年に願いを。

新しい年を迎えた。
初詣には、今年の恵方、北北西にある
大雷(だいらい)神社を参拝した。

土黒(つちぐろ)は、
赤みがかった黒い色。

赤黒、茶黒と黒の仲間はあるけれど、
土の黒とは、その匂いまで感じられるようで、
好ましく思った。

大雷神を祭神とするこの神社の
ご神徳は、
“雷除け、電子機器への加護、IT技術の向上”
という。

日々、パソコンの前で
青ざめることの多い私には
ひざまずいてお願いしたいことばかり。

そんなIT時代の神様!
のようなご利益もありながら、
その歴史は古く、
静かで落ち着いた雰囲気の境内は
ITなど知らぬ! という威厳に満ちていた。

立派な鳥居をくぐると
ふわりと包み込んでくれるような
安心感が漂う。
朝早く、まだひと気もない境内は
空気も澄んで感じられた。

しんとした中、
古い御札や御守りなどの
お焚き上げが始まった。

もうもうと煙がのぼり、
境内が薄い膜のかかったような
淡く白い世界に染まってゆく。

ゆっくりと火に近づいて、
新しい年の無病息災を願う。

初めて来たのに、
焚き火を囲んだ幼い日のように
懐かしい想いに包まれた。

火には、人を集める力があるという。
…人が集う。
願いを込めた火が、高く上る。
過ぎた日々の災いも、悲しみも、
ここに納めて、焚き上げて、
一年の平穏を願う。

参拝後、「漢字蒔絵おみくじ」をひく。
今年の私の一文字は、
「才」だった。
“努力を「苦」とせずに真剣に、
貪欲に取り組め”
とあった。

「健康」の項には腹八分目にせよ、とも。
食いしん坊もほどほどに、との戒めか。

読みながら、笑顔になって、
健やかに、朗らかに、努めていくことを
心に決めた初詣になった。

秋の終わりから、
新型コロナウィルスの感染者数も
落ち着いてきたかな…
と、安心したのも束の間。
年が明け、
また、不穏なニュースに胸がざわつく。

焦るな、騒ぐな、不安に支配されるな!
そう大雷の神からのお叱りが
雷鳴とどろかせ、胸にずしんと落ちてくる。

お叱りを受け止めた体で、
境内の土を踏み締めると、
どっしりとした安心感が
体中にしみわたっていくような気がした。

土黒(つちぐろ)とは、
しっとりとしてやわらかく、
栄養分をたっぷり含み、
豊作を約束された
黒い土の色から名付けられたという。

見た目に華やかさが感じられなくても、
慈しみ、育む、母なる色。

暗闇にも思える黒い土の中でも、
いつか光のなかへ!
と、着実に育っているものがある。

今は暗くて、何も見えなくても、
いつか芽吹く日のために、
力をつけて、健やかに伸びようとする。

土黒は、それを、見つめ励まし包んでくれる。
春の土のような、
ふくよかで、ぬくもりを秘めた色だと思う。

神社を後にして、近くの街や
公園などを散策した。

まだ動き出していない
お正月の街。
静けさの中に、うごめく音を感じる。
2022年はどんな年になるのだろう。

元気に、明るく、力強く。
大雷様に誓ったことを
しっかりと心に留めて、
前に進もう。

胸の奥で、炎が上がり、
パチパチと爆ぜる音がした。

おなかの中で、光る珠。

どんよりとした気分の時、
一瞬にして世界の色が変わった。
そんな出会いはないだろうか?

魚肚白(ぎょとはく)色は、
青みがかった明るい灰色。
魚の肚(胃袋)の色に似ていることから
この名がついたという。

関東に引っ越してきて、
仕事を始めたばかりの頃のこと。
東京の電車の数に面食らいながら、
お客様のところへ向かう車内。

電車は間違っていないか、
無事に目的地に着けるのか、
何より、仕事はうまくいくのか。
不安と気の重さで、うつむいていた。

あれは、中央線だったと思う。
乗り換えて、空いた席に座り、
やれやれ…と顔を上げると
向かいの席に、
あれ?
この世にはいない、父がいる!?

