記憶を奏でる色。

呂色(ろいろ)は、
黒漆のような艶やかで深く美しい黒色。

漆工芸の塗技法の一つである
呂色塗からきた色名で
蝋色(ろういろ)ともいう。

漆塗りのもの、というと、
若き日の父が、
母に贈った呂色のオルゴールの
艶と匂いを思い出す。
子供の頃、
母のタンスからこっそり出してきて、
その手触りと匂いと
やさしいメロディーを聴くのが
楽しみだった。

年末に、友人がレコードプレーヤーを
プレゼントしてくれた。
久しぶりにレコードに針をのせる
緊張感が嬉しかった。
音楽が始まる前の、チリチリというような
アナログ独特の間合いと音。

艶のある呂色のレコードは、
楽曲と共に、様々な思い出を
生き生きと蘇えらせてくれた。

それはオルゴールを開ける時のように
流れてくるメロディーと共に
大切なものが現れる気がした。

レコードが黒いのは、傷やホコリが
発見しやすいからという。
傷つきやすいものだから、
漆塗りの工芸品のように
丁寧に扱うことが大事。

そうでなくても、レコードは、
子供の頃から、色んな欲しいものを
我慢して、お小遣いを貯めて、
やっと買えるものだった。

買ってきたレコードを
指紋のつかないように、こわごわと
取り出して眺めたときの
喜びは、言いようのないときめきだった。

どんな曲が入っているのだろう。
薄い一枚の盤の中に
込められた想いを、曲を、情熱を。
ただ一枚の黒いレコード盤が
昨日と今日とを隔てていく期待。

なかなか買えないものだから、
友人との貸し借りや、
録音してもらうことも多かった。

あるレコードを
友人が録音してくれたところ、
ずっとピンポン球を打ってる音が
バックに流れていたことがあった。
今も、その曲を聴くと、ピンポンの音も
一緒に思い出されるのがおもしろい。

全曲が終わると、スーッと針が
流れて終わる。

レコードの始まり、終わり、の一瞬の間。
余韻。静けさ。感動。
ゆったりとした時間。
無駄といえば
無駄のような時間だけれど、
そこに何かを思う、感じる、
ということを学習していたような気もする。

様々なものがデジタル化され、
隙間も、無駄も、小さくたたんで
片付けられ、
急ごう、急ごう! と走り抜けてきたけれど。

そろそろ立ち止まって、
思い出も振り返ったり、
好きだった時間をもう一度取り戻したりする。

そんなことも、案外、楽しい。
そう思うのは、歳をとったから、と
笑われるだろうか。

母は、ふたが外れて
音も途切れ途切れにしか鳴らなくなった
呂色のオルゴールを、
今も大切にしていて、
時に取り出したりしている。

もう二度と買えない
愛しいものは、
人生の宝物だと思う。

これからはそんな買えないものを
ひとつひとつ増やしていくのも
人生の楽しみかもしれない。

幸せの鳥の色。

鶸(ひわ)色は、
黄色みの強い黄緑色。

日本では古くから知られる冬鳥、
ヒワの羽の色にちなんだ色名だ。

ヒワは、
冬に大陸から日本へとやって来て、
季節を知らせる渡り鳥。
その鮮やかな羽色は、
枯れた冬景色を彩る美しい鳥として、
愛されてきた。

冬に光をもたらすような
明るく爽やかな色、鶸(ひわ)色。

残念ながら、私は
ヒワ鳥を見たことがない。

ただ、ありがたいことに
ネットで検索すると、
その姿を遠い森まで行って、
やっと会えたかのように
見ることができる。

小さな体をふっくらと
ふくらませて鳴く
無邪気で愛らしい姿。
いつか、本物を見てみたいと思った。

年末に、またひとつ歳を重ねた。
何の節目という訳でもないのだけれど、
来し方を振り返ってみた。

生まれた街から始まり、
進学、就職、結婚、転勤で
移り住んだ街や
旅に出た街、出張で訪れた街など、
そこで心に残ったシーンを
パズルのピースのように
組み合わせると、
小さな自分だけの地図ができた。

