みっつの、しろい贈り物。

初めて感動した写真集は、
プリンスエドワード島」。
友人からのプレゼントだった。

素色(しろいろ)は、
天然のままの絹の色。
繭から取り出したばかりの生糸の色で、
これを漂白して、白色になると言う。

サブタイトルが、
「世界一美しい『赤毛のアン』の島のすべて!」
というプリンスエドワード島の写真集は、
子供の頃から憧れていた島の、
四季折々の景色がたっぷり見られた。

雄大な緑の景色に現れる、
建物や花の、まぶしい白。
とりわけ心惹かれたのは、
島をまるごと白い世界に
染めてしまう雪景色だった。

何度も何度も見ているうちに、
島を訪れることはできなくても、
私もこんな景色を撮ってみたい…。
そう思うようになった。

数年後、操作もカンタンな
コンパクトカメラを入手して、
撮ったものをSNSに載せるようになった。

その年に、
あすのとびら
という写真集を
別の友人が贈ってくれた。
ページを開くと
怖いほど美しいオーロラと雪景色。

凍える寒さに包まれる雪世界の写真は、
澄んだ美しい空気も感じられた。
それは、私など絶対撮れない景色。

行けないところばかりある。
できないことばかりある。

ちょっと、そんなふうに
すねていた時期でもあった。

その本は、写真詩集。
眺めていると
夜明けの雪景色に、心に止まる言葉があった。

「あるがままのじぶんをうけいれて」。

素色の「素」には、
「ありのまま」の意味がある。

素顔、素直…
「素」には、歳を重ねて、どこかに
置いてきた色があるように思われた。

その後、
カメラを買い替えたり、もらったりして、
ちょっと機能性あるものも使えるようになった。

そんなとき、また別の友人から贈られたのが、
白い表紙が美しい本、
愛の詩集」だった。
初めて「この人の撮る写真が好きだ」と、
写真家について調べ、
その人の作品を次々に鑑賞した。

遠くに行けなくても、
いつもの街、少し離れた場所で、
はっ! とする写真は撮れるのだと
教えられた。

そして、
こんなふうにはなれなくても、
こんなふうになれたらいいな、
と、ブログを始めることにした。

三冊の本は、
やさしい友人たちが、
それぞれ別の時、
別の想いで
贈ってくれたものだった。

受け取った時は
ただの点と点、
バラバラに存在していた。

けれど、何度も眺めているうちに、
それらの点がつながり、美しい丸となって
私を静かに動かしてくれた。

「素」には、「根本になるもの」の意味もある。
私の根本、土台となる三つの出会い。
贈ってくれた友人たちに、心から感謝したい。

受け取ったのは、ものだけではない。
言葉や、視線や、想いなど
目に見えないものが、
私に色を与えてくれたのだ。

振り返ると虹のような景色に見える。

今年も、もうすぐ暮れようとしている。
日々を後ろへ、後ろへと見送って、
虹のように鮮やかだった日々も
少しずつ消えようとしている。

消えてしまっても、
残した写真と
その時々の想いは残る。

年々、経験を重ねても、
素朴な色を忘れずに。
色を重ねても、
素である、自分の天然の白い色を
失わずに行こう。

新しい年を楽しみにして。

静かな聖夜に届くもの。

「残業せんと、早よ帰って。
 今日は、クリスマスやから」。
出先からの上司の電話に、
予定はないと答えられなかった。

琥珀(こはく)色は、透明感のある黄褐色。
ウィスキーや蜂蜜、水飴の色としても
よく知られている色だ。

独身、一人暮らし。
心躍る予定のないその日、
クリスマスでにぎわう街に
一人出かける気にもなれず、
「先生」と呼ぶ、
経理の女性と二人で帰った。

まっすぐ帰ると言う私に先生は、
「若い子がデートの約束もないの!?」
と、驚き、なぐさめ、
市場で、カゴひと盛りの
おいしそうな海老を買ってくれた。

狭い台所の部屋に帰り、
たくさんの海老を塩茹でにした。

こたつの上にドン! と置いて、
殻をむいて食べる。
…おいしい!
予想を上回るおいしさに、
一人黙々と食べていた。

そこに電話。
「あ、いた!」
学生時代の友人が
「今から、プレゼント届けにいく」と
突然の訪問予告。
海老はもう殻だけになって、
何もないことを言うと、
あきれながら「いいよ」と笑う。