窓から射す、午後の陽射しと
空の淡い青が溶けた
魚肚白色の光の中に、
父が座っていたのだ。

その人も、私を見て驚いてる。
お互い「あっ!」と声が出た。

父にそっくりの人は、父の兄、
横浜在住の伯父だった。
あまりの偶然に驚きながら、
伯父は隣の席に移動して、
しばし近況を語った。

数年ぶりに会った伯父は、
思ったよりずっと父に似ていた。

懐かしく、嬉しく、
心がほどけるひとときだった。
暗く、重い表情の私に
空から父が、ヒョイっと伯父を
よこしてくれた。
そんな優しいイタズラに思われた。

入社一年目の夏の終わり。
仕事がうまくいかず、
その日も深夜まで残業。
ヘトヘトになって、
憂鬱になって、電車に揺られていた。

誰もが疲れ果てている車内。
最寄り駅まで、まだだなぁ…と
顔を上げると、学生時代の先輩が
今まさに降りようとドア近くに立っていた。

私の、はっ! とした気配に
気づいてくれて、先輩は、笑いながら
おいでおいで、と手招きして
いっしょに降りようと誘ってくれた。

ホームのベンチに座って、
なんという事もない、近況を話す。
こぼれる弱音に、学生時代と変わりなく
笑い飛ばされた。

それだけで楽しくて、
無邪気な自分に戻り、
大きな声で笑っていた。

程なく、終電が黒い夜の中を
ほんのりと青白い光でホームを照らし
入ってきた。

それじゃあ、また。

と、学生のように別れた。
職場も遠いのに、たまたま同じ電車の
同じ車両に乗っていたという偶然。

疲れも吹き飛ぶ
驚きと嬉しさだった。
その数分の語らいのおかげで、
さて、明日も頑張るか!
と、力が湧いたのを覚えている。

これも、
父なのか、神様なのか、
遠い空の上から
見守ってくれている誰かの
優しい贈り物のように思えたひとときだった。

日々、瑣末なことに追われて過ごす自分は
とても小さな点だけれど、
時に視点を
うんと空高く、遠いところへ飛ばしてみる。
神の視点で世界を見下ろす。

あの人があそこにいて、
この人はそっちにいて、
自分がここにいる。
その小さくて大切な点を、
ひょいとつまんで会わせることができたら、
どんな喜びが生まれるだろう。

