の前に
寝ろこんで、いつまでも眺めていた。
隠れたつもりはないけれど、
宿題やお手伝いをサボっている、
と叱られた。

五段飾りの雛人形には
特別な憧れがあった。
友達や近所の家に
五段飾りの雛人形があると知ると、
見せてもらいに行っては
人形の着物、小さなお道具を、
一つ一つ飽きることなく眺めていた。

飫肥では、あちこちの家々に
様々な時代の雛人形が
工夫を凝らして飾られていた。
雛飾りや、明治の頃のままごと道具も
紅緋色に映えて、
一日中見ていられるような
細やかな美しさに心打たれた。

暮らしに役立つものでもなく、
おもちゃにして遊べるものでもない
雛人形。

子を想い、大切に保存されてきたから、
今、こうして見ず知らずの私も見せてもらえる。
雛人形は、親の願い、愛情、祈りの形だなぁ
と、しみじみ思った。

人形飾りを見て、庭園をまわり、
ふと見上げると、高く大きく枝を広げた木が見えた。
「あれは何の木ですか?」と、
園内を歩いていた受付の女性に訊くと、
「あれはねぇ、桐の木。
 ほら、タンスにする木の。
 大きいでしょう。
 昔は娘が生まれると、この木を庭に植えて
 タンスにして嫁入り道具にしたんですよね」

改めて見上げると、確かに枝の先が、
花札などで目にする桐の花の形をしている。

しばらくぼんやり眺めていた。
「親の願いですよねぇ」と、その人は言った。
「ほんとに」それ以上の言葉がなく
また、二人で黙って見上げていた。

今日、どこかで植えられた苗が
こんなに大きな木になる時、
今の悩みや煩いが、小さなものと
なっていますよう…そう静かに祈った。

風にしなる枝は、流れる時の
重さ、優しさに吹かれながら、
大地に広がる根の強さを信じている。

未来を信じよう。
さぁ、美しい三月が始まる。

時にあらずと声立てぬ色。

春が近いからだろうか。
夕暮れを歩いていると、
「さようなら」が空気の中に
しっとりと含まれているような気がする。

緋褪色(ひさめいろ)は、
明るく渋い赤色。
真紅の緋色を薄めた、
穏やかな温かい色だ。

二十代前半に、会社を辞めて、
しばらくIT関係の小さな会社でアルバイトしていた。
私の仕事は、なんでも係。
その日も、ゴルフコンペのメンバー表と
景品を持って、コンペ後の懇親会となる
飲食店に出かけた。

小さな白いビルの二階の店。
建物横の階段から入るのに
昼間は一階のインターホンを押す。
その店には、何回か連れてきてもらったことがあった。

美人のママは、離婚後離れて過ごしていた愛息と
最近、一緒に暮らすようになった話を
まるで漫談のように話す、話し上手な大人の女性。
ちょっと憧れていた。

「あんたが来たん? 」
と招き入れてくれたママに冷たい飲み物を
ご馳走になり、あれこれ話すうちに、
心ほどけて恋愛相談を始めてしまった。

黙って、話を聞いてくれたママは、
「まぁ、ウサギが好きや言う人に
 カバを好きになれ言うても無理やな」
で、話が終わってしまった。
……わたしは、カバ…?

キョトンとしてる私を無視して、
親子で昼まで寝てしまい、保育園サボったとか、
あんまり言うこと聞かない息子に
「別れるで」と言ったとか。
そんな話で笑わされて、相談を続けられなかった。

バカな小娘の話につきあってられない、
と突き放されたことと、
自分の弱さ、幼さを
見抜かれた恥ずかしさがあった。

と、同時に、
余計なことは言わない、
大人の女性のかっこよさを感じた。

年の暮れの接待の二次会に
ママの店へ行った。
その日は、ママがいつもより華やいで見えた。
Nさんという壮年の男性の隣に座り、
御髪が寂しいのをネタにして
裸電球! 100ワット!
と、はしゃいでいた。

Nさんは、落ち着いた雰囲気の楽しい人。
みんなの人気者のようで
後からお店に行った私たちも
Nさんとママを囲んで大笑いした。

夜も更けて、Nさんが
一足先に帰るわ、と席を立った。
ママも見送って、席を離れた。

するとNさんのテーブルに
ハンカチが忘れてあり、
急いで二人の後を追いかけようとすると、
上司のSさんに「行くな!」と言われた。

意味もわからず、出口を出て、
階段を見下ろすと、
Nさんとママが寄り添う影が見えた。
ママは泣いているようだった。

Sさんが、後ろからやって来て
「Nさんは末期がんなんや、
 年明けに入院したら、家族の手前
 ママはお見舞い行かれへんから、
 今日が最後なんや」
とおしえられた。

