おいしい色は、どう作る?

人生初のお菓子作りは、
ホットプレートで焼いたクッキー。
どんな焼け具合? と、ふたを開けたら、
小さなホットケーキが大量にできていた。

江戸茶(えどちゃ)色は、黄みの深い赤褐色。
江戸時代前期に流行した色である。
「江戸」とつけることで、
流行の先端であることを強調した、
江戸好みの茶色とされていた。

中学では、昼はお弁当持参だった。
お弁当初日にカバンを開けると
おかずの肉じゃがの煮汁がこぼれ、
教科書、ノート全て茶色に染まっていた。

ショックだった、恥ずかしかった。
こんなにこぼれるものを何でおかずに入れたのよ!
と、母を恨んだ。
とはいえ、母も仕事で忙しい身。
翌日からお弁当は自分で作ることにした。

なんとか、おいしくきれいで
こぼれないお弁当を作りたい。

と思ったところで、
母は朝から晩まで忙しく、
家事に手がまわらない様子。
まわりに料理を教われる人も
いなかった。

そこで、婦人雑誌の付録を見て、
簡単なものを作り始めた。
しかし、基本がわかっていない。
「丁寧に混ぜる」という言葉の
イメージもわかないくらい料理音痴だった。

情けなくて、高校では、
調理と栄養について学ぶ「食物」の
選択科目を取った。
食材の扱い方から、
見た目美しく、
栄養バランスの良いメニュー作りなど、
食に関する学びは面白かった。

けれど、料理はそんなに甘くない。
担当の先生は校内指折りの厳しい人だった。

テーマによって作る献立は、何度も却下、
調理実習時には爪やエプロンの清潔さ、
料理の完成度まで、点数獲得に苦労させられた。
「これじゃあ、お点はあげられなーい」と
目が笑っていない笑顔で、減点に次ぐ減点。
卒業ギリギリの追試も受けた。

料理は、
食べられればいいと言うものではない。
そのことを、みっちりと仕込まれた。

おかげで、外食するときも、
完成に至るまでの大変さに
心が向くようになった。
おいしければ、その工夫に、
盛り付けが美しければ、その心配りに、
感謝の思いが湧いてくる。

日々の小さなことさえ、
やってみなければ、その苦労は
わからない。

振り返ってみると、
煮汁の染みた教科書の恥ずかしさが
料理を始めた原点になっていることに気づく。

クッキーにならなかった小さなホットケーキ、
ずっと肉じゃがの匂いの染み付いていた教科書、
油染みで、書けなくなったノート。
懐かしい失敗や、
うまくできると、
早く食べたい、食べさせたいと思ったこと。
それらを全て溶かした、
食べ物の思い出の色が
この江戸茶色になる。

まろやかで、おいしそうな色だ。

かつて、流行りの先端だった色。
遠い昔から愛されてきた色。

食べ物も、色のように
流行りがあったり、
これをあるとほっとするという、
定番のものがある。

色をまとうように心を彩り、
血や肉になる、おいしいもの。

「人は味覚だけでなく、視覚でも食べる」
と、食物の先生に口を酸っぱくして教えられた。

同じ色でも、より美しく。
彩りの妙も考えて。

江戸茶色は、
そんな味も記憶も包み込んで、
静かに心を盛り立ててくれる。

さぁ、今日も、おいしいものを作ろう。

ラインダンスはわたしと。

立春を迎えた。
寒さに凍える灰色の空の向こうに、
淡い春の光を感じられる。

素鼠(すねず)色は、
他の色味を含まない鼠色。
数ある鼠系の色の中でも、
白っぽくも、黒っぽくもない、
真ん中の色となるのが、この素鼠色だ。

短大二年の最後の冬、
卒業旅行の代わりに
日帰り近所旅に出かけた。

まずは、あまり乗ることのなかった
大阪環状線をぐるりと一周乗ってみた。
駅ごとに景色だけでなく
乗り降りする人の様子も変わるのを知った。

同じ場所でも、時間によって
色合いが変わることを知ったのも
この旅だった。

繁華街の夕暮れ。
華やかな世界が始まる前の
ざわめきの中を歩いた。
出勤前と思われる着物姿の女性が、
艶っぽく光っていた。

ほとんど化粧もせずに過ごした
私には目を惹くものがあった。

化粧をする。身支度を整え、
姿も心も創り上げてゆく。
仕事に向かう前の、どこか憂いに満ちた姿。
歳を重ねただけでは、至ることのできない
凛として色香感じる大人の姿。

時間だけでも、距離だけでも
たどりつけないところがある…。

憧れと、あきらめと、
かすかなときめきにも似たものを感じた。

ほんの数分、電車に乗っただけ、
ほんの数ヶ月後、学生ではなくなるだけ。
それだけで、違う世界が待っている。

自分の知らない世界は
どれほど大きいのだろう。
知らないことに、
怒られたり、嗤われてしまう物事は
どれほどたくさんあるのだろう。

世界の広さ、深さの予告編のようで
未来の自分への頼りなさに、少し怯えた。

その旅の後、
卒業前の思い出にと、
友人三人と正装して、
ちょっと背伸びした、
大阪都心のレストランへ出かけた。
全員、偶然にも鼠色のスーツだった。

帰り道、大人ぶって食事した
自分たちの姿を思い出し、
大笑いして夜の街を歩いた。
そのまま帰りたくなくて、
華やかな街の灯り、そして
列をなして車が走り去る光景を
陸橋から見下ろした。

たくさんのライトが
煌びやかな都会の時間のように流れてゆく。
綺麗だった。

突然、「ラインダンスしよう!」と
誰かが言い出し、
夜の陸橋で、腕を組み、踊り始めた。

正装していても、
顔はすっぴん。
子供と大人の真ん中の色をした私たち。

大きく足を蹴り上げながら、
都会なんかに負けるか!
笑って乗り越えてみせるぞ!
そんな気持ちで踊っていた。

叶えたかったことも、
叶わなかったことも
多かったけれど。
こんなに笑える未来があった。
これから先の、全く見えない未来は
どんなことで笑っているだろう。

数ヶ月後には、大人の世界に飛び込んでゆく、
まだ何者にもなっていない、
「素」の私たち。
素鼠色の服を着た四人のラインダンスは、
賑やかで、デタラメで、
とびきり楽しい思い出になった。

その後、違う道に進んだ
四人が集まることはなかった。
けれど、あの日の思い出は、
ひなたの小石を、そっと、
てのひらに置かれたようなぬくもりで、
どんなに心冷える日にも、
笑顔と元気をくれた。

光を浴びた素鼠色の光景は、
春霞にぼんやり浮かぶ都会の景色。

あのビルの中や、どこかの街角で
誰かが不安や失意の中にいるなら
暖かい春の光が射していると
いいな、と思う。

冷えた石もあたためてくれる、
春の陽射しが、もうすぐやって来る。