自分の未来を思い描いて、
喜びあふれる瞬間をデザインする。

今は、動けない点でいることが
少しつらい時もあるから、
心だけは、広い世界を見おろしてみよう。
ワクワクしながら想像しよう。

魚肚白色を調べていて、
「南総里見八犬伝」のエピソードを見つけた。

「仁・義・礼・智・信・孝・悌」
それぞれの文字の珠をもった
八人の若者の物語。
その中で、釣った鯛の肚から
「信」の珠が現れる。

「肚(はら)」には、
「表に表さず心に思うこと」
の意味もある。

肚に「信」の珠を持つ。
窓から入る光のような、
暗闇に光るヘッドライトのような。

未来を、
自分の健やかさを、信じる。
それでも、心が弱った時は、
思いがけず与えられた嬉しい瞬間を
思い出しみよう。

嬉しい記憶は光になって
「信」じる尊さの珠を輝かせてくれる。
生きていくことは、光の珠をつなげること。
小さくても、キラリ光る珠をつなげて
生きていこう。

そう肚を決めることが
明日につながる気がする。

ちぐさにもの思う、年の始まり。

今年の恵方は南南東。
初詣は、車で都内の静かな神社へ出かけた。

千草色(ちぐさいろ)は、深く渋い青緑色。

千草色は、同じ読み方の
「千種色」と表記されることもある。
千種には、
「いろいろな、さまざまな」の意味があり、
千草は、
「いろいろな種類の草」の意味を持つ。

千草はもともと「露草」の別称とも言われ、
露草の色である空色に近い藍色をさす場合がある。

人混みを避け、
お参りを終えたあと、
あたりを歩いてみた。

休日のオフィス街は、ひと気なく、
異次元に転がり込んだような
不思議な感覚になる。

色をなくしたような静けさに
心も、しんとなる。

いつものお正月休みの光景なのに、
今年は少し色合いがちがう気がした。

また、ここに人が帰ってきて
いつもの日常が戻るのだろうか
という不安な空気を感じた。

さらに、
コロナ、コロナの毎日に
心も少し疲れていて、
広い通りに人がいないと
寂しいどころか、ほっとする自分がいる。

人のいる景色を撮るのが
何より好きだったのに、
出歩くこと、人のいる景色に身を置くことが
悪いことをしているように感じられる今。

こんな未来は想像していなかった。

誰も歩いていないオフィス街は、
それでも人の気配がする。
道にも建物にも
使い込まれたものの持つ空気を放っている。
静かでも、人々の手に足に馴染んだ
いろいろな色彩があちこちに見られる。

花も咲いている。
誰も通らない横断歩道も
きちんと赤、青、黄色と
色を変えている。

千草なる色の景色は
変わらないのだ。

今は、楽しい予定も考えられないし、
新年の希望にも満ちた抱負を語るのも
少しためらわれる。

けれど、日々の中にさりげない笑いは
きっとあるし、
制限された日々の中にも
楽しみも生まれる。
生み出すこともできるはずだ。

一年の始まりに、
明るい光を探してみよう。

休みが明けたら、
さまざまな物事が始まる。

どんな中でも、風は流れ、
季節は巡り、人も動き、生活はまわっていく。

今はできないことが多くても、
安全確認して、気をつけながら
千草色の信号を注意して渡るように過ごす。

光の中にいよう。
光の中にいられれば、
そこにある色に気づくことができる。

光が見えない日には、
うつむいてもいい。
そこには、きっと、
かわいい花がこちらを見つめている。
「負けずに咲こう」と笑っている。

時にあらずと声立てぬ色。

春が近いからだろうか。
夕暮れを歩いていると、
「さようなら」が空気の中に
しっとりと含まれているような気がする。

緋褪色(ひさめいろ)は、
明るく渋い赤色。
真紅の緋色を薄めた、
穏やかな温かい色だ。

二十代前半に、会社を辞めて、
しばらくIT関係の小さな会社でアルバイトしていた。
私の仕事は、なんでも係。
その日も、ゴルフコンペのメンバー表と
景品を持って、コンペ後の懇親会となる
飲食店に出かけた。

小さな白いビルの二階の店。
建物横の階段から入るのに
昼間は一階のインターホンを押す。
その店には、何回か連れてきてもらったことがあった。

美人のママは、離婚後離れて過ごしていた愛息と
最近、一緒に暮らすようになった話を
まるで漫談のように話す、話し上手な大人の女性。
ちょっと憧れていた。

「あんたが来たん? 」
と招き入れてくれたママに冷たい飲み物を
ご馳走になり、あれこれ話すうちに、
心ほどけて恋愛相談を始めてしまった。

黙って、話を聞いてくれたママは、
「まぁ、ウサギが好きや言う人に
 カバを好きになれ言うても無理やな」
で、話が終わってしまった。
……わたしは、カバ…?