Nさんとママの二人の想いも気づかず、
何も考えずに追いかけて行こうとする
自分の鈍感さに恥じ入りながら、
ハンカチを元のNさんの席に戻した。

Nさんを見送ったママが帰ってきた。
「もう~! 100ワットはまぶしすぎて、
 目ぇやられたわぁ~」と、笑っていた。
ハンカチはテーブルの上からなくなっていた。

年があけて、次のステップに進むため、
私は、そのアルバイトを辞めることにした。
家族のように大事にし、
本気で育てようとしてくれた人たちを落胆させた。
「後足で砂かけるように、辞めるのか」
と言う人もいた。

自分でも、
わがままを貫くことへの自己嫌悪があった。

引っ越しも決めて、その準備に追われるある日、
ママの店の前を通った。
準備中の時間だった。
さようならを言っておこうかな…
そう思って、インターホンの前に立った。

叱られるか、嗤われるか。
余計なことは言わず、いつも通りか。

迷った末、店の前を通り過ぎることにした。

Nさんがハンカチを置いていったように、
私もさようならをここに置いていこうと決めた。
いつかまた、さりげなく忘れ物を取りに来たように
訪れようと思ったのだ。

二月の風は冷たく、夕暮れは美しかった。
ほんのり春を感じる、
緋色が醒めた優しい色。

お別れの言葉も、目にした夕暮れも、
やがては溶けて胸の内に馴染んでいく。
ゆっくりと春になるのを待とうと思った。

その後、ママのところには行っていない。
春は名のみの、遠い日の記憶だ。

染めて、守って、引き継ぐ色。

山形の秋は、関東よりも早く進んでいて、
吹く風は、キリリと冷たかった。

代赭色(たいしゃいろ)は、
黄色みの強い赤褐色。
「代」は、赤土の名産地、中国代州の地名から、
「赭」は、赤いものを意味する。

朝早いバスで山形に着いて、
まず訪れたのは旧県庁舎である「文翔館」。
復原された大正の洋風建築だ。
じっくりと見て回り、帰ろうとしたところ
「ガイドはいりませんか? 」。
と、矍鑠としたボランティアガイドの紳士に声かけられた。

見せたいもの、知ってほしいことが
この建物の中にはいっぱいあります、とのこと。
その明るさに、ワクワクするものを感じて、
もう一度見て回ることにした。

まず、一旦外に出て、その地形から
山形の歴史、街づくりの経緯を熱く語られる。
ほんのりとお国言葉が聞き取れて、
この地に来た嬉しさがこみ上げる。

建物内に入り、
施された装飾の意味、
復原に当たっての苦労について聞く。
触ることがためらわれた、
古い変わり窓なども全て開けて、
つくりについて説明してもらった。

建物に使われている煉瓦、
室内の暖炉、寄木貼り、家具。
そして、窓の外の木々の葉も枯れて、
秋らしい代赭色にあふれていた。
暖房もついていないのに、
どこか暖かい。
まるで代赭色に染める鍋に
放り込まれた気分になっていた。

ある部屋に山形の川に浮かぶ船の絵が飾られていた。
それを見て、
川が街の発展にどれほど大切だったかという話と、
ガイドさんの子供時代の川遊びの話を聞いた。
とてもおおらかで、楽しい話だった。

それは、
この建物でかつて働いていた高等官たちと
市井に生きる人たちと、
共に同じ山形という地で生きた人たちの話。

一人で来ていたら見ることもなく、
知らずに帰っていたエピソードまで聞けて、
驚いたり感心したりのひとときだった。

ちょうどお昼になり、別の場所に行きます、
というと、地図を出して、観光案内よろしく
あちこちの見どころを教えてくれた。
お昼は、ここがとってもおいしいです、と
うまいもの情報も。

また来てね、と
見送ってくれた笑顔は、郷土愛にあふれていて、
とても爽やかに、旅する背中をポン! と
押された心持ちになった。

その街にずっと暮らし、その街を愛し、
来る人を歓迎し、見送ること。
それを続けていく。

どんな大きな建物も、時が経てば、
少しずつ傷み、朽ち、弱っていく。
だから、丁寧に手入れし、守り、愛していくこと。
それを続けていく。

続けていく人間だって、時が経つと
老いて、弱り、いつか消えていく。
だから、伝える、愛情を育む。
そうすることで建物、文化、郷土愛は、
受け継がれ、守られていくのだろう。