しばらくすると、ノックする音が聞こえ、
玄関を開けると、友人が
ラッピングされたバラ一輪を口に咥え、
フラメンコのポーズで立っている。
その隣に、友人そっくりの弟くん。
免許のない友人を乗せて
クリスマスの夜、
わざわざやってきてくれたと言う。

ケーキもご馳走もなく、
こたつにお茶、という殺風景な我が部屋。
けれど、二人がやってきて、
わいわいおしゃべりしていると、
気分が華やいだ。嬉しかった。
誕生日プレゼントを持ってきてくれたと言う。

私の大好きなイラストレーターの
ポーチとマグカップ。
そして、買った時に、
おまけにつけてもらったという、
さっき咥えていた一輪のバラも添えて。

いろんな喜びで胸がいっぱいになって
何かお礼をしようと、
どこかに行く? と誘うと、
弟くんの次の予定があるから
すぐに帰ると言う。

その日、寂しがっているのを知っていたかのように
プレゼントを持って、現れ、笑わせ、
心に灯りを点して、帰る。
二人は、まるでサンタクロースとトナカイのようだった。

にぎやかなクリスマスもいいけれど、
あの日、静かに過ごしていなければ、
あんな驚き、弾けるような喜びは、
得られなかったかもしれない。

なんとなく出かけていたら
クリスマスのにぎやかさに、
余計寂しくなっていただろう。

先日、食器棚を整理していて、
その時にもらったマグカップを見つけた。
ちょっと欠けてしまったけれど、
あの日の嬉しさを思い出すと、
どうしても捨てられなかったのだ。

琥珀は、太古の樹脂類が土中で石化した鉱物。
何千年の時を経て現れ、宝石となる石の色だ。

静かな師走の夜、懐かしい思い出が
何かの拍子に、こぼれるように現れる。
光に透かしてみると、
思い出が溶けて、胸を熱くする。

クリスマスのイルミネーションが
今年は見られた。
昨年見られなかった分、
まぶしいほどに煌めいていた。

華やかな思い出も、
静かでやさしい思い出も、
私の中で地層のように重なっていて
今の自分を作っている。

にぎやかさに笑う時もあれば、
その中で、静かに耳をすます時もいい。

どちらも、琥珀色に輝くクリスマス。

今年も、静かに過ごすことになりそうだけれど、
健やかであることに感謝し、
心穏やかな未来が来ることを祈ろう。

いくつになっても、
サンタクロースはやってくる。

流れつづける糸のように。

今年は二度、
滝を撮りに行った。
勢いのある水が、
段差のある下へと落ちて流れる。
その姿は、
汚れのない白い絹糸が、
まっすぐに、時に風に煽られながら
美しい流れを作っているように見えた。

生絹(すずし)の色は、
白い絹糸の色。
生絹(すずし)とは、まだ練らないままの絹糸、
生糸(きいと)のことをいう。

滝を見るのが好きだ。
変わらないように見えて、
実は一滴たりとも、
同じ水が同じ場所に流れていない。

勢いがあって、清冽で、
眺めているこちらの心の中の
澱までも流されていくような思いになる。

つらいニュースに心が重くなった日には、
勢いよく流れる滝を思い出す。
嬉しいことがあった日には、
光を浴びて輝く流れを思い描く。

滝を見つめていると、
自分はここから湧き出て、
この下に落ちてゆくのだ。
という強い意志を感じる。

どんな邪魔が入ろうとも、
突き進んでみせる勇姿にも似て。

続けていくことで、汚れ、濁ることもある。
けれど、次々に湧いてくるものが清らかであれば、
それらは洗い流される。

流れていた生絹(すずし)は、
激流に呑まれ、時間に揉まれ、
やがてしなやかな絹糸になって、
遠くの川や、海を、
空の色に似た
美しい絹織物にしてくれるのかもしれない。

今年は、時間も暦も季節までもが
勢いよく、流れ去って行った気がする。
光や水のようにつかんだつもりが、
何もつかめなていなかったような悔しさもある。

それでも、その中で、
始めたこと、愚鈍に続けたことがあった。

その一つが、
体力の低下を感じて始めた、筋トレ体操だ。
もともと身体を動かすことは苦手だった。
筋肉痛があったり、ちょっと体がだるい日など
やめたいな、という日もあった。
けれど続けていくうちに、
体力、筋力がついてきて、
あれを頑張ってる私なら大丈夫。
と、自信が持てるようになった。