キョトンとしてる私を無視して、
親子で昼まで寝てしまい、保育園サボったとか、
あんまり言うこと聞かない息子に
「別れるで」と言ったとか。
そんな話で笑わされて、相談を続けられなかった。

バカな小娘の話につきあってられない、
と突き放されたことと、
自分の弱さ、幼さを
見抜かれた恥ずかしさがあった。

と、同時に、
余計なことは言わない、
大人の女性のかっこよさを感じた。

年の暮れの接待の二次会に
ママの店へ行った。
その日は、ママがいつもより華やいで見えた。
Nさんという壮年の男性の隣に座り、
御髪が寂しいのをネタにして
裸電球! 100ワット!
と、はしゃいでいた。

Nさんは、落ち着いた雰囲気の楽しい人。
みんなの人気者のようで
後からお店に行った私たちも
Nさんとママを囲んで大笑いした。

夜も更けて、Nさんが
一足先に帰るわ、と席を立った。
ママも見送って、席を離れた。

するとNさんのテーブルに
ハンカチが忘れてあり、
急いで二人の後を追いかけようとすると、
上司のSさんに「行くな!」と言われた。

意味もわからず、出口を出て、
階段を見下ろすと、
Nさんとママが寄り添う影が見えた。
ママは泣いているようだった。

Sさんが、後ろからやって来て
「Nさんは末期がんなんや、
 年明けに入院したら、家族の手前
 ママはお見舞い行かれへんから、
 今日が最後なんや」
とおしえられた。

Nさんとママの二人の想いも気づかず、
何も考えずに追いかけて行こうとする
自分の鈍感さに恥じ入りながら、
ハンカチを元のNさんの席に戻した。

Nさんを見送ったママが帰ってきた。
「もう~! 100ワットはまぶしすぎて、
 目ぇやられたわぁ~」と、笑っていた。
ハンカチはテーブルの上からなくなっていた。

年があけて、次のステップに進むため、
私は、そのアルバイトを辞めることにした。
家族のように大事にし、
本気で育てようとしてくれた人たちを落胆させた。
「後足で砂かけるように、辞めるのか」
と言う人もいた。

自分でも、
わがままを貫くことへの自己嫌悪があった。

引っ越しも決めて、その準備に追われるある日、
ママの店の前を通った。
準備中の時間だった。
さようならを言っておこうかな…
そう思って、インターホンの前に立った。

叱られるか、嗤われるか。
余計なことは言わず、いつも通りか。

迷った末、店の前を通り過ぎることにした。

Nさんがハンカチを置いていったように、
私もさようならをここに置いていこうと決めた。
いつかまた、さりげなく忘れ物を取りに来たように
訪れようと思ったのだ。

二月の風は冷たく、夕暮れは美しかった。
ほんのり春を感じる、
緋色が醒めた優しい色。

お別れの言葉も、目にした夕暮れも、
やがては溶けて胸の内に馴染んでいく。
ゆっくりと春になるのを待とうと思った。

その後、ママのところには行っていない。
春は名のみの、遠い日の記憶だ。

どこまでも広がっていく色。

━━ きっちり足に合った靴さえあれば、
  じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。

須賀敦子さんのエッセイ「ユルスナールの靴」の
冒頭の一文。
少し長く歩くかなという日に、
靴の履き心地を確かめながら
いつも思い出す、
お気に入りの一節だ。

勿忘草(わすれなぐさ)色は、
可憐な明るい青色。
春に咲くワスレナグサの花の色だ。

勿忘草には、こんな伝説がある。
川辺を散歩中、対岸に咲く青い花を摘んで
恋人に贈ろうとした男性が、
足を滑らせて、川に転落。
女性に花を渡して
「私を忘れないで(フォーゲット・ミー・ノット)」と
言い残し、激流に巻き込まれて姿を消した。
女性は恋人を生涯忘れずに、この青い花を飾り続けたという。

年末に靴を買った。
傾斜やぬかるみがあっても、足元がぐらつかず、
長く歩いても痛みもない、
安定した履き心地のものを探した。
そして、機能性重視ながら、
忘れ物をしませんように、と
祈りも込めて、さし色に
勿忘草色の入ったものを選んだ。

