染めて、守って、引き継ぐ色。

山形の秋は、関東よりも早く進んでいて、
吹く風は、キリリと冷たかった。

代赭色(たいしゃいろ)は、
黄色みの強い赤褐色。
「代」は、赤土の名産地、中国代州の地名から、
「赭」は、赤いものを意味する。

朝早いバスで山形に着いて、
まず訪れたのは旧県庁舎である「文翔館」。
復原された大正の洋風建築だ。
じっくりと見て回り、帰ろうとしたところ
「ガイドはいりませんか? 」。
と、矍鑠としたボランティアガイドの紳士に声かけられた。

見せたいもの、知ってほしいことが
この建物の中にはいっぱいあります、とのこと。
その明るさに、ワクワクするものを感じて、
もう一度見て回ることにした。

まず、一旦外に出て、その地形から
山形の歴史、街づくりの経緯を熱く語られる。
ほんのりとお国言葉が聞き取れて、
この地に来た嬉しさがこみ上げる。

建物内に入り、
施された装飾の意味、
復原に当たっての苦労について聞く。
触ることがためらわれた、
古い変わり窓なども全て開けて、
つくりについて説明してもらった。

建物に使われている煉瓦、
室内の暖炉、寄木貼り、家具。
そして、窓の外の木々の葉も枯れて、
秋らしい代赭色にあふれていた。
暖房もついていないのに、
どこか暖かい。
まるで代赭色に染める鍋に
放り込まれた気分になっていた。

ある部屋に山形の川に浮かぶ船の絵が飾られていた。
それを見て、
川が街の発展にどれほど大切だったかという話と、
ガイドさんの子供時代の川遊びの話を聞いた。
とてもおおらかで、楽しい話だった。

それは、
この建物でかつて働いていた高等官たちと
市井に生きる人たちと、
共に同じ山形という地で生きた人たちの話。

一人で来ていたら見ることもなく、
知らずに帰っていたエピソードまで聞けて、
驚いたり感心したりのひとときだった。

ちょうどお昼になり、別の場所に行きます、
というと、地図を出して、観光案内よろしく
あちこちの見どころを教えてくれた。
お昼は、ここがとってもおいしいです、と
うまいもの情報も。

また来てね、と
見送ってくれた笑顔は、郷土愛にあふれていて、
とても爽やかに、旅する背中をポン! と
押された心持ちになった。

その街にずっと暮らし、その街を愛し、
来る人を歓迎し、見送ること。
それを続けていく。

どんな大きな建物も、時が経てば、
少しずつ傷み、朽ち、弱っていく。
だから、丁寧に手入れし、守り、愛していくこと。
それを続けていく。

続けていく人間だって、時が経つと
老いて、弱り、いつか消えていく。
だから、伝える、愛情を育む。
そうすることで建物、文化、郷土愛は、
受け継がれ、守られていくのだろう。

ガイドさんが教えてくれたのは、
山形の文化であり、ご自身の郷土愛であり、
続けていこうとする情熱なのかな…
そんな気がした。

たくさん笑った後、冷たい風の中でも
頬がホカホカと熱く、火照っていた。
きっと、代赭色に染められたのだろう。

ところで、帰りに聞いたおいしいもの情報。
勧められたお蕎麦屋さんで、
あぁ、おいしかった! と、
満足し、改めて箸の袋を見ると、
なんと、おそわった店ではなかった。

あらら。と、思ったが、もう満腹。
また、山形に来なくては、と思った。

会いたい本に、出会う色。

長年使われて、表面が滑らかになった木に触れると、
小学校の図書館を思い出す。
書架、貸出カウンター、図書カードの棚…。
どれも木の手触りが、優しくて、心地よかった。

礪茶(とのちゃ)色は、赤みがかった茶褐色。
“礪(との)”は、刃物を磨く、
目の粗い砥石のことをいう。

流れた月日に磨かれたような、
礪茶(とのちゃ)色あふれる図書室。
ぐるりと三方にある大きな窓からは、
中庭の緑が見えて、明るく、吹く風も心地よかった。

ただ、全学年の本を網羅するには
狭すぎる書架に、読みたい本はなかった。

私の読みたい本はどこにあるのだろう?