それだけではない。
苦手なことを続けられる
自分への信頼ができた。

始めた当初は、
足も腕も思うような形にならない、
弱々しい筋力だった。
でも、今できることをやる。
続けてみる。
期待も落胆もなく、無理はせず。

すると、少しずつ、できるようになる。
身体が、心持ちが変わっていく。

それは、カメラを始めた時に感じた
自分にだけわかる小さな成長にも似ていた。

続けないと、行けないところがある。

今は小さな水滴にしか見えないこと。
それがいつか、少しずつ水量を増やし、
勢いを増して、やがて何かを起こすかもしれない。

今、ここには見えない、
遠いところ、遠い先の時間へ。
その景色を想像すると、広大さに圧倒されながら
ゆったりとした安心感に満たされる。

今日決めたこと、
今日行ったことは、
明日につながっていく。
やめないでいこう。

今は見えない未来は、
どこに流れていくのだろう。
どこに流れるとしても、
機嫌よく、明るくいられますように。

いろんな不安も心配も抱えたままでいい。
弛まなく流れていこう。

生絹の糸のように、
白く、強く、しなやかに。

ほっと、あたためてくれる色。

師走に入ると、
ツリーにサンタ、ポインセチア、と
赤い色があちこちで煌めいて、
街は一気にクリスマスムードが高まる。

洋紅色(ようこうしょく)は、
深く鮮やかな紅赤色。
江戸後期に西洋から伝わった色で、
別名は「洋紅(ようべに)」、
洋名は「カーマイン」という。

子供の頃、毎年クリスマスの時期に
アイスケーキをくださる方がいた。
そろそろ来られるかな?
という頃になると、
サンタの贈り物を待つようにして、
冷蔵庫のスペースを確保していた。

ある年、その方の贈り物を
慎重に冷蔵庫から出してきて
家族みんなで、さぁ、ケーキだ!
と、箱を開けたら
なんと、3段重ねの赤いボウルが出てきた。

がっかり…ではなく、大笑い。
ケーキとほぼ同じサイズ、重さの
しっかり冷えたボウルを
テーブルの真ん中に置いてみた。

選ぶのに苦心されただろうなぁ
と感心する父、
確認もせず冷蔵庫に入れた私、
楽しみにしていた兄と母。
ケーキはなかったけれど、
その年が、一番笑った
家族のクリスマスの思い出となっている。

実家を離れた短大二年の年末、
バイトの帰りが遅くなる予定の日、
下宿の門限十時に間に合わないので
友達のところに泊めてもらう約束をしていた。

携帯電話もなく、
下宿に電話もなかった時代。
深夜、友達の部屋の扉を開けると、
いるとは思わなかった四人の友達が
「遅い~っ!!」
と現れた。

酔って、眠そうにしながら
バタバタと冷蔵庫からケーキを出してきて
誕生日おめでとう!
と、ローソクをたてて祝ってくれた。

泥酔の一人が、
おめでとう!
と、抱きついてきたけれど、
千鳥足で、部屋の隅にあった
ゴキブリホイホイを踏んでしまい
大騒ぎになった。
その光景は、今思い出しても、
吹き出してしまう。

酔った仲間たちが眠ったあと、
部屋の主の友人と、
ケーキを食べながらおしゃべりをした。

集まってくれた四人は皆、
明日から帰省する。
私が今夜ここに泊まると知って、
こっそりパーティーを企画してくれたらしい。
それなのに、
待てど暮らせで帰らぬ私にしびれを切らし、
ちょっとだけ…と
呑んでいるうちに、
すっかり酔っ払ってしまったのだという。

寒い夜だった。
小さなこたつの中で
足がぶつかり、絡まりながら
眠っている楽しい仲間。
まだカーマイン色の口紅も似合わない
若さが、こたつの温もりで頬を染めていた。
全てがあたたかく、嬉しかった。