こんな堅牢な靴を買うきっかけとなったのは、
思いがけず、広角レンズを譲ってもらったことにある。
カメラのことを勉強しようと思いながら、
結局、昨年も一冊の本も読まず、
経験だけで過ぎてしまった。

そんな私の撮ったものを見て、
無自覚なままに、
もっと寄りたい、広げたい、
どうしたらいいのかな? と
悪あがきしているのを読み取ってくれた人が、
私の実力には、まだ手にあまるような
レンズを譲ってくれたのだ。

実際に撮ってみた。
まだ、レンズの実力も魅力も引き出せては
いないけれど、確実に違うものを感じる。
新しい扉が開いた感覚。

こんなふうに、
自分のしていること、やりたいことは、
案外、自分自身が
一番わかっていないのかもしれない。

そう思うと、
これまで見逃し、撮りこぼしてきたものは
どれほどの大きさだったのだろう…と思う。

それは、広角レンズを得たことで
撮れるようになるのか、まだわからない。
けれど、
撮れないと思うのか、
撮ってやろうと挑むのか、で
きっと見える景色が違ってくるような気もしている。

広い世界の中の私が見つけられるもの。
それは何だろう?
それを撮るとき、撮れたと思えたときの
気持ちは、勿忘草の伝説の彼が
恋人に花を託したような気持ちなのだろうか。

「私を忘れないで」。

勿忘草は、「恋人たちの花」とも言われ、
ヨーロッパでは、閏年の二月末日に恋人に
この花を贈るらしい。
今年は、閏年。
四年に一度の告白の年だ。

私も、この閏年に、
告白に値するようなもの撮れたらいいな、
と思う。
前回の閏年に、初めて手にした一眼レフカメラ。
今年こそは勉強し、より良いものを
撮っていきたい。
重い荷物をぶら下げて、長い距離を
どこまでも歩いていく。
いつまで、これができるだろうと思う日もある。

けれど、きっちり足にあった靴と、
広い視界のカメラがあれば、大丈夫だ!
とも思う。

広く、楽しく、たくましく。
新しい年も挑み続けよう。

記憶を奏でる色。

呂色(ろいろ)は、
黒漆のような艶やかで深く美しい黒色。

漆工芸の塗技法の一つである
呂色塗からきた色名で
蝋色(ろういろ)ともいう。

漆塗りのもの、というと、
若き日の父が、
母に贈った呂色のオルゴールの
艶と匂いを思い出す。
子供の頃、
母のタンスからこっそり出してきて、
その手触りと匂いと
やさしいメロディーを聴くのが
楽しみだった。

年末に、友人がレコードプレーヤーを
プレゼントしてくれた。
久しぶりにレコードに針をのせる
緊張感が嬉しかった。
音楽が始まる前の、チリチリというような
アナログ独特の間合いと音。

艶のある呂色のレコードは、
楽曲と共に、様々な思い出を
生き生きと蘇えらせてくれた。

それはオルゴールを開ける時のように
流れてくるメロディーと共に
大切なものが現れる気がした。

レコードが黒いのは、傷やホコリが
発見しやすいからという。
傷つきやすいものだから、
漆塗りの工芸品のように
丁寧に扱うことが大事。

そうでなくても、レコードは、
子供の頃から、色んな欲しいものを
我慢して、お小遣いを貯めて、
やっと買えるものだった。

買ってきたレコードを
指紋のつかないように、こわごわと
取り出して眺めたときの
喜びは、言いようのないときめきだった。

どんな曲が入っているのだろう。
薄い一枚の盤の中に
込められた想いを、曲を、情熱を。
ただ一枚の黒いレコード盤が
昨日と今日とを隔てていく期待。

なかなか買えないものだから、
友人との貸し借りや、
録音してもらうことも多かった。

あるレコードを
友人が録音してくれたところ、
ずっとピンポン球を打ってる音が
バックに流れていたことがあった。
今も、その曲を聴くと、ピンポンの音も
一緒に思い出されるのがおもしろい。

