多分、蒼い。

蒼色(そうしょく)は、
少し暗い青緑色。

蒼(そう)には、
「あおい」という意味もあるが、
「草木が茂る」という意味もある。
生い茂る草木の様子を表すときに、
「鬱蒼(うっそう)」と表現するように、
和の色では「蒼色」は緑系の色とされてきた。

夏の終わりに、両国国技館まで
大相撲を観に行った。
毎場所、テレビ観戦を楽しみにしていて
いつかは国技館で…と
強く願っていた観戦が実現したのだ。

しかと見届けたいと、
家にある一番よく見える双眼鏡を用意した。
緑色のその双眼鏡を見た友人が
「房と同じ色だ」と言う。

房?
と、きょとんとする私に、
友人が“房”について説明してくれた。

土俵の上に吊屋根があり、
その四隅、東西南北に
房が下げられている。
房は各方位を司る「四神」を表す。

その色も四神に由来し、
東は、青龍の青、
西は、白虎の白、
南は、朱雀の赤、
北は、玄武の黒、
となっている。

青龍の色は蒼色、つまり緑色だ。
青龍は蒼竜(そうりゅう)と言われることもある。

こうして四方位を神に護られた土俵で
神事である相撲が執り行われるのだ。

力士、行司の
ひとつ一つの美しい所作に
うっとりとする。
そして、いつもテレビで観ている力士が
目の前で躍動感たっぷりに取り組む姿に
興奮し、気づけば双眼鏡そっちのけで
声をあげていた。

ファンである力士の取り組み前に、
応援のパネルとともに声援を送ると、
ちらっと見てくれた気がした。
それが嬉しくて嬉しくて、
いつもより力をこめて応援した。

すると、見事、白星に!
喜びいっぱいバネル高くあげていると
また、ちらっと見てくれたように思われ
「あぁ、応援が届いた!!」と感激した。

それは、心の中にしか録画できない、
宝物のような一瞬。

勝敗に関わらず、
好きな力士を応援すること、
その声が届くこと、
それが、こんなにも嬉しいものなのかと
感動していた。

応援することは、相手のためだけでなく、
自分も楽しくなり、
勇気づけられたりもする。

応援したいと思う人がいてくれることは、
応援する自分の日々を彩り、
元気に楽しくしてくれるのだと
気づかされた。

それは友人も同じだ。
日々、なにげないことを話して、
常につながっているような気になりがちけれど、
実はそれぞれの胸の内にある
苦労や悩み、悲しみ、喜びの全て知っている
わけではない。
気づかず、後になって、大変な思いをしていたと
知って驚くこともある。

どんなにその人のことを大切に思っていても
何の力になれないことのほうが
多いのかもしれない。

無理に役立とうとしても
かえって迷惑になることもある。
そうわかっていても、心は寄り添いたい。

いい時も、そうでない時も、
ひっそりと応援しあいながら、
しみじみと互いを思い、
語り合う時を大切にしたいと思うのだ。

数年前に
フルマラソンで走る友だちを
仲良し数人で沿道で待って応援した。
遠くからもわかるように、
鬱蒼とした森のようなかつらをかぶって
待っていた。

見つけてくれた時の嬉しさといったら…。
青龍になって伴走していくような
喜びとファイトが湧いてきた。

応援することは、見守りながら、
強くありたいと気づかされること。
応援し、応援されて、朗らかに、
これからも続く青々とした道を歩いていきたい。

匂い立つころを過ぎても。

滅赤(けしあか)色は、灰色がかった赤色。
「滅」は、色味を渋く抑えたトーンを表す。

あたりが輝くような華やかさ、艶やかさを表すとき、
「匂い立つ」という言葉が使われる。

「匂う」という言葉は、
もともと「赤い色が鮮やかに表われる」の意味をもち、
香りよりも色を表す言葉だったのだ。

そんな匂い立つような色から、
鮮やかさ、華やかさを取り去り、
渋みのある色にするとき、
和の色では、
この「滅」の字を当てている。

先日、学生時代からの友人と会った。
三年ぶりの再会。

ネット時代はありがたく、
何年会わなくても、互いの姿も日々のことも、
きちんと更新されている。
昨日会った友人のように話のつづきができるのも
不思議で、愉快なことである。