プランは完璧にいかなかったけれど、
クリスマスというと、あのドアを開けた瞬間の
驚きと喜びを思い出す。

予定通りに行くのが
大成功とは限らない。

今年は、
色んなことが思い通りにいかない一年だった。
けれど、そんな中にも思いがけない笑いはあって、
心をあたためてくれた日もあった。

先行きに灯りが見えない時は、
そんな瞬間や、遠い昔に笑ったことなど思い出す。

愛すべきことを見つけてみよう。

クリスマスのデコレーションの色は
景色を華やかにしてくれる洋紅色。
心に明かりを灯す暖かい色だ。

こんな時こそ、楽しめる瞬間を大切にしたい。
とびきりの笑顔で
まわりを明るくして、素敵な思い出にしたい。

どんな時も、必ずクリスマスはやってくるのだから。

まなざしの行方の色。

今年も残り少なくなった。
振り返ると、新しい出会いや、
久しぶりの再会を果たせたりと、
楽しい時間に恵まれた。

窃黄色(せっこういろ)は、
くすんだ淡い黄色。
窃は「ひそか」を意味する。
こっそり盗む「窃盗」にも
使われる文字。
あまり聞いたことはないが、
「窃慕」は、ひそかに思い慕うことを意味する。
「窃(ひそか)」は、
静けさを与える文字に思われる。

出会いの喜びとともに、
別れの悲しみもあった。

note」と言うSNSがある。
クリエイターが作品を発表する場だ。
作品が気に入ったら
他のSNSの「いいね」のような
「スキ」ボタンが押される。

私もそこに参加していて、
作品に「スキ」が押されると、
通知が来る設定にしている。

「スキ」を押してくれる人の中に、
Pさんという人がいた。
直接に会ったことはなかったけれど、
日々、目にするその名前に親しみを感じ、
自信をなくす時は力をもらっていた。

機会があれば、いつかお礼を言おう。
そう思いながら、
感謝の言葉ひとつ言わずに、日々が過ぎていった。

ところが先日、
Pさんが急逝されたと知らせる記事が
noteにアップされた。

パソコンの画面の前で、呆然とした。
その前日にも、Pさんは私の作品に「スキ」を
押していてくれていた。

いてくれるのが、
当たり前のように思っていたのに。
━━━ もう、会えなくなってしまった。

信じられない想いで、
Pさんのnoteのページを開いた。

Pさんは、note内の作品の中で、
気に入ったものを「お気に入り」と言う形で
まとめていた(マガジン機能という)。
Pさんの「お気に入り」を通して、
出会った人たちも多いと思う。

「お気に入り」はvol.9まであった。
その中でvol.1である「お気に入り」を
開いてみた。
2014年、noteのサービスが
スタートした頃のものだ。
当時、作品を頻繁にアップしていて、
今もいる人、いない人たちの作品を
久しぶりに楽しむことができた。

あぁ、まとめておいてもらったおかげで
こんなふうにnoteの歴史を楽しめるのだ、
と、懐かしく、しみじみとした想いで眺めていた。

すると、その中に、
今となっては恥ずかしい、
五年前の自分の作品を見つけた。
あ!
と、手で口を塞ぎ、恥ずかしさに
笑いそうになったのと同時に、
涙が止まらなくなった。

忘れていたけれど、
こうして、暖かい眼差しで見ていてくれた人がいた…
ということが、たまらなく嬉しかった。
と、同時に、
もう会えないのが悔しく、悲しかった。

Pさんの「お気に入りマガジン」で、
最後に選んでくれた私の作品は
これだった。

タイトルは「そのまなざしの行方」。
サブコピーは
「どこにいても見つめるのは、未来と自由」。

ほら、自分でそう言ったのだから実行しようよ。
そう語りかけてくれている気がした。

もう話す機会はない。
けれど、
心の中でひそかに話すことはできる。

Pさんだけではなく、
会えなくなった人みんなにもできるはずだ。

秋が終わったのに、今年はまだ
晩秋の窃黄色が街のそこここを色付けている。
それは、命の色にも見える。

色あせても、やわらかく静かに
毎日、毎分、毎秒、生きていることの
強さ、喜びを感じる木々の葉。

枯れて落ちることを受け止めながら
私も精一杯努力を続けよう。

会えなくなった人にも
胸張って笑えるように。

来る年も「未来と自由」を見つめて
前進していこうと思う。

クリスマスプレゼントは、何色?