全曲が終わると、スーッと針が
流れて終わる。

レコードの始まり、終わり、の一瞬の間。
余韻。静けさ。感動。
ゆったりとした時間。
無駄といえば
無駄のような時間だけれど、
そこに何かを思う、感じる、
ということを学習していたような気もする。

様々なものがデジタル化され、
隙間も、無駄も、小さくたたんで
片付けられ、
急ごう、急ごう! と走り抜けてきたけれど。

そろそろ立ち止まって、
思い出も振り返ったり、
好きだった時間をもう一度取り戻したりする。

そんなことも、案外、楽しい。
そう思うのは、歳をとったから、と
笑われるだろうか。

母は、ふたが外れて
音も途切れ途切れにしか鳴らなくなった
呂色のオルゴールを、
今も大切にしていて、
時に取り出したりしている。

もう二度と買えない
愛しいものは、
人生の宝物だと思う。

これからはそんな買えないものを
ひとつひとつ増やしていくのも
人生の楽しみかもしれない。

幸せの鳥の色。

鶸(ひわ)色は、
黄色みの強い黄緑色。

日本では古くから知られる冬鳥、
ヒワの羽の色にちなんだ色名だ。

ヒワは、
冬に大陸から日本へとやって来て、
季節を知らせる渡り鳥。
その鮮やかな羽色は、
枯れた冬景色を彩る美しい鳥として、
愛されてきた。

冬に光をもたらすような
明るく爽やかな色、鶸(ひわ)色。

残念ながら、私は
ヒワ鳥を見たことがない。

ただ、ありがたいことに
ネットで検索すると、
その姿を遠い森まで行って、
やっと会えたかのように
見ることができる。

小さな体をふっくらと
ふくらませて鳴く
無邪気で愛らしい姿。
いつか、本物を見てみたいと思った。

年末に、またひとつ歳を重ねた。
何の節目という訳でもないのだけれど、
来し方を振り返ってみた。

生まれた街から始まり、
進学、就職、結婚、転勤で
移り住んだ街や
旅に出た街、出張で訪れた街など、
そこで心に残ったシーンを
パズルのピースのように
組み合わせると、
小さな自分だけの地図ができた。

様々な街に行った。
たくさんの人に会った。

いいことばかりではなかったけれど、
どこかに行かなければ、
誰かに会わなければ、
私の地図は、真っ白のままだったろう。

メーテルリンクの「青い鳥」は、
チルチルとミチルが
青い鳥を探して、
あちこちと冒険し、
結局、見つけることができず、
朝、目覚めた自分たちの家にいた。
というお話だったと思う。

幸せはいつも自分の内側にある。
という学びとともに、
じっと家にいたままで
外の世界を知ろうとせずにいたら、
何も見つけることができない。
本当の意味で「知る」ことができない。
怖いけれど、勇気と好奇心を持って
冒険に出る大切さを教えてくれた。

いくつになっても、
何になっても、
自分の目で見ること、
探すこと、思うこと。
そのことが、確かなものを
知る力を与えてくれる。

まだ見ぬ未来は、
私の持つ地図に描かれていない。
ひとつひとつ、私が歩き、出会い、
手にとって作っていくもの。

幸せの鳥の色を自分で
確かめにいくのだ。
鶸色の山や森や野原を、
明るく爽やかに歩いて行こう。

もしかしたら、ヒワ鳥たちが、
森の中から
ひっそりと見ていてくれるかもしれない。

たとえ幸せの鳥を
見つけられてなくても、
目を凝らし、耳をすませて、
探していけば、
「こっちだよ」
と、鶸色の小さな灯りが
ささやかに、でも暖かく
待っていてくれる気がする。

それを見つけた感動を
発信することで、
また、誰かの心に
灯りをともすことができたら嬉しい。

まだ見ぬ灯りを夢見て、
今年も撮ること、書くこと、
探すことを、続けていきたい。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ヒミツが噴き出す思い出色。