様々な街に行った。
たくさんに人に会った。

いいことばかりではなかったけれど、
どこかに行かなければ、
誰かに会わなければ、
私の地図は、真っ白のままだったろう。

メーテルリンクの「青い鳥」は、
チルチルとミチルが
青い鳥を探して、
あちこちと冒険し、
結局、見つけることができず、
朝、目覚めた自分たちの家にいた。
というお話だったと思う。

幸せはいつも自分の内側にある。
という学びとともに、
じっと家にいたままで
外の世界を知ろうとせずにいたら、
何も見つけることができない。
本当の意味で「知る」ことができない。
怖いけれど、勇気と好奇心を持って
冒険に出る大切さを教えてくれた。

いくつになっても、
何になっても、
自分の目で見ること、
探すこと、思うこと。
そのことが、確かなものを
知る力を与えてくれる。

まだ見ぬ未来は、
私の持つ地図に描かれていない。
ひとつひとつ、私が歩き、出会い、
手にとって作っていくもの。

幸せの鳥の色を自分で
確かめにいくのだ。
鶸色の山や森や野原を、
明るく爽やかに歩いて行こう。

もしかしたら、ヒワ鳥たちが、
森の中から
ひっそりと見ていてくれるかもしれない。

たとえ幸せの鳥を
見つけられてなくても、
目を凝らし、耳をすませて、
探していけば、
「こっちだよ」
と、鶸色の小さな灯りが
ささやかに、でも暖かく
待っていてくれる気がする。

それを見つけた感動を
発信することで、
また、誰かの心に
灯りをともすことができたら嬉しい。

まだ見ぬ灯りを夢見て、
今年も撮ること、書くこと、
探すことを、続けていきたい。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ヒミツが噴き出す思い出色。

くすんだ淡い青緑、
緑青色(ろくしょういろ)。

箸置き

飛鳥時代、仏教とともに、
中国から伝来したという
緑系の代表的な伝統色だ。

古くから日本画の顔料として、
また、神社仏閣などの建築物や彫刻の
彩色にも用いられてきた。

浅草寺

先日、とある街の文化館で
昭和の懐かしい品々の展示を見た。
何より目を引いたのは、
ガリ版(謄写版)の一式だった。

ガリ版

小学校の頃の文集は、
全てこの印刷方法で作っていた。
道具には、緑青の色が見られて、
あぁ、これだ!
と、嬉しくなった。

ソノシート

文集作りが好きだったという
記憶はないのだけれど、
その作業が終わらず、放課後遅くまで
残っていた記憶がある。

真っ暗な校舎。
先生方の雰囲気も、どこかリラックスして、
昼間よりも親しみをこめて、
話しかけてくれた気がする。
ある先生が引き出しから出して
「内緒よ」とくれたのも、
緑青と黒色の飴で、ハッカの味がした。

木馬

暗くなった校舎は少し怖くて、
いっしょに作業する友達とは、
身体も心の距離も昼間より近くなり、
作業しながら、
たくさん内緒の話をした。

いくつもの内緒が、
ひっそりとふえる時間。

有刺鉄線

それは、誰にも言わないままに、
記憶の器に大切にしまわれて
ふたをされて、
今はもう、開けることはできない。
誰かに訊いたり、思い出すこともできない。

井戸

けれど、その記憶の器から、
ふきこぼれるような思い出が、
美しい顔料となって、
胸の中を嬉しく楽しく包んでくれる。

石像

そんなふうに、誰もが、
折々に取り出したり、
もう開けたくないとそのままにしたり、
あるいは存在すら忘れているような、
さまざまな記憶の器を
持っているのではないだろうか。