彼女は三年前よりも、さらに進化して
ジャズを歌うひとになっている。
歌う苦労も喜びも、
ひろがり、深くなっているようだった。

彼女の音楽への
愛の深さについて聴きながら、
学生時代のことを思い出していた。

二十歳前の年末だった。
彼女の下宿で
仲のいい友だち数人と
一晩中語り明かして
そのままこたつで眠ったのだった。

翌朝、バイトのため私は
早く起きなければならなかった。
静かに起きたつもりが、
彼女はもう起きていて、
ギターを静かに弾いて
近づくライブの練習をしていた。

ポロン、ポロンと
やさしい音とともに
「またね」と見送ってくれた。

数日後、彼女の部屋を訪ねると、
空っぽになっていた。
実家から通うことになり、
部屋を引き払った、とのことで
にぎやかだった空間には、もう何もなかった。

楽しい時間はそこにあったのに、
大好きなお友達は引っ越してしまった。
そんな置いてきぼりされた子どものような
気持ちで、部屋をながめていた。
ぽっかりと穴があいたような寂しさで。

ポロン、ポロン…
あの日聴こえたギターの音は、
時に寂しく思い出され、
今は、やさしく懐かしく思い出す。

あの音ひとつひとつを、彼女は大切に抱き、
離さなかったから、今、また歌うひとになったのだろう。

歌う彼女の口紅は、匂い立つ赤。

あの日、またね、と別れてから、
それぞれに色々なことがあった。

消してしまいたいことも、
消えて欲しくないことも、
両手に抱えて。
たくさん得ては手放して、
出会って、別れて、
いくつかの選択のなかで
残ったものを大切に握りしめて
今の私たちになったのだ。

匂い立つものは、
やがて褪せていくのだろう。
私たちも、学生時代のような
眩しい若さは失せている。

けれど、「とき」という風にふかれ、
若さゆえの乱暴さがゆっくりと研磨されて、
目には見えない香りや、
やさしい色の空気になって、
時に誰かを包んでいるのではないだろうか。

彼女とわたし。
それぞれに違う道にいるけれど、
別々の目指す道のなかで、
自分らしい色を、
歌にして、言葉にして、
より多くの人に届けられるように。

また会う時が、楽しみだ。

名脇役な色。

「ボケ」というと
どんなイメージがあるだろう?

相手を罵るときに使う言葉。
漫才のボケとツッコミ。
ぼんやりしてるときのこと。

そんな、ちょっとユーモラスな
「ボケ」の名をいただいた色がある。

「惚色」と書いて、「ぼけいろ」。
語感は少し乱暴で、
好ましくない色にも思われるが、
「惚」とは「ほれる」の文字。
つまり、「惚れる色」なのだ。
そう思うと、
一気に好感度が上がる気がする。