くすんだ淡い青緑、
緑青色(ろくしょういろ)。

箸置き

飛鳥時代、仏教とともに、
中国から伝来したという
緑系の代表的な伝統色だ。

古くから日本画の顔料として、
また、神社仏閣などの建築物や彫刻の
彩色にも用いられてきた。

浅草寺

先日、とある街の文化館で
昭和の懐かしい品々の展示を見た。
何より目を引いたのは、
ガリ版(謄写版)の一式だった。

ガリ版

小学校の頃の文集は、
全てこの印刷方法で作っていた。
道具には、緑青の色が見られて、
あぁ、これだ!
と、嬉しくなった。

ソノシート

文集作りが好きだったという
記憶はないのだけれど、
その作業が終わらず、放課後遅くまで
残っていた記憶がある。

真っ暗な校舎。
先生方の雰囲気も、どこかリラックスして、
昼間よりも親しみをこめて、
話しかけてくれた気がする。
ある先生が引き出しから出して
「内緒よ」とくれたのも、
緑青と黒色の飴で、ハッカの味がした。

木馬

暗くなった校舎は少し怖くて、
いっしょに作業する友達とは、
身体も心の距離も昼間より近くなり、
作業しながら、
たくさん内緒の話をした。

いくつもの内緒が、
ひっそりとふえる時間。

有刺鉄線

それは、誰にも言わないままに、
記憶の器に大切にしまわれて
ふたをされて、
今はもう、開けることはできない。
誰かに訊いたり、思い出すこともできない。

井戸

けれど、その記憶の器から、
ふきこぼれるような思い出が、
美しい顔料となって、
胸の中を嬉しく楽しく包んでくれる。

石像

そんなふうに、誰もが、
折々に取り出したり、
もう開けたくないとそのままにしたり、
あるいは存在すら忘れているような、
さまざまな記憶の器を
持っているのではないだろうか。

表参道

銅製品の青緑のサビをさすときに
「緑青(ろくしょう)をふく」
と言われる。
そのサビもまた、顔料になるのだという。

苔

どんなふうに置かれていても、
記憶は、心の一部となって、
時おり噴き出して
人の想いに、表情に、表れるのだと思う。

椿山荘

「サビ」は時間がつくるもの。
自分の中のサビが深く、味わいのある顔料となって、
見る人、出会う人に、
やさしい一滴の色を贈れるようになりたい。

勝ちたい想いにそえる色。

勝色(かちいろ)。
日本に古くからある、
深くて濃い藍色だ。

青森

名の由来は、染め物から。
藍を濃くしみ込ませるための、
布を叩く作業を「搗つ(かつ)」と言った。

鎌倉時代には、
この「搗つ(かつ)」が「勝つ」に
結びつくと、武士に好まれ、
武具などに多く用いられたのが
「勝色」の名の由来とされている。

小田原城

いざ勝負! という時に「勝ち」に
つながる何かを持ちたくなるのは、
昔も今も変わらないのかもしれない。

受験シーズンに
「勝ち」にちなんだお菓子を
食べたり、贈ったりするのも、
そういうことなのだろう。

ジェットコースター

私の学生時代にも、
そんなお菓子があったのだろうか。
あれば買っていたのだろうが、
食べた記憶がない。
もう四半世紀よりも、もっと昔のことになる。

受験で大阪に向かう日、大雪だった。

水たまり

駅まで遠いので、
前日に頼んでおいた
タクシーの運転手さんが、迎えの時刻に、
「車が出せない」と走ってやってきた。
雪に足をとられ、とられ走る、
運転手のおじさんの服の色は、濃い藍色。
それは、やや敗色がかった勝色だった。

