夏の景色をゆらす色。

景色を見つめる。
細部まで目をこらして。
すると、
細筆で描いたような線や、
光によって
濃淡に染め分けられた色を発見できる。

呉須(ごす)色は、深くて渋い青色。
磁器や陶器の、
青絵の染付けに用いられる顔料の色だ。
「呉須」とは、コバルト化合物を含む鉱物のことで、
中国の呉須鉱石の産地名から、この名がついたという。

水面の中に見え隠れする
呉須色のさざ波。
それは、湖面を細筆で絵付けした、
ガラスの器にも見える。
太陽の光を浴びてきらめく、
眩しい夏の器。

湖の向こうには、
ひと筆書きのような山々も
青く静かに佇んでいる。

青の階調が眺めるほどに鮮やかで、
空に湖面に、山々にと、
どの色調も見逃すまいと、
心忙しく楽しい。

子どもの頃、
「夏休みの思い出」の
絵を描く宿題があった。
海に行くことが多く、
毎年、海水浴の絵を描いたものだった。
そして毎年飽きることなく、
単調な水色の海、
黄土色の砂浜、赤い太陽を塗っていた。

ある年の夏休み、
友達の家で、水彩絵の具を使って
海を描いていたら、
絵のうまい、友達のお姉さんがやってきて、
私たちの絵を見てくれた。
あまりの平板さに、濃紺の絵の具を出して
さっと波を描き加えてくれた。

ベタ塗りの海に波がたった。
他にも緑や黒や白を足して、
ささっと筆が入るたびに海が呼吸し始めた。
まさに〝色の魔法〟だった。

そんなことを思い出しながら、
モーターボートやサーフボードが
流れて行くのを見ていた。
きらめきの泡を立て、白い波跡を残し、
それを縁取るように呉須色の線が見えた。

一瞬一瞬、光のように現れて消える
その連続の中で、
ずっと線を描き、
デザインしているようなさざ波。

見えてもつかめぬ水面の波のように、
風も描くことができるだろうか。

風に吹かれ、
チリンチリンと音を立てて、
揺れる呉須色の風鈴。
ゆらゆらと短冊が揺れて
形のない風の走る姿を心に描かせてくれる。

目に見えなくても、
向かう方向は肌に感じられ、
耳に涼しい音色が
爽やぐ思いにしてくれる。

日本海沿岸で、沖から吹く、
夏のそよ風のことを「あいの風」という。
海の色と香りを抱いて吹く、
藍(色)の風を思わせる名だと思う。
風の中に、呉須色の線を感じられるような。

暗いニュースに塗り込められたような日々も、
よく眺め、耳をすましてみれば、
嬉しいことや楽しいことが、
小さな風を起こしたり、
さざ波のように心を動かしてくれる。

心の絵筆で、それらを見つけて描き出し、
爽やかな色や形を取り入れたら、
今、この一瞬一瞬も違う景色になるかもしれない。

暮らしを、心の中を、
自分らしく描いてみよう。
「新しい生活様式」は、
これまでと違う暮らし方が求められる。
寂しいこともあるけれど、
変わった方がいいこともあるはずだ。

暗い色、明るい色、
それぞれの色を引き立てながら
この夏の思い出を、
そして未来を描いていこう。

新しい季節に向けて。

暑さに溶け出す、あわいの色。

夕暮れの雲に鳥の形を見つけると、
思い出す鳥の名がある。

トキ。
トキは白い鳥なのだけれど、
飛ぶときに見せる翼の内側、
尾羽、風切羽(かぜきりばね)の色が、
黄みがかった淡くやさしい桃色になっている。
それを鴇(とき)色という。

トキは、遠い昔、どこにでもいる鳥だった。
現在では、日本に野生のトキはおらず、
絶滅危惧種の鳥となっている。

テレビや本でしか見たことのない
私にとっては幻の鳥。
なのに、飛ぶ姿や色の美しさが忘れられず、
夕暮れの空に、その姿を探してしまう。

夏の太陽は、強くまばゆく熱を放つ。
汗をふきふき、少しでも暑さ和いで…と、
日が暮れるを待つのに、
沈む夕陽が、あまりに綺麗だと
なんだか名残惜しくなる。

「行き暮れる」という言葉がある。
行く途中で日が暮れる、という意味。
夕陽を夢中になって見ているうちに、
気づけば夜の帳が下りて、
今いるところも、行き先もわからなくなる…
そんな気持ちになってしまう。

暮れなずむ、行き暮れる…。
黄昏の言葉は、美しく、危険な甘さもあって、
熱にほだされたように、うっとりしてしまう。

黄昏どきは、「誰そ彼(誰ですかあなたは)」と
たずねる薄暗い時。
夕陽を背景にした人の姿が
もう会えなくなった人に見えるときがある。
その人ではないとわかってのに、懐かしく慕わしく眺めてしまう。

また、スマホで夕陽を撮っている人も見かける。
思いつめたように送信している人の姿には、
この美しさを見せたい、感動を伝えたい人があるのだという
切なさが溢れていて、つい見とれてしまう。

無邪気に遊ぶ人たちの姿には、
かつての自分の姿を重ねて
微笑みながら、遠い昔を顧みる。

そんなふうに
あやしく美しい夕陽の魔法の中にいて、
気がつくと、あたりが真っ暗になって、
帰り道が見えなくなる。
行き暮れてしまうのだ。

鴇色は、江戸時代の染色の見本帳によっては
「時色」と表記されていることもあるという。
借字とはいえ、
時を忘れさせ、さまざまな時へと誘う色。
魔界へと放たれた鴇、その色らしい文字にも思える。

夏の夜空に弾ける花火にも、
鳥の羽が広がったような形や
鴇色はなかっただろうか。

夏は、きっぱりとした空の青、雲の白、
そして夜の漆黒の暗さを持っていながら、
その間に、心和む夕暮れの色がある。
暑さに疲れた体を癒してくれる
やさしさのような淡い鴇色が
熱と湿った空気を伴って、
身も心も包み込んでくれる。

昼と夜のあわいの色合いをさまざまに
混ぜて溶かして見せながら…。

何もかも、例年とはちがう今年の夏だけれど、
その色のやさしさ美しさは、
変わらない。

行き暮れた日には
家の灯りのように。
失望や悲しみに襲われた時は、
胸の中で負けまいと灯す炎のように。
きっと、明るく輝いている。