秋めいて、あきらめる色。

山粧う秋の景色を
観に出かけた。
目に眩しい、盛りの紅葉を
捉えることはできなかったけれど、
色とりどりの秋の葉の美しさを堪能した。

黄丹(おうに)色は、
鮮やかな赤みの橙色。

「黄丹」は昇る朝日の色とされ
皇太子の位の色を表し、
儀式に着用する束帯装束の
袍(ほう)の色とされている。

平成から令和への
皇位継承儀式でも目にした
「絶対禁色」である。

この秋は、気楽にあちこちと
出かけられないこともあり、
ネットやテレビで
葉の色づき加減を確認して
出かけた。
けれど、慎重になりすぎたあまり、
早すぎたり、遅すぎたりして、
期待した色鮮やかな紅葉に、
うまく出会うことができなかった。

これも、今年らしい出来事かもしれない。
そう思いながら、目にする秋の葉を
愉しんだ。

秋の葉の色づきは、
好天ならば眩しく嬉しいものなのに、
雨の日や曇天になると、
うら淋しい眺めになる。

また桜のように一気に散ることなく
枯れたまま木の枝に残っている姿、
散り敷かれた落ち葉の褪せた色合いも、
間に合わなかった寂しさの色が
濃くなる気がする。

間に合わなかった…と
あきらめるしかないのだけれど。

秋のあきらめ。
と、思いながら、スマホを出して
「あきらめる」という言葉を検索してみた。

「あきらめる」は、
「諦める」と書き、
「仕方ないと断念したり、
 悪い状態を受け入れること」
という意味がある。

けれど、もうひとつ。
「明らめる」
と書く言葉があるのを知った。
この「あきらめる」は、
「明るくさせる」という意味。
まるで明暗逆のようなこの言葉を、
私は今まで知らなかった。

枯れそうになった葉が
ぽっと色づいたような、
花咲か爺ならぬ
明らめ婆の気分になった。

言葉ひとつで、目の前の世界の
色は変わる。

紅葉に間に合わなかった伊香保では、
遠くに雪をかぶった山が見えた。
冬が近づいている。

気がつくと、十一月も残りわずか。
黄丹色の袍に、いにしえの時を想う
皇室行事を見ることのできた
令和二年。
ざわざわとして、ひと月ひと月が
表面をなで走るように過ぎていった気もする。

それでも、この一年の日々で
令和という新しい元号が
ゆっくりと、身に、心に馴染んだ気がする。

コロナだ、自粛だ、新生活だ、と、
馴れないこともあったけれど、
心をならし、ざわめきを抑えながら
それらとも共に暮らすよう
自分なりに努めてきたと思う。

紅葉を眺めていると、
ぽとり、ぽとり、と葉が散り落ちる音が
聞こえてきた。

木の葉が盛んの落ちるのを
時雨にたとえた、
「木の葉時雨(しぐれ)」
という季語がある。

木を、土を慈しむ、優しい雨が、
秋の名残りを知らせる葉書のように
落ちてゆく。
古い葉を落として、土にかえり、
栄養になって、新しい命を育む準備が
もう始まっている。

物言わぬ自然が、
その姿で、あり方で、今やっていることに
何ひとつ無駄はないのだと、励ましてくれる。

焦るな、焦るな、と、
自然はおおらかに包み込んでくれる。
諦めないで、明らめながら、
この秋の道を進んでいこう。