そんなことを考えながら、
本に囲まれた空間にいて、
すべすべとした木に触れながら、
ぼんやりするのが好きだった。

中学、高校の図書館は、
ガリ勉と思われたくなくて
ほとんど行くことがなかった。

当時の日記を読むと、
くよくよしたり、イライラしたり、
支えになる言葉が見つからない苦しさに満ちている。

大阪にある中之島図書館に行ったのは、
短大二年生のとき。
立派な建物に気圧されて、
オロオロしながら、閲覧室の席に着き、
ふと顔を上げた時、ドキッとした。

斜め向かいに座っているのは、
校内で時々見かける、四年制大学の同級生。
人目を引くほど美しい男の子だった。
話したこともなく、相手は私のことを
知っているはずもないのに、見つからないように
隠れるほど、ドキドキした。

重厚で歴史感じる立派な建物、家具、設備、
周りは皆、洗練された人たちに見え、
さらにその同級生まで現れて、
念願の中之島図書館デビューの日は
緊張のあまり何をどうしたのか覚えていない。

その後、何度かその図書館も通い、
落ち着いて調べ物もできるようになった。
同級生の美しい彼とも、その後、
話す機会に恵まれ、会釈しあう友達になれた。
感じもよく、眺めのいい人だったけれど、
親しくはならなかった。

たくさんの人と友達になった。
失恋もした。
気づけば、いつも手もとに本があった。
悩む心、悲しい気持ちに、
しっくりと寄り添ってくれる言葉が
本の中にあった。

我ながら、よく読んだと思う。
けれど、読んだはずでも、
すっかり忘れてしまった本もある。

出会っても、親しくなる人、
深く関わることなく通り過ぎる人が
いるように、
本の出会いにも濃淡がある。

難しかったり、長編であったりして、
挫折しそうになりながら
意地になって読んだのに、
全く内容を思い出せない本がある。
その記憶は、どこに行ってしまったのだろう。

遠い日の夢のように、もう思い出せない本も、
ものを考えたり、言葉を発している時に
ひらひらと現れたりして、
私の中の一部になっているのだろうか。

心の中で砥石となって、
私の中の粗い部分を磨き、削り、
まろやかにしてくれていたら嬉しい。

どんなに素晴らしい本を読んでも、
そのようには生きられないように、
主人公の言葉を、自分の言葉にはできない。

けれど、感動は伝えられる。
伝えようとする時、言葉は自分のものになり、
誰かの力になることも知った。

小さな図書館から始まった本との出会い。
大人になり、欲しい本は買えるようになった。
それでも、やはり図書館は、
行きたいところに変わりはない。
本屋ではもう買えない、
出会うべき本が棚の中で待っている気がするから。

私の読みたい本はどこにあるのだろう?

そう心でつぶやく時、ぐるりと窓に囲まれた
礪茶(とのちゃ)色の心地よい空間が胸に広がる。

今できる、最高を求めて。

焦香(こがれこう)色は、
穏やかで落ち着きのある上品な茶色。

香木を使って、何回も染め重ね、
焦げたような濃い香色である。

木の色が好きだ。
その匂いも、手触りも。
懐かしく、優しい気持ちにしてくれる。

今年も、テーブルウェアフェスティバルという
食器やテーブルを彩る品々を
展示販売するイベントに行ってきた。

広い東京ドームを
友達とあちこち
興味津々見て回った。

心惹かれるものは多く、
吟味して、迷って、
結局、買えずに帰ることが多いのだけれど。

今回、気になるお店を
見て回っていると、
Rちゃんが、あ! と
驚くように手に取ったものがあった。
── miyazono spoon。
すでにそのスプーンを持っている
彼女いわく「ものみな、おいしくなるスプーン」と。

それは、スプーンをこよなく愛する職人さんが
「こんなスプーンがあったらいいな」を追求して、
手作りされたもの。
最高の口当たりを考えて創られた、カタチ、
厚み、触り心地なのだという。