毎年、この時期になると
街を彩るイルミネーションに
心躍る。

山吹茶(やまぶきちゃ)色は、
金色に近い、茶がかった黄色。
クリスマスツリーや
イルミネーションにも見られる
この色、キラキラと光を反射して
金色に輝いて見える。

子供の頃は、クリスマスの朝、目がさめると
枕もとに包みがあった。
それはサンタさんからのプレゼント。
小さなぬり絵帳一冊でも嬉しいものだった。

サンタクロースがいないとわかったのは、
小学二年生のとき。
暮れで忙しい母が、本屋さんに
週刊少女漫画誌を電話で注文しているのを
聞いてしまったからだ。
「あ、それなら月刊の方にしてほしいのに…」と
思ったことも、懐かしい思い出だ。

忘れられないクリスマスプレゼントは、
高校生の時、好きな人からもらった
ドナルドダックのぬいぐるみ。
白いふわふわのヒップがとても可愛くて、
汚れないように大切にしていた。

けれど、そのプレゼントをもらって
数週間後には、ふられてしまった。
残ったぬいぐるみに罪はなく、
その後もずっと大切にしていた。

二十歳を過ぎて、社会人になり
一人暮らしの部屋に、
友人と、友人の幼い甥っ子が遊びに来た。
おもちゃ代わりにと渡した、
ドナルドダックを甥っ子くんは
とても気に入って、
持って帰りたい…と、泣いた。
その時は、思い出のものだから、と
あげることはできなかった。