ガイドさんが教えてくれたのは、
山形の文化であり、ご自身の郷土愛であり、
続けていこうとする情熱なのかな…
そんな気がした。

たくさん笑った後、冷たい風の中でも
頬がホカホカと熱く、火照っていた。
きっと、代赭色に染められたのだろう。

ところで、帰りに聞いたおいしいもの情報。
勧められたお蕎麦屋さんで、
あぁ、おいしかった! と、
満足し、改めて箸の袋を見ると、
なんと、おそわった店ではなかった。

あらら。と、思ったが、もう満腹。
また、山形に来なくては、と思った。

秋。眠かった時間に導かれ。

紅葉色(もみじいろ)。
晩秋に色づく楓の鮮やかな赤色。

ずっと行きたいと思っていた
岩手県の平泉へ行った。
早朝に平泉の駅に着き、
まだ誰も歩いていない街を歩いた。

案内版が見つからず、
途中、洗濯物を干すおじさんに道を訊くと、
「何もない跡地にがっかりしないで。
 “夢の跡”だからね。」
と、土地の訛りの混じった
優しい言葉で教えてくれた。

高館から北上川を眼下に見た後、
中尊寺に行く。
広い境内を、のんびりと歩きながら、
この平泉、中尊寺の名前を初めて知った
中学時代のことを思い出していた。

中学三年の時だったか、
好きだった国語の先生が、妊娠中の体調不良により
長期休職されることになった。
いつも明るく元気な先生の代わりに
H先生という若い女性教諭が来られた。

H先生は、初めて教室に入って来た時から
不機嫌そうな表情だった。
眉間にシワを寄せて、決して笑わない。
男子がふざけて話しかけても、「静かに!」と、
言って淡々と授業を進めた。

余談が多くて、笑うことの多かったそれまでの
国語の授業と比べると、つまらなかった。
ちょうど、その時に「おくのほそ道」の
授業で、来る日も来る日も、全員で音読させられた。

あくびをかみ殺して、ウトウトとしながら、
心ここにあらずで読んでいた。
音読よりも、これにまつわる面白い話を
聞かせてくれればいいのに…と不満だった。

H先生は、授業中はもちろん、廊下で出会っても、
いつも怒ったような顔をしていた。
話しかけづらく、苦手だった。
だから、余計に授業がつまらなかった。

けれど、実際に中尊寺を歩いてみると、
あの日、何度も何度も音読させられた文が、
胸に鮮やかに蘇ってくるのに驚いた。

経堂、金色堂へと向かう途中、
太陽を背に受けて、現れた自分の影が、
音読に飽き飽きしている中学生の自分の姿に
見えて、一人笑いを浮かべていた。

初めて来たのに、懐かしい。
そう思えたのは、あの日のH先生の
教えのおかげだったのだ。

笑わないH先生だったけれど、
ある日、男子の珍回答に
ふっ…と一瞬笑って、
すぐに表情を厳しくしているのを
見たことがあった。

あ、笑うんだ。
笑顔、美人なのになぁ。
そう思ったのを覚えている。

まだ青さの残る楓の葉の中の赤い色。
紅葉色。
これは、あの日の教室のH先生の色。

今思えば、H先生は、
体は大きくても、
心も知識もまだ青い生徒たちに、
舐められないよう、
授業をきちんと進められるよう
孤軍奮闘されていたのだろう。

受験を控えた中学生に、
きちんと知識を与えること、
授業を全うすることは、
一人、血が逆流するような怒りや
不安や苦労があったことだろう。

金色堂は、教科書で読んで想像したよりも、
ずっと煌びやかで、豪華で、
素晴らしいものだった。

忘れたと思っていたけれど、
あの日の暗誦した文や、記憶は、
美しいまま残っていて、
ここに導いてくれた。

「五月雨の降り残してや光堂」

まるで光のような記憶。
汚されず、朽ちず、
美しいまま心に残った景色、文。
名前も忘れてしまった先生だけれど、
心の中で、感謝を述べた。

暗い堂内を出て、
改めて眺める金色堂。

見えていなかったことが
光を得たように見えた喜びがあった。
その背景には紅葉色。
秋に来たことを忘れないで、と燃えていた。

声を彩る色は何色?