表参道

銅製品の青緑のサビをさすときに
「緑青(ろくしょう)をふく」
と言われる。
そのサビもまた、顔料になるのだという。

苔

どんなふうに置かれていても、
記憶は、心の一部となって、
時おり噴き出して
人の想いに、表情に、表れるのだと思う。

椿山荘

「サビ」は時間がつくるもの。
自分の中のサビが深く、味わいのある顔料となって、
見る人、出会う人に、
やさしい一滴の色を贈れるようになりたい。

勝ちたい想いにそえる色。

勝色(かちいろ)。
日本に古くからある、
深くて濃い藍色だ。

青森

名の由来は、染め物から。
藍を濃くしみ込ませるための、
布を叩く作業を「搗つ(かつ)」と言った。

鎌倉時代には、
この「搗つ(かつ)」が「勝つ」に
結びつくと、武士に好まれ、
武具などに多く用いられたのが
「勝色」の名の由来とされている。

小田原城

いざ勝負! という時に「勝ち」に
つながる何かを持ちたくなるのは、
昔も今も変わらないのかもしれない。

受験シーズンに
「勝ち」にちなんだお菓子を
食べたり、贈ったりするのも、
そういうことなのだろう。

ジェットコースター

私の学生時代にも、
そんなお菓子があったのだろうか。
あれば買っていたのだろうが、
食べた記憶がない。
もう四半世紀よりも、もっと昔のことになる。

受験で大阪に向かう日、大雪だった。

水たまり

駅まで遠いので、
前日に頼んでおいた
タクシーの運転手さんが、迎えの時刻に、
「車が出せない」と走ってやってきた。
雪に足をとられ、とられ走る、
運転手のおじさんの服の色は、濃い藍色。
それは、やや敗色がかった勝色だった。

もう間に合わない。
ダメなのか…と心曇らせたところ、
父が、雪の中から車を出して、送ってくれた。

雪景色

駅までの不安な道のり。
黙りこくった私に
「あかんと思ったら、なんでもあかん。
できる思ったら、なんでもできる」
父はそう言って笑った。

夜明け

間に合わないと思った列車には、
ギリギリながら間に合い、
ほら、大丈夫だったろう! と、
車から降りて、笑って見送ってくれた。

しかし、父もあわてていたのだろう。
陽気に手をふってくれたその足もとは、
雪に埋まってしまうサンダルで、
羽織ったカーディガンも
薄手のものだった。

由良川

あの時の、タクシーに乗れない…
もうダメだ、という気持ちと。
そこから、よし行くぞと決めて、
父の笑顔にもらった安心感と。

何かに負けそうな時は、
その二つの気持ちを思い出す。

ダメになりそうな時も
敗色を思うのではなく、
勝つと信じる。
勝色を想う。

明日館

武士のような勇ましさはないけれど、
あきらめない気持ち。
こつこつと叩かれてしみこんだ
勝色をにじませるしぶとさを持って。

この時期、身を縮ませて
テキストを抱えている受験生を
街で見かけると
皆に良い春が来ますように、と願う。

ジェットコースター

寒いけれど、澄んだ青の空。
辛い時も、耐えて、こらえていけば、
心に描く青がうんと深くなる。
その色こそが、
勝色だよ、と、教えてあげたいと思うのだ。

ふっくら丸い夕暮れの色。

寒さに背中も丸くなる冬。
街で見かける雀たちも、
羽毛に空気を取り込んで
「ふくら雀」になって
寒さをしのいでいる。

ふくら雀

ふっくら丸いその色は、
赤みがかった茶色、
「雀茶(すずめちゃ)色」だ。

東京駅

冬のこの時期は、
空気も澄んで、夕暮れ空が
とても美しい。
その夕暮れは、
雀色時(すずめいろどき)
とも言うのだとか。

日本家屋

はて、雀の色をしていただろうか…。
とも思うけれど、
雀の色は、誰もが知っているのに
いざ言葉で表そうと思うと、
おぼろげで、どんな色かと
表現できない…。
そんな曖昧で、
ぼんやりしたところが
夕暮れの空のイメージに重なることから
その名で呼ぶようになったのだと言う。