「連れて帰りたい~っ!」
という、泣き声が耳に残った。
欲しいものを、欲しいと言って
泣けるのは、ちょっと羨ましかった。

素直さに嫉妬したのかな?
と反省し、もう大人なんだから、
思い出のぬいぐるみなど、
甥っ子くんにあげようと決めた。

プレゼントをもらった時の喜びも、
いつの間にか過去のものになっていた。

遠い日の想いと埃を、
払い落とした人形が
すっぽり入る紙袋を探し、
少し特別なプレゼントぽく
山吹茶のリボンをつけて
友人の家に届けた。

後日、
「おにんぎょう、ありがとう。だいじにします」
と、かわいいイラストを添えたハガキが届いた。

贈られたプレゼントを、別の人に贈り、
またちがうプレゼントを受け取ったのだった。

これまでもらったクリスマスプレゼントは
どんなものがあったかな?
と、思い巡らせてみた。
たくさんあるはずなのに、
それほど思い出せなかった。

毎年あった特別な時間、楽しみが
流れる時間に溶けていて、
うまく浮かび上がってこない。

それでも「クリスマス」という言葉は、
ケーキのように甘く、
ツリーのように輝く。
いくつになっても、幸せな時間を
期待する特別な響きだ。

クリスマスは、私の誕生日でもある。

私には、当初決まっていた別の名前があった。
出生届の締め切り日に、
その名を父が役所に届けたところ、
漢字一字が当用漢字になくて、
却下されてしまった。

そこで父は、かつて好きだった人の
名前を私につけることにした。
きっと、そんな人になって欲しいという願いも
込められての、人生最初のプレゼントだった。

父が好きだった人も、ご両親からそのプレゼントを
受け取り、健やかに育ち、周りの人に楽しい時間を
贈ってきた人なのだろう。

プレゼントは、贈り、贈られて、喜びが広がってゆく。
その景色や、プレゼントにかけられたリボンが
山吹茶色に輝くのが、クリスマス。

今年もその日が、とびきりの美しさに煌めきますように。

光あつめる真ん中の色。

雲居鼠(くもいねず)色は、
白に近い、明るい灰色。

「雲居」とは、雲のあるところ、
遠く、高く離れているところのこと。
こうした意味から、
雲の上の人や所、
つまり宮中をさす言葉とされていた。

あちこちで、色鮮やかに街を彩る
イルミネーションが見られる季節になった。
雪の多い街に育ったからか、
白く輝く光には特に心惹かれる。

赤、緑、青の三つの色は、
「光の三原色」という。
この三色の重ね方で、色が変わる。
そして、三つの色を重ね合わせた
一番明るい色が白になる。

人も、自分以外の人たちに会うことで
様々に色を変え、
最後は、重ね合わせた
色の中心である白になるのだろうか。

たくさんの色に混じって、
真ん中にある自分、
それがきっと自分の核、
本当の部分なのかもしれない。

日々揺れる感情の中で、
濁った目や心が
会えたことで、
さっぱりと洗われるような
思いにさせてくれる
友達がいる。

ただ会えることが嬉しく、
たくさん話し、笑って、
そのことで
嫌な感情も吹き飛んで、
あぁ、会えてよかった!
と、思えることの幸福感。

今年もたくさんの再会があった。
待ち合わせる時は、
様々な思い出が彩り豊かに蘇り、
心ときめいた。

そんな思いがあふれて、
会った瞬間、発光するような
喜び、笑顔が生まれた気がする。

再会は、
偶然だけでは叶わない。
努力の賜物と思うようになった。

毎日、出会っては、別れる。
帰ってくる人もいるが、
去っていく人、
巣立って行く人もいる。

距離が遠くて会えない人も、
距離は近くても会えない人も、
会える時間を作ってでも会いたい人との
距離は同じのような気がする。

その人に会う時間を
作ろうとするところから
再会は始まっている。

誰かを大切に思う気持ちを
あたためながら、味わいながら、
日常の面倒なことも、
少し腹の立つことも、
縦にしたり、横に置いたりして
整理しながら、
その日、その時を、楽しみに待つ。

好きな人たちに会う楽しみは、
遠い空の雲を仰ぐ気持ちに、
ちょっと似ている気がする。

「雲居」という言葉の意味を思いながら、
昔の人たちは、
その色を身にまとう時
どんな心持ちだったのだろうと
思いを馳せる。

ひととき、雲の上のような人たちに
近づくような誇りと喜びを
持っていたのではないだろうか。

好きな色を身にまとう。
誰かに会うために、
好きな自分に会うために。

雲は遠いけれど、
いつも当たり前のように空にあって
私たちを見下ろしている。

来年は誰に会えるのか、
どんな楽しみが待っているのか
知ってるような明るさで。

新しい色、毎日現る。

唐茶色(からちゃいろ)は、
浅い黄みを帯びた茶色。

「唐」には、
「舶来の」という意味の他に、
「新しい」「美しい」の意味もあるのだという。
つまり、唐茶色とは、
新しい茶色、美しい茶色のことなのだ。

カメラを買って、一年が経った。
あれもこれも勉強しようと、
買ったテキストは、まだ読めないまま、
ただ撮ることに夢中になって
月日が流れてしまった。

一年の終わりに猛省している。
来年こそは、と、もう来る年への
誓いと願いを始めたりしている。

まだ十二月になったばかりだというのに。

街にはあちこちにクリスマスツリーが
見られ、輝くツリーのオーナメントにも
唐茶色のものが見られる。
煌びやかな飾りは、
子供の頃の憧れ。

うちにクリスマスツリーなどなかったけれど、
秋に野山で遊ぶとは、
木の実を拾って帰ったものだった。

痩せた栗の実などを
糸を通して、リボンをつけて、
カバンの飾りにしていた。
ささやかなクリスマス気分だった。

飾りにもできなかった
痩せていびつな木の実は、
ケーキの飾りといっしょに
小さな小箱にしまった。
箱を開ければ、
いつまでもクリスマス気分を
味わうことができた。

年の暮れは、家業も忙しい時期でもあり、
特別に家族で何かパーティーらしき
お祝いをした記憶はない。

けれど、年末のざわざわとした雰囲気と、
キーンと冷えこむ空気、
ケーキのろうそくを消した時に漂う
甘い匂い、
ストーブの火のチロチロと消えそうな色。

時系列は、散らかったカードの
ようにバラバラになっているけれど、
どの記憶も褪せない大切な思い出だ。
一つ一つ異なり、
一瞬一瞬が、
現れては消えていくお茶の湯気のように
体と心をあたためてくれるものでもある。

同じクリスマスでも、
同じ思い出にならないように、
人生に同じ瞬間は、ない。

心惹かれるシーンに遭遇したのに、
あ、撮り逃した!
と思うたびに、カメラもそう教えてくれた。

去年撮った写真を見てみると、
どう撮ればいいのか、
撮ったものを、
どう画像処理したらいいのか、
わからない。
「けど、撮りたいのっ!」
という自分が垣間見えて、おかしくなる。

ただ夢中で、
いい瞬間を捉えたくて、
何枚同じ写真撮ってるんだ…
と我ながら呆れるほどに撮っては、
一枚ごとに喜んだり、落胆していた。

必死だったんだな、と
懐かしさに似た想いで
振り返る。

撮れば、どの瞬間も、
新しく、美しい。

呆れるほど大量の
今年撮った写真を見ながら、
一年後に、今より少しでも成長しているように願う。
そのために、またたくさんの
写真を撮ろう、撮りたいと思う。

新しい瞬間は、年末も新年も関係なく
もう始まっている。

月にお餅に、暮れゆく年の色。

月白(げっぱく)色。
月の光のような淡い青味を含んだ白色をさす。

雪景色

暮れも押し迫ったこの頃、
白といえば、思い出すのはお餅つきだ。
子どもの頃は年末になると、
ご近所数軒がお向かいの家に集まり、
石臼で餅をつくのが暮れの行事だった。