すでに買ったスプーンが10本くらい買えそうな値段。
迷いに迷ったけれど、
一度はこのスプーンを口に入れてみたい!
という好奇心にかられ、思い切って買った。

当たり前のことだが、
そのスプーンで食べることで
ものの味が変わるわけではない。

けれど、口に入れた時に
ちがう「何か」を感じる。

その薄さ、角度、木の感触。
工夫を重ねられた違いを
唇ではっきりと知ることができる。

スプーンが好きで、研究され尽くした果てに
たどり着いた愛着の美、なのかもしれない。

焦香(こがれこう)色も、何度も何度も染料につけて
たどり着いた色。

「焦がれる」想い。
一途に、強く、そうなりたい。
望みを実現したいと心から願う想い。
その想いの結集した一つのスプーンが、
焦香色であるというのも
偶然ではないような気もする。

自分の好きなもの、愛するものを
とことん追求する。
そこに至るまで、妥協せずに
磨き続ける。
そうしなければ、掘り当てられない
「特別な何か」は必ずある。

それは、飽き性で、面倒くさがりの
私の憧れであり、目指す境地でもある。
人生の後半戦、どこまでそれを
追求していけるだろうか。

先のことはわからない。
ただ、好きという気持ちを
喜びにし、励みにしながら、
没頭していくと、
「特別な何か」に
たどり着くことができると信じる。

迷った時は、この焦香色のスプーンで
美味しいものを食べてみよう。
「焦がれる」想いの秘密が
香るように、その秘密を
そっと教えてくれるかもしれない。

新しい色、毎日現る。

唐茶色(からちゃいろ)は、
浅い黄みを帯びた茶色。

「唐」には、
「舶来の」という意味の他に、
「新しい」「美しい」の意味もあるのだという。
つまり、唐茶色とは、
新しい茶色、美しい茶色のことなのだ。

カメラを買って、一年が経った。
あれもこれも勉強しようと、
買ったテキストは、まだ読めないまま、
ただ撮ることに夢中になって
月日が流れてしまった。

一年の終わりに猛省している。
来年こそは、と、もう来る年への
誓いと願いを始めたりしている。

まだ十二月になったばかりだというのに。

街にはあちこちにクリスマスツリーが
見られ、輝くツリーのオーナメントにも
唐茶色のものが見られる。
煌びやかな飾りは、
子供の頃の憧れ。

うちにクリスマスツリーなどなかったけれど、
秋に野山で遊ぶとは、
木の実を拾って帰ったものだった。

痩せた栗の実などを
糸を通して、リボンをつけて、
カバンの飾りにしていた。
ささやかなクリスマス気分だった。

飾りにもできなかった
痩せていびつな木の実は、
ケーキの飾りといっしょに
小さな小箱にしまった。
箱を開ければ、
いつまでもクリスマス気分を
味わうことができた。

年の暮れは、家業も忙しい時期でもあり、
特別に家族で何かパーティーらしき
お祝いをした記憶はない。

けれど、年末のざわざわとした雰囲気と、
キーンと冷えこむ空気、
ケーキのろうそくを消した時に漂う
甘い匂い、
ストーブの火のチロチロと消えそうな色。

時系列は、散らかったカードの
ようにバラバラになっているけれど、
どの記憶も褪せない大切な思い出だ。
一つ一つ異なり、
一瞬一瞬が、
現れては消えていくお茶の湯気のように
体と心をあたためてくれるものでもある。

同じクリスマスでも、
同じ思い出にならないように、
人生に同じ瞬間は、ない。

心惹かれるシーンに遭遇したのに、
あ、撮り逃した!
と思うたびに、カメラもそう教えてくれた。

去年撮った写真を見てみると、
どう撮ればいいのか、
撮ったものを、
どう画像処理したらいいのか、
わからない。
「けど、撮りたいのっ!」
という自分が垣間見えて、おかしくなる。