もう間に合わない。
ダメなのか…と心曇らせたところ、
父が、雪の中から車を出して、送ってくれた。

雪景色

駅までの不安な道のり。
黙りこくった私に
「あかんと思ったら、なんでもあかん。
できる思ったら、なんでもできる」
父はそう言って笑った。

夜明け

間に合わないと思った列車には、
ギリギリながら間に合い、
ほら、大丈夫だったろう! と、
車から降りて、笑って見送ってくれた。

しかし、父もあわてていたのだろう。
陽気に手をふってくれたその足もとは、
雪に埋まってしまうサンダルで、
羽織ったカーディガンも
薄手のものだった。

由良川

あの時の、タクシーに乗れない…
もうダメだ、という気持ちと。
そこから、よし行くぞと決めて、
父の笑顔にもらった安心感と。

何かに負けそうな時は、
その二つの気持ちを思い出す。

ダメになりそうな時も
敗色を思うのではなく、
勝つと信じる。
勝色を想う。

明日館

武士のような勇ましさはないけれど、
あきらめない気持ち。
こつこつと叩かれてしみこんだ
勝色をにじませるしぶとさを持って。

この時期、身を縮ませて
テキストを抱えている受験生を
街で見かけると
皆に良い春が来ますように、と願う。

ジェットコースター

寒いけれど、澄んだ青の空。
辛い時も、耐えて、こらえていけば、
心に描く青がうんと深くなる。
その色こそが、
勝色だよ、と、教えてあげたいと思うのだ。

ふっくら丸い夕暮れの色。

寒さに背中も丸くなる冬。
街で見かける雀たちも、
羽毛に空気を取り込んで
「ふくら雀」になって
寒さをしのいでいる。

ふくら雀

ふっくら丸いその色は、
赤みがかった茶色、
「雀茶(すずめちゃ)色」だ。

東京駅

冬のこの時期は、
空気も澄んで、夕暮れ空が
とても美しい。
その夕暮れは、
雀色時(すずめいろどき)
とも言うのだとか。

日本家屋

はて、雀の色をしていただろうか…。
とも思うけれど、
雀の色は、誰もが知っているのに
いざ言葉で表そうと思うと、
おぼろげで、どんな色かと
表現できない…。
そんな曖昧で、
ぼんやりしたところが
夕暮れの空のイメージに重なることから
その名で呼ぶようになったのだと言う。

丸の内

確かに夕焼けの色は、
表現しようとすると、
どんどん色を変えてゆき、
言葉が色に追いつかない。

そして、
夜の闇に吸い込まれる直前は、
雀の色のような
ほの赤く暗い茶色の時がある。

丸の内

言葉にできないものを、
ほら、できないでしょう?
というものに表現してみせた
昔の人の心の使い方を
すばらしいと思う。

バイオリン

今年も、
ニューイヤーコンサートに出かけた。
新年らしく、ワルツにポルカ。
心躍るひとときだった。

とりわけ今回心惹かれたのは
バイオリンの表情豊かな音色。
あの小さな楽器から放たれる音が、
軽やかに、時に重厚に
肩にとまったり、
全身を包み込んだり。

銀座マリオン

その様子は、
木の枝にとまる雀たちのように思われた。
仲間と歌い、笑い、おしゃべりし、
ぱーっと飛び立って行ったり、
風にのって、ふわふわ飛んでいたかと思うと、
静寂の中、じっとこちらを見つめているような。

雀

これもまた、
言葉にできない感動で、
曖昧な雀色に
心を染められたような時間だった。

何に出会ったとしても、
見ようとしなければ、見えない。
聴こうとしなければ、聴こえない。

神田川

曖昧でも、表現できなくてもいい。
まずは感じてみよう。
そこから、発見や
喜びが生まれる、そんな気がする。

昔の人が「雀色の時」という名を
夕暮れに当てて、
しみじみとそうだな、と思ったように。

根津美術館

春は遠いけど、確実に進んでいて、
新しい気づきや喜びは、
土の中で
芽吹く時を待っている。