広い土間に石臼が置かれ、
蒸し上がった、あつあつの餅米を
おじさんが杵をうち、
おばさんが合いの手を入れ、もちを返す。

三和土

子どもたちは、つきたてのお餅を
小さな丸餅にする。
年長の子どもは、少し小さめに。
年少の子どもは、頑張って大きめに。
鏡餅は、大人の担当。
立派な鏡餅が作られていくのは
職人技のようで見ていて飽きなかった。

当時、年末というと、
雪が積もっていて、
餅つきが終わって外に出ると
とても寒く、白く、静かだったのを
覚えている。

青森

やわらかく美味しかった
つきたてのお餅は
翌日には、固く冷たくなり、
別物のように感じたものだった。

三が日を待たずに、
ひび割れがしたり、
カビがはえて姿を変えてしまう鏡餅。
鏡開きの日、切り餅にするのに
ひと苦労する母の姿も
懐かしいお正月の光景だ。

鏡餅

今はもうお餅をつくこともなく、
あの日餅つきをしてくれた人たちの
何人かももういない。

けれどこの時期、
寒い夜道を歩いていると、
あの日と同じ年末独特の静けさがあり、
月は、一所懸命丸めたお餅が
空に浮かんでいるように見える。
丸いお餅は、満月か。
そういえば、満月は、望月。
もちの月だ。

サンタクロース

丸いお餅のような月を見上げると、
餅米を蒸した湯気の
あたたかさ、
あの日わいわいと時を過ごした
近所のおじさんおばさんの
声が聴こえるようで、想いが和む。

日本家屋

日々は積み重なって、
思い出は遠くなるけれど、
記憶は消えない。

消えないばかりか、
ふと思い出した時に、
のどかな気持ちになって、
やさしく心をあたためてくれる。

私は思い出で、できている。

世界貿易センタービルディング

新しい年がやってくる。
お餅のように、満月のように、
淡い青色をたたえた美しい想いで
新年を迎えよう。
どんな色も受け容れられるよう
濁りを落として、迎えよう。

クリスマスツリー

そんな気持ちでいたら、
きっとまた、いい色に染まる。
心地良い色になれる。
そんな予感がしている。

皆様もよいお年を。

真っ赤なお花の贈り物。

紅の八塩(くれないのやしお)色。

調味料の名前のような、
小説のタイトルのような、
ネーミングセンスを感じる色の名だ。

色は、深みのある、真っ赤な紅色である。

八塩の
「八」は「多い」という意味であり、
「塩」は「入(しお)」とも書かれ、
「染め汁に浸す」ことを意味するのだという。

つまり、「八塩」は「何回も染汁に浸す」こと。
濃く、鮮やかに染められた紅花染めの色であるということを
その名で表現している。

混じりけのない紅色の濃染(こぞめ)は、
高価で贅沢なもの。
色合いも美しく、
平安貴族にも憧れの色として
珍重されていたという。

そして現代。
年末は、
平安貴族にも驚かれるかもしれぬほど、
鮮やかな紅の八塩色が街にあふれ、
きらびやかに光って街を彩る。
クリスマスの飾りに
「紅の八塩色」という名前は、
少し違和感もあるかもしれないが、
平安貴族でなくても、
現代人も魅了する
鮮やかで美しい紅色だ。

この時期には、
何気なく買ったものにも、
この色のリボンが飾られたり、
包みの色も、この色であったりして、
その華やかさから、
何か特別なものを贈るような、
贈られたような、
ささやかな高揚感を与えてくれる。

今年の最後の日々が、
この色に彩られて、
楽しい気持ちでしめくくれるとしたら、
それは、とても幸せなこと。

今年の記憶の最後に
この色を添えて、そっと見送る。
あぁ、美しい時間が過ぎてゆくなぁ、と。

ものでなくてもいい。
言葉でも、笑顔でも。
大切に想う気持ちに
濃く、あたたかく、
何度も浸されたような
贈り物は、
ぬくもりや、喜びが
きっと、相手に届くと想う。

寒い日が続く。
身体が固く、小さく
縮まってしまいそうな日には
楽しい時間や
笑ったことを思い出して
心の炎を紅く、紅く燃やして
あたたまろう。