滴る色がくれるもの。

関東でも雪予報になった寒い日、
風邪をひいて寝込んだ。
雪の気配のせいか、
小学校を休んだ日のことを思い出した。

蒼白色(そうはくしょく)は、青みを帯びた白色。
蒼白とは、特定の色を指すのではなく、
青みがかかった様子全般のことを言う。
「顔面蒼白」などというように、
蒼白には、不安や恐怖、不健康な響きがある。

子どもの頃は、よく風邪をひいた。
また、学校に行くのが
たまに気が重く感じられる日があり、
そんな日には、
こっそりとコタツに体温計を入れて、
熱のある演技をした。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、
家内工業でもあるからか、
両親は「休むか?」と、欠席させてくれた。

学校を休むとなれば、一日は自由だ。
誰もこない部屋で、うとうとしながら、
マンガを読んで過ごした。

お昼前になると
父と近くの病院に行く。
白い壁と、ほんのり青いリノリウムの床。
病院独特の匂い。
一気に自分の顔色が青ざめて
病人らしくなった気がした。

診察室に入る時は、
いつもドキドキした。
もの静かな先生、
聴診器を当てられる冷たさも
怖くて緊張した。
看護士さんの白衣、
キビキビとした動きも
背筋をすーっと寒くした。

病院から帰ると、再び一人の時間。
茶の間のコタツで寝ていると、
父を訪う人が次々とやって来た。

玄関からまっすぐに土間を抜けて
工場に行けるようになっていたので
客人は皆
「こんにちは~」
と、言いながら返事を待たずに工場に向かう。

物売りの人たちもやって来る。

近くのうどん屋さんが
へぎにのせた茹でたてのうどんを
配達してくれたり、
立ち売り箱にパンや練り物をのせて
売りに来るおばさんもいた。

工場の入り口にあるトイレの前で
そんなおじさんや、おばさんにばったり会うと、
「まあ、おねえちゃん、学校は?」と訊かれ、
悪いことをしていないのに、きまり悪かった。

一人のんびり過ごす自由と、
なんとなく居心地の悪い不自由さの間を
あっちこっちしながら、過ごす一日。

お昼を過ぎると、天気のいい日は
照る陽に温められて、
つららからポトポトポトポトと、
水滴が落ち始める。

下校時間を過ぎると、
その陽射しの中を雪合戦しながら
きゃっきゃと楽しそうに帰って来る友だちの声が
聞こえて来る。

たった一日休んだだけなのに、
懐かしくて、うらやましい、
少し遠くに感じる声。

私の知らないことが、色々あったんだろうな。
おもしろいことあったのかな?
そう思うと、取り残されたようで寂しかった。

「明日は行けそうか?」と
両親に訊かれると、元気に答えていけないと
思いながら、うん、と答えた。

取り戻した健やかさと、隠し持った楽しみで、
きっとその時の私の顔は、
うっすらと赤かっただろう。

蒼白色は、不思議な色名で、
紅みの明るい灰色もさす。
同じ一日、同じ私が、
青の蒼白色から、紅みの蒼白色に変わる。

つららから落ちる水滴も、
光の角度や、見る角度で色が変わった。
色でさえ、同じ名前で違う色を持つ。

たまには、同じものであれ、
ちがうところから見る大切さを
あの時間は教えてくれていた。

見つめていた時間は、
つららから落ちる水滴のように
私の心に何かを落としてくれていたのだ。

ベランダの水滴は、
それを思い出させてくれた。
私は、今もポトポトと滴る時間に
教えられている。

見える色、見えない色。

「どんな薄い紙にも、表と裏がある」。
父は酒に酔うと、よくそう言った。

裏色は、深く渋い青色。
江戸時代中頃より、
夜具や衣服の裏地に使われる色ということから
この名がついたのだという。

先日、紅葉狩りに出かけた折に、
遠くに眺める山々がこの色だった。
人の目を惹く鮮やかな紅葉を表色とするなら、
これは裏色かな?
と、やわらかな稜線を描く裏色の景色を愉しんだ。

四季折々に木々の色は変わるけれど、
勝手に裏色と決めた、
濃淡美しい遠い山々の景色は、
鮮やかさこそないけれど、
やさしく懐かしい色合いだった。

小学一年の時、書き初め展に
応募したことがある。
出品作は、
ザラザラとにじんだ文字になってしまい、
参加賞で返ってきた。
「これは紙のウラですよ」と
達筆な朱い文字で書かれたコメント。
父の言う通り、
薄い紙にも確かに表裏があることを学んだのだった。

紙業を生業にしていたわけではないのに、
父はなぜ、あんなにも紙の表裏について話していたのだろう。

自営業だった父には、
公私共に仲良くつきあう人がいた。
とりわけ剽軽なAさんのことは、
楽しい友人として信頼し、
会う時間を楽しみにしていたようだった。

その日も、仕事の話が終わった後、
母も私も同席して、
Aさんの身振り手振りを加えた楽しい話に
大笑いしていた。
いつもいつも大笑いさせられることに、
母がポロリと
「Aさんには苦がないみたい」
と言った時だった。
一瞬、普段見せたことのない暗い色が
Aさんの表情に差すのを見た。

Aさんが帰った後、父が
「ああ見えて、色々悩んだり、気を遣っとるんだ。
 あんなこと言うてやるな」
と母を戒めた。

その後、父が急逝し、事業の片付けの折に、
Aさんとは色々あって関係がこじれてしまい、
疎遠になってしまった。

私は、そんな風になってしまったことに、
あの日の母の言葉が、Aさんの心の
とても敏感な部分に突き刺さったことも
一つの要因ではなかったかと思っている。

誰にでも見せる表の色と、
ひっそりと隠し持っている裏の色。
見せなくても、そんな色があることを知って、
その人に接することと、知ろうともせずに
つきあうとでは、関わりに大きな違いがある。

父は、紙にたとえてそんなことも教えてくれていたのでは
ないかと思う。

人の裏側を見抜くことは難しい。
裏側ばかり見ようとするのも、はしたない。
けれど、「ある」と知っておくこと。
そうすれば表面だけで決めつけたり、
過信したり、貶めたりすることなく、
人付き合いを、深く味わいのあるものに
するような気がする。

山の裏側というものがあるのかどうか
知らないけれど、あると思うと、
景色も厚みが感じられる。
見えない景色に思いを馳せられる。

限りなく広がっていく山々の眺めは、
見えない人の心であり、
未知なる繋がりであり、
まだ見ぬ未来の景色でもある。

裏色という色の存在は、
目に見えない色を思うことの
難しさと楽しさを教えて、
どこまでも広がっている。