ただ夢中で、
いい瞬間を捉えたくて、
何枚同じ写真撮ってるんだ…
と我ながら呆れるほどに撮っては、
一枚ごとに喜んだり、落胆していた。

必死だったんだな、と
懐かしさに似た想いで
振り返る。

撮れば、どの瞬間も、
新しく、美しい。

呆れるほど大量の
今年撮った写真を見ながら、
一年後に、今より少しでも成長しているように願う。
そのために、またたくさんの
写真を撮ろう、撮りたいと思う。

新しい瞬間は、年末も新年も関係なく
もう始まっている。

匂い立つころを過ぎても。

滅赤(けしあか)色は、灰色がかった赤色。
「滅」は、色味を渋く抑えたトーンを表す。

あたりが輝くような華やかさ、艶やかさを表すとき、
「匂い立つ」という言葉が使われる。

「匂う」という言葉は、
もともと「赤い色が鮮やかに表われる」の意味をもち、
香りよりも色を表す言葉だったのだ。

そんな匂い立つような色から、
鮮やかさ、華やかさを取り去り、
渋みのある色にするとき、
和の色では、
この「滅」の字を当てている。

先日、学生時代からの友人と会った。
三年ぶりの再会。

ネット時代はありがたく、
何年会わなくても、互いの姿も日々のことも、
きちんと更新されている。
昨日会った友人のように話のつづきができるのも
不思議で、愉快なことである。

彼女は三年前よりも、さらに進化して
ジャズを歌うひとになっている。
歌う苦労も喜びも、
ひろがり、深くなっているようだった。

彼女の音楽への
愛の深さについて聴きながら、
学生時代のことを思い出していた。

二十歳前の年末だった。
彼女の下宿で
仲のいい友だち数人と
一晩中語り明かして
そのままこたつで眠ったのだった。

翌朝、バイトのため私は
早く起きなければならなかった。
静かに起きたつもりが、
彼女はもう起きていて、
ギターを静かに弾いて
近づくライブの練習をしていた。

ポロン、ポロンと
やさしい音とともに
「またね」と見送ってくれた。

数日後、彼女の部屋を訪ねると、
空っぽになっていた。
実家から通うことになり、
部屋を引き払った、とのことで
にぎやかだった空間には、もう何もなかった。

楽しい時間はそこにあったのに、
大好きなお友達は引っ越してしまった。
そんな置いてきぼりされた子どものような
気持ちで、部屋をながめていた。
ぽっかりと穴があいたような寂しさで。

ポロン、ポロン…
あの日聴こえたギターの音は、
時に寂しく思い出され、
今は、やさしく懐かしく思い出す。

あの音ひとつひとつを、彼女は大切に抱き、
離さなかったから、今、また歌うひとになったのだろう。

歌う彼女の口紅は、匂い立つ赤。

あの日、またね、と別れてから、
それぞれに色々なことがあった。

消してしまいたいことも、
消えて欲しくないことも、
両手に抱えて。
たくさん得ては手放して、
出会って、別れて、
いくつかの選択のなかで
残ったものを大切に握りしめて
今の私たちになったのだ。

匂い立つものは、
やがて褪せていくのだろう。
私たちも、学生時代のような
眩しい若さは失せている。

けれど、「とき」という風にふかれ、
若さゆえの乱暴さがゆっくりと研磨されて、
目には見えない香りや、
やさしい色の空気になって、
時に誰かを包んでいるのではないだろうか。

彼女とわたし。
それぞれに違う道にいるけれど、
別々の目指す道のなかで、
自分らしい色を、
歌にして、言葉にして、
より多くの人に届けられるように。

また会う時が、楽しみだ。

空っぽの木に咲く想い出の色。

卯の花色(うのはないろ)は、
空木(うつぎ)に咲く花、“卯の花”の色。
古くから、雪や白波にもたとえられてきた白をさす。

先日、骨折して入院した母を見舞い、
しばらく母の部屋で過ごした。
電話では元気そうだった母も、
最近は、思うように動けなかったのか、
部屋のあちこちにほこりが積もっていた。

食器棚を開けると、ころんだ時に折れた前歯が
大切に紙に包んでしまわれていた。
それを見て、
幼い時に歯医者さんで
診察を受けた日のことを思い出した。

いくつだったのか記憶にないけれど、
その日、恐怖に泣く私の治療中、
母が痛いくらい
力強く手を握ってくれていたのを覚えている。

いつも家族を心配して、怒って、
笑って、ちょっと毒舌だった母が、
今は、たよりなく病室のベッドで
天井を見て溜息をついているのは、
見ていて、どこか切なかった。

帰る日に、じゃあまた来るね、
と、手を握ったら、
いつのまにか細く小さくなった手は
私が握る手の力に、
弱々しく返してくれることしか
できなくなっていた。

月日は知らぬ間に、流れていた。

胸の奥にチクリと痛む切なさを抱えたまま、
次の場所へと移動して、
きっとぼんやりしていたのだろう。
思い切り前のめりに転んでしまい、
したたか顔をうちつけて
前歯が欠けてしまった。