色は淡く渋い赤。
くすんだはっきりしない色であり、
はげた色の総称ともされている。

季節が秋へと進んで、
自然の色も少しずつくすんだり、
色褪せたりして、
この惚色になりつつあるように見える。

春とは異なるやわらかさで
色も空気も、
夏からゆっくりと色を落とし、
空気を冷やして、季節が進んでいる。

「惚け(ぼけ)」というと、
「この子は、まぁようよう遊び惚(ほう)けて」
と、叱られたことを思い出す。

子どものころ、
いつまでも日が暮れない夏から、
知らぬ間に秋になり、
いつもの時間に帰ろうとすると、
辺りが真っ暗になってしまい心細かった。

外が暗くなると、当然、
帰るやいなや、両親に怒られる。

子どもの頃は、秋が嫌いだった。

しかし、大人になると、
秋は涼しく、心地良く、
食べ物はおいしくて、
街を歩くと、季節の色合いも豊かに
目を楽しませてくれる。

惚れ惚れするような秋の景色。
枯れてゆく樹々の葉もあるけれど、
ふと、さし色のような美しい色も見つかる。

あ、惚色とは、その色に惚(ほ)れたり、
惚(ほう)けたりするのではなく、
他の色をひきたてて、
心惹きつける…
そんな名脇役な色なのかもしれない。

この秋は、惚色のことも見逃さず
紅葉や銀杏の鮮やかな色を愉しもう。

それが、子ども時代には得られなかった
大人の愉しみのひとつ、と言えるかもしれない。

余白を愛する、くろ。

黒は同じようでいて、さまざまな色がある。

「玄(げん)」は、真っ黒一歩手前の、
明るさ、暖かみのある黒だ。

「玄」の意味を辞書でひくと
「赤黒い」「奥深くて暗い」とある。
「玄米」や「玄関」は、この意味からきているのだろうか。

この文字を見て、思い出される言葉がある。
「玄人(くろうと)」だ。

平安時代、白塗りしただけで芸のない遊芸人のことを
「白人(しろひと)」と呼んでいた。
それが江戸時代になって「しろうと」と変化し、
平凡さを軽蔑する意味も含む「素」の字を当てた
「素人」になったという。

そして、白塗りしただけの芸人の「白」に対して、
芸のある人を「黒」とし、
「素人」の対義語として生まれたのが「玄人」の言葉だった。
「玄」の字が選ばれたのは、「黒」よりも
奥深く深遠な趣き、意味があったからだとか。

もうひとつ、玄といえば思い出す言葉ある。
冬の別名、「玄冬(げんとう)」だ。

人生には、青春、朱夏、白秋、玄冬、という四季がある。
若き日の「青春」、多忙に燃える「朱夏」、
落ち着きの「白秋」をすぎて、
いよいよまとめの時、「玄冬」を迎える。

ここで現れる「玄」。
暗い冬。
人生の最後の季節で、
次世代にものごとを託して退いていく年代のことをいうらしい。
まさに人生の「玄人」になって、
「白秋」の人びとに任せて、
託して去ってゆく時のことなのかもしれない。

黒と白。
玄と素。
それぞれの存在があって、
それぞれのよさがひきたつ。

私の世代は「白秋」。
さまざまな経験を経て、白く澄んだ想いで
若い人たちのさまざまな色を活かしつつ、
先輩方から知恵や経験をうけとっていきたい。

人生は彩りにあふれている。
全ての色をうけとって、深遠な玄の色になりたい。
そのためにも、人生の実りの秋、
白秋の今、
まだまだやるべきことがある。

聴いて、ゆるして、ゆれる色。

コスモスの花が風にゆれている。
のんびり、ふわり、何にもとらわれずに。

風の声や、
見つめる人たちの声を、
うん、うん
とうなずくように揺れながら咲いているコスモス。
その代表的ともいえる淡い紅色は
「聴色(ゆるしいろ)」
だと思う。

「聞く」のではなく
じっくりと「聴く」。
よく聴けば、わかりあえる。
ゆるすことができる。
だから「聴色(ゆるしいろ)」なのだろうか。

よく聴くことは、よく話すことでもある。
言い訳から始まってもいい。
自分の気持ちを精一杯、心をこめて話せば、
やがてわかりあえる、と信じている。

もし、わかりあえなかったとしても、
話し合い、気持ちを伝えあうことで、
互いに知らなかった気持ちを発見したり、
これまでとはちがう感情が生まれるかもしれない。

話すこと、聴くことを、
逃げず、あきらめずにいたい。

だから、コスモスのような姿勢でいよう。
コスモスのように、淡くやさしい気持ちでいよう。

何でも話せるような、
ふわりと受け止めてくれるような
そんな微笑みをたたえていよう。

コスモスを見ていたら、思い出した。
「静かに行くものは健やかに行く
 健やかに行くものは遠くまで行く」
というイタリアのことわざを。

そして、
「健やかな人は、よく聴くことができ、
 よく聴くひとは、
 静かに聴(ゆる)すことができる」
…こんな言葉を思いついた。

生きていたら、色々なことがあるけれど、
よく人の話を聴き、
自分の心の声を聴き、
静かに聴(ゆる)す。
いつか、そんな境地にいけたらいいな、
と思う。

秋の心地良い風が吹いている。
のんびり、ふわりと
風にゆらされるコスモスが
うん、うん
と、うなずいて笑っていた。