台風の翌日、
近所の畑の木々に鳥が集まり、
賑やかに鳴いていた。

美人祭(びじんさい)色は、
明るく淡い紅色。
美人瞼色も、ほぼ同じ色とあり、
おそらく遠い昔の美女の瞼を彩る色
だったのかもしれない。

先日、このブログの拙文を、
友人が朗読してくれた。

朗読会での動画を見せてもらった。
女性らしい声の友人が、
時に少年ぽく登場人物にあわせて、
声のトーンや強弱を変えながら、
生き生きと、
臨場感たっぷりに読んでくれていた。

単調な文が呼吸して、
色づけられた気がした。
私が書いたものではなく、
別の物語に聴こえた。

声の音色、調子のことを
声色(こわいろ)という。
感情によって、
明るくなったり、暗くなったり、
低く高く、重くなる声の色。

それを見事に使い分けて、
登場人物の気持ちを表し、
地の文の味わいを豊かにし、
盛り上がりをつけていく…。

それまで知らなかった朗読という世界の
深さ、広がりに、驚き、感動した。

振り返って、私は自分の声を
そんなふうに表情豊かに使っているだろうか、
と考えてみた。

私の声は、出欠確認や面接の時、
初対面の人には「え?」と
改めて顔を見られるほど、
太く低く、愛嬌も華もない声だ。

たぶん、嬉しい時に少しだけ高くなるくらいで、
言葉を誰かに届ける時に
声音について考えたことはなかったように思う。

嬉しい時、喜びを伝えたい時、
そして、誰かを強く励ましたい時、
心の内に、この「美人祭色」を描いて
一番いい声音で声かけることができたら。
少しは、気持ちも伝わるのかもしれない。

台風が過ぎて、賑やかに鳥が鳴く様子は
きっと「生きてるかー」「元気だよー」と
交信しているんだね、と友人と話した。

そう思って聴くと、鳥の声音も
美人祭色に華やいだ。

発する時だけでなく、
聴く時も、声音の彩りを想うことの
大切さを知ったのだった。

たたかう手のひらの色。

「手のひらを太陽に」
という歌が好きだ。
夏の陽射しに手のひらをかざすと、
真っ赤に流れる血潮が見える気がした。

猩々緋(しょうじょうひ)色は、
鮮やかな赤色。
猩々とは、中国の伝説上の猿に似た生き物で、
赤い体毛を持ち、その血がとても赤いことから、
猩々緋という名がつけられた。

力強い命の色。

小学四年の夏、
羽がちぎれて、ひっくり返り、
風に吹かれている小さなトンボを見つけた。

かわいそうに思って、空き瓶の蓋に
砂糖水を含ませた脱脂綿を置いて
ちょこんと乗せてみた。
必死につかんで砂糖水を飲むトンボに
強い生命力を感じた。

人に踏まれないように、
玄関先の植木鉢の上にそれを乗せて
元気に明日は飛んでいくかなぁ…と
願って眠った。

朝になって、トンボを見て驚いた。
トンボは砂糖水に集まったアリに
真っ二つにされて、植木鉢に作った
巣に入れられようとしていた。

羽がちぎれ、飛ぶこともできず、
砂糖水さえなければ助かったかもしれないのに!

残酷なことをしてしまった自分を責めた。
悲しかった。
襲われる瞬間のトンボの気持ちを思うと、
怖かった。
そんな恐ろしさと後悔で、
植木鉢の前で沈んでいる私に、父が
「せいぞんきょうそうだ」
と、静かに言った。

意味は全くわからなかったけれど、
その言葉を宿題の日記に書き留めている。
翌日は「強い者だけが勝つのか?」と
書いて、先生には提出しなかった。

夏の赤色がどんどん淡くなっていく。
太陽もやさしい光になって、
手をかざしても、もう突き抜けるような
強さはない。
「氷」や「ラムネ」の赤い文字の旗も、
街からひっそりと消えてゆく。

季節はめぐってゆく。

あの日、トンボは、砂糖水がなくても
ゆっくり命は消えていったのかもしれない。

生存競争の「競争」は、弱肉強食のような
奪い合い、戦いだけではないと
最近になって知った。
動物であれ、植物であれ、
命そのものが、いかに生き延びるか
同じ生きもの同士それぞれに競い合い、
進化するために、弱いものは負けて
消えてゆく。
それも生存競争なのだと。