ギザギザに欠けた歯を
舌で確かめると、
失くした痛みを
思い知らされるような
ざらつきがあった。

一本まるごと失くしたわけではないのに、
小さな一部分が欠けただけで、
心にも体にも痛みが襲ってきた。

卯の花は、小さな白い花が枝いっぱいに咲き、
夏の花ながら、雪のように見えるのだという。

たっぷりと白で覆われるその光景は、
健康な白い歯がのぞく口元にも似ている気がする。
それは、若くて元気だった父や母がいた頃の
私たち家族の姿にも重なる。

その後、私の歯は治療して、
元の形に戻った。
けれど、あまり固いものを食べてはいけませんよ、
と医師からアドバイスを受けた。
見た目は同じに見えても、
もう欠ける前の歯ではない。

母も、少しずつ老いてゆく。
何もかも、月日を重ねれば、
元の通りになるものはない。

卯の花の咲く空木(うつぎ)は、
枝の内部が空(から)であることから
「空ろな木=空木」と名付けられたいう。

母のいない母の部屋は、
物はあっても空っぽの空木のように感じられた。

そんな空っぽに感じられた部屋も、
片づけていると、
棚いっぱいのアルバムがあるのを見つけた。
母の子ども時代から、私たち家族の想い出まで
長く愛しい時間がぎっしりと詰まっていた。

そうだ、人は、生きる限り、
空(から)になんかならない。
今の気持ちも、いつか家族の想い出となって
力を与えてくれる。
そう思って、卯の花色の母のシーツを
お日様に干したのだった。

ふっくら丸い夕暮れの色。

寒さに背中も丸くなる冬。
街で見かける雀たちも、
羽毛に空気を取り込んで
「ふくら雀」になって
寒さをしのいでいる。

ふくら雀

ふっくら丸いその色は、
赤みがかった茶色、
「雀茶(すずめちゃ)色」だ。

東京駅

冬のこの時期は、
空気も澄んで、夕暮れ空が
とても美しい。
その夕暮れは、
雀色時(すずめいろどき)
とも言うのだとか。

日本家屋

はて、雀の色をしていただろうか…。
とも思うけれど、
雀の色は、誰もが知っているのに
いざ言葉で表そうと思うと、
おぼろげで、どんな色かと
表現できない…。
そんな曖昧で、
ぼんやりしたところが
夕暮れの空のイメージに重なることから
その名で呼ぶようになったのだと言う。

丸の内

確かに夕焼けの色は、
表現しようとすると、
どんどん色を変えてゆき、
言葉が色に追いつかない。

そして、
夜の闇に吸い込まれる直前は、
雀の色のような
ほの赤く暗い茶色の時がある。

丸の内

言葉にできないものを、
ほら、できないでしょう?
というものに表現してみせた
昔の人の心の使い方を
すばらしいと思う。

バイオリン

今年も、
ニューイヤーコンサートに出かけた。
新年らしく、ワルツにポルカ。
心躍るひとときだった。

とりわけ今回心惹かれたのは
バイオリンの表情豊かな音色。
あの小さな楽器から放たれる音が、
軽やかに、時に重厚に
肩にとまったり、
全身を包み込んだり。

銀座マリオン

その様子は、
木の枝にとまる雀たちのように思われた。
仲間と歌い、笑い、おしゃべりし、
ぱーっと飛び立って行ったり、
風にのって、ふわふわ飛んでいたかと思うと、
静寂の中、じっとこちらを見つめているような。

雀

これもまた、
言葉にできない感動で、
曖昧な雀色に
心を染められたような時間だった。

何に出会ったとしても、
見ようとしなければ、見えない。
聴こうとしなければ、聴こえない。

神田川

曖昧でも、表現できなくてもいい。
まずは感じてみよう。
そこから、発見や
喜びが生まれる、そんな気がする。

昔の人が「雀色の時」という名を
夕暮れに当てて、
しみじみとそうだな、と思ったように。

根津美術館

春は遠いけど、確実に進んでいて、
新しい気づきや喜びは、
土の中で
芽吹く時を待っている。

今年の落葉は、どんな色?