丸の内

確かに夕焼けの色は、
表現しようとすると、
どんどん色を変えてゆき、
言葉が色に追いつかない。

そして、
夜の闇に吸い込まれる直前は、
雀の色のような
ほの赤く暗い茶色の時がある。

丸の内

言葉にできないものを、
ほら、できないでしょう?
というものに表現してみせた
昔の人の心の使い方を
すばらしいと思う。

バイオリン

今年も、
ニューイヤーコンサートに出かけた。
新年らしく、ワルツにポルカ。
心躍るひとときだった。

とりわけ今回心惹かれたのは
バイオリンの表情豊かな音色。
あの小さな楽器から放たれる音が、
軽やかに、時に重厚に
肩にとまったり、
全身を包み込んだり。

銀座マリオン

その様子は、
木の枝にとまる雀たちのように思われた。
仲間と歌い、笑い、おしゃべりし、
ぱーっと飛び立って行ったり、
風にのって、ふわふわ飛んでいたかと思うと、
静寂の中、じっとこちらを見つめているような。

雀

これもまた、
言葉にできない感動で、
曖昧な雀色に
心を染められたような時間だった。

何に出会ったとしても、
見ようとしなければ、見えない。
聴こうとしなければ、聴こえない。

神田川

曖昧でも、表現できなくてもいい。
まずは感じてみよう。
そこから、発見や
喜びが生まれる、そんな気がする。

昔の人が「雀色の時」という名を
夕暮れに当てて、
しみじみとそうだな、と思ったように。

根津美術館

春は遠いけど、確実に進んでいて、
新しい気づきや喜びは、
土の中で
芽吹く時を待っている。

よりよき始まりを彩る色。

毎年、新年を迎えると、
その年の恵方にある神社へ参拝している。
今年は晴天の日に参拝できた。

穴神社

空の青に映えるのは、
丹塗(にぬ)りの鳥居の色。
丹色(にいろ)だ。

神社

もともと赤い色は
「魔除け、厄除け、祈願」
の色とされていた。
この丹色で彩ることで、
魔除け、神性を表すことから、
鳥居の色にも用いられたという。

神社

年の初めの月には、
この丹色の正月飾りを
あちこちで見かける。
それを見ると、
新しい年の空気を感じ、
神聖で、改まった心持ちになる。

正月飾り

今年の初詣には、
年末に買った新しいカメラを
持って出かけた。
慌しい暮れに、
大急ぎで家事をこなし、
嬉々としてカメラ操作を確認したのだった。
おかげで、少し取り扱いが理解でき、
実質の初撮りとなった。

南天

過去にも一月に神社に
撮りに行ったことがあった。
それは、二年前のこと。
扱える自信がなくて、
買うことはないと思っていた
一眼レフカメラを
譲ってもらうことになり、
京都の伏見稲荷大社へ
初めての撮影に行ったのだ。

伏見稲荷

取り扱い説明書に
ささっと目を通してはいたものの、
実際、撮るとなると、
何が何やら大混乱!
戸惑いながら一眼レフカメラの難しさと
格闘していたのを思い出す。

伏見稲荷

これからこのカメラを使いこなし、
うまく撮れるように
なるのだろうか。
撮れたらいいなぁ。
そんな気持ちを抱いた記憶は、
伏見稲荷の鮮やかな丹色に染められた。

伏見稲荷

今年、初詣の写真を撮りながら、
どこか改まる思いになったのは、
その時の記憶が色を通して
蘇ってきたからかもしれない。

あの日格闘した一眼レフカメラは
私の無知という荒っぽさに耐えて、
たくさんのことを教えてくれ、
そして、次にバトンを渡すように
動かなくなった。

紅葉

最後に撮った写真は、
クリスマスの華やかな赤い色。

その赤色とは少し趣の異なる
黄色みを帯びた赤い色「丹色」から
新しいカメラとの生活が
いよいよ始まった。

「丹」は赤土の古語でもあり、
さらに色とは少し離れて、
「まごころ」の意味も持つ。
「丹精」「丹心」の「丹」だ。

椿

新しい年、新しいカメラで
変わりなく、まごころもって
撮っていこう。

新しくなるのは、よりよくなるため。
今年も、よりよい年にしたい。