私は進化してるのだろうか。
根気がなく、気が弱く、体力もそれほどなく、
競争に勝てるとは到底思えない。

太陽に向かって広げた手のひらを、
力強く、ぐっと握ってみる。

何ができた、とか、できる、というものも、
いまだにないけれど。

私は私の手ですることを信じよう。
誰かがしたことを黙って借りたり、
盗んだり、ズルをしない限り、
それは私の競争に勝ったことになる。

自分の力でやってみること。
それを続けること。やめないこと。
そうすれば、やがて自分のやり方が見つかる。
何かが生まれる。

時々、自信をなくしたり、
忙しさに、続ける意味が見つけられなくなったりするけれど。

そんな時は、ぐっと握り拳を見つめて
たぎる血を思おう。

戦国時代、武士たちは猩々緋の布を用いて
陣羽織を仕立てたという。

戦国の武士の想いになって、小さく勝鬨をあげて
自分を鼓舞するのだ。

生きていく限り、私の生存競争はつづいてゆく。

すっぱさが広がる色。

久しぶりに食べてみたくなって、
「お取り寄せ」をしてみた。
ふっくらとした、
懐かしい色の梅干しを。

蘇芳(すおう)色は、くすんだ赤。
蘇芳(すおう)とはマメ科の植物で、
それを用いて染めた色であることから
この名がつけられた。

「すおう」という響きにも、
酸っぱさを感じて、
この色を見ると梅干しを思い出していた。

母は、毎年、梅を漬けていた。
家業の機織りをしながら、いつどんなふうに
干したり漬けたりしていたのか、
見た記憶はない。
けれど、毎年、蘇芳色に見事に染まった梅干しが
食卓に上った。

梅干しのついでなのか、
梅酒も作っていた。

高校三年の時、テストの一夜漬けが続いて、
目が冴えて眠れない夜に
初めて梅酒を飲んでみた。
最初の一杯は、薄めを恐る恐る。
── 全く眠くならない。
二杯目は、もう少し濃く。
三杯目は、さらに濃く。
四杯目からは、氷だけのグラスに梅酒…。
すっかり気分良くなり、
高らかに笑いながら部屋に帰り、
ぐっすりと眠った。

これは、とんでもない大酒飲みの誕生だと
父を震え上がらせた。

いつも台所の隅には、
梅の漬かった大きな瓶が並んでいた。
病気の時は、おかゆさんに。
遠足のおにぎりに。
梅干しは、優しい常備薬のような
頼もしい食べ物だった。

七月の暑い日に、父が急逝した。
弔問に来てくれた近所に人たちに
母が「今年は漬けた梅干しにカビが生えたから…」と
話していた。
当時、私は知らなかったけれど、
梅干しにカビがはえるのは「不吉な兆候」
とされているものだった。

それ以来、梅干しは悲しい食べ物になった。

母はその後も梅を漬けていた。
大きな瓶が遠く離れた街に住む
私のところに届けられた。
赤紫蘇に漬かった梅干しは、棚の奥にしまい
やがて少しずつ古漬けの茶色になっていった。

「蘇芳の醒(さ)め色」という言葉がある。
鮮やかな色なのに、褪せやすい特徴があり、
褪せた色も含めて、この色の味わいであるという。

子供の頃、瓶を眺めても美しかった
蘇芳色の梅干し。
茶色に褪せたものは、
口にすると、どこか頼りないような酸味が
また悲しかった。

先日、友人たちと湘南へ行った。
初夏の暑い日に、海を眺め、浜辺を歩いた。
まだ暑さに慣れておらず、
大量の汗と強い陽射しは、身にこたえた。
そこに、友人が小梅の袋を開けて、
「はい !」と
差し出してくれた。
口に入れると、程よい酸味が広がって、
身体にいいものが入りましたよ、
と、力を注がれたような喜びがあった。

遠足のおにぎりに入っていた梅干しを思い出した。

たくさん歩いて、いっぱい笑って、
そして、差し出してくれた袋から小梅を取り出す。
すっぱーいっ! と言いながら、また大笑いしていた。

「ええ塩梅だ」は、その年の梅の
つけ具合を確認する言葉だった。

結局、梅を漬けることのない大人になってしまったけれど、
悲しいことも、嬉しいことも、
共に味わい、ええ塩梅に人生を楽しんでいる。

取り寄せた梅干しは大当たり。
好きだった酸味と口当たりを、
思い出させてくれる味だった。

暑さの中、
鮮やかな蘇芳色の梅が、
「ほら、元気出して!」
と、再び、日々の食卓に上っている。