朽葉(くちば)色。
木々が落とす葉の色、
くすんだ赤みがかった黄色をさす。

枯れ葉から落葉へ。
落葉から朽葉へ。

そんな葉の移り変わりにも
目を向け、心を傾けて、
もののあわれを感じ、
王朝人がつけた伝統名、朽葉(くちば)色。

ひとくちに「朽葉色」といっても、
赤みが強いと「赤朽葉」、
黄色みが強いと「黄朽葉」、
このほかにも「青朽葉」もある。
その微妙な色の違い、種類の多さは、
「朽葉四十八色」と呼ばれるほど。

枯れ葉となっても
赤、青、黄色、
自らの色みを
残しつつ散るのだろうか。

そして、人も、
「自分の色」をとどめながら
朽ちていくのだろうか。

自分の色とは、どんな色だろう。
経験から、環境から、そして感情から
澄んだり、濁ったりしながら、
何色かにたどりつくのだと思いたい。

風に舞う落葉を見て思うのは、
「今年の落葉は、今年だけのもの」。

ならば、自分も今年だけの色があり
それが地層のように重なって、
独自の色が、ゆっくりと
にじみ出てくるのではないか…
そんなことを思った。

うまくいったこと、いかなかったこと。
喜び、悲しみだけでなく、
自分への怒り、苛立ち。
他人に向けられた濁った感情。
そのすべてが、枯れて、朽ちて、
自分の過去に重なり、土に還るように
「今年の自分」として、ひとつの層になる。

それが、どんなものであれ、
時の流れとともに、自分の心を培う
腐葉土になってくれればいいな、と思う。
それは、願いといってもいいかもしれない。

今はまだ、熱気のなかにいて
枯れるのを惜しんでいる
今年のわたしの葉。
それでも、暦に従い、
必ず枯れる今年の葉。

やがて、ながめたときに、
あの時の朽葉があったから、
今の幸福な自分がいる。
そう思えるように努めていこう。

朽葉色に染められる道を歩く。
かさこそと音がするのは、
今年もたくさんの葉に、
たくさんの日々に、
包まれていた証。
そう思うと、確かな手応えのようで
あたたかく力づけられる。

香りが放つ、やさしい色。

ものには、色があり、香りがある。
色が香りを思い出させてくれることもあり、
また、
香りが色を思い出させてくれることもある。

香色は、「こういろ」と読む。
黄みのかかった明るい灰黄赤色。
ベージュといえば、わかりやすいかもしれない。

その名も香り立つように美しいけれど、
平安時代はとても高価なものとされ、
あらたまった訪問の装いにも使われた色という。

この色が香色とされたのは、
木欄(もくらん)という香りのある樹の皮で
染められた色だから。

遠い昔の人たちも、
この色に包まれたときの記憶を、
匂いとともに思い出したりしたのだろうか。

匂いの記憶のはじまりは、
小学校の参観日。

母親たちが教室に入ってくると、
化粧品の香料の匂いが
教室中に充満した。
姿を見ないまでも、
匂いから親たちの視線を感じて
緊張したものだった。

あの時代独特のきつい香料のイメージが強くて、
二十歳を超えても、化粧する気になれなかった。

とはいえ、高校時代は、シャワーコロンが大流行。
安いコロンを盛大にふりかけて、
制服の汗臭さを隠したものだった。

体育のあとの更衣室は、
消臭スプレーとコロンの匂いが
室内いっぱいにたちこめていた。

大騒ぎしながら、さまざまな思いをこめて
シャワーコロンを何本も使い切った。

卒業式のあと、部屋にかかったセーラー服から
消えなくなったコロンの匂いがした時、
この香りも、制服も、終わってしまったんだな…
と、しみじみと眺めた。
寂しさがこみあげた。

今もその時の寂しさを思い出すと、
ほんのりとあの香りが鼻腔によみがえってくる。
柑橘系の若い香り。

香りは、体内に残された写真のように
その日、その時のシーンを生き生きと
思い出させてくれる。

今日の記憶はどんな香りになるのだろう。

誰かが私のことを思い出してくれる時、
鮮やかでなくてもいい、
やさしい、この香色のような記憶が
ほんのりよみがえるような、そんな存在でいたい…
そう願う。