「あけ」てと願う、熱い色。

JR池袋駅の改札を出て、
子供の頃、年末年始にデパートが
休みだったことを思い出した。

真緋(あけ)色は、鮮やかな黄みの赤色をさす。
「あけ」とは「あか」と同じ意味。
天平時代より、
僧侶の袈裟の色としては
紫につぐ高い位を表していたという。

いつもなら、改札を出ると
買い物客や乗り換えの人々で
賑やかな駅構内。

その日は緊急事態宣言下で、
デパートは
食品売り場のみ営業中という日だった。
いつもの人混み、活気はなく、
どこか、しんとした寂しさが
漂っていた。

とりたてて用がなくても、
ちょっと寄りたい。
デパートは子供の頃から憧れで、
居心地のいい大好きな空間。

デパートのない街に育ったので、
京都市内の祖母のところに行く時は、
よそゆきの服を着て、
連れて行ってもらうことが楽しみだった。

遠くからも見える看板、
店員さんの口紅、スカーフなど
チラチラと目に入る赤い色が
鮮やかで、心ときめいた。

大食堂で、子供ながらに気取って飲んだ
ミックスジュース。
なんでも好きなものを食べていいよ、
と言われて
「すうどん!」と応えて
祖母を困らせたこと。
なにげないことも、特別に楽しく
きらめいて思い出される。

中学一年の夏。
初めて、従姉妹と二人だけで
デパートへ出かけた。

文房具くらいしか買えなかったけれど、
あちこち自由に見てまわるのが、
とても嬉しかった。
あまりに興奮しすぎて、帰りのバスを
乗り間違えたほど。
日盛りの中、
汗だくで歩いて帰った。

大人になったら、デパートで
自由に買い物できる!
そう思っていたけれど、
安サラリーの一人暮らしでは
とても、好きなものを買う余裕はなかった。
忙しくて、行く暇すらもない毎日。

ある日、仕事からの帰り、
寝不足でふらふらと
デパートの前を歩いていた。
化粧品のサンプルを配っていた店員さんに
「肌荒れがひどいですね」
と、声かけられた。

確かに、手入れも疎かにしていて、
触った肌の感触がザラついていることが
気になっていた。
自分に優しくしたい…
そんな気持ちもあって、勧められるままに
売り場カウンターの椅子に腰掛けていた。

うっとりするほど美しい店員さんに、
スティック状のクリームを
目の下に丁寧に塗ってもらう。
ほ~っ…と、ひと息。
ささやかな贅沢気分。
塗られた部分から、
栄養分がじわじわと、
肌に心に沁みてくる気がした。

デパートで化粧品など
買ったこともなかったけれど、
大人の女性として扱われる、ていねいな接客に
小さな感動を覚え、思い切って購入した。

口紅のような形をしたアイクリームは、
真緋(あけ)のリボンでくくる、
黒いサテンの小さな巾着袋に入れて渡された。

プレゼントを自分に贈るような
喜びが胸に広がった。

疲れてヘトヘトだったのに、
デパートを出るとき、心が浮き立っていた。

おもちゃにお菓子に洋服、
お子様セットに甘いジュース…。
デパートは、
いつだってウキウキとする時間やものがあり、
華やかな気持ちにさせてくれる場所だった。

旅に出ると、その土地のデパートに行く。
聞こえるその土地の方言に
旅心がぐっと昂まる。

食品売り場では、その土地の美味しいものを
教えてくれる会話がある。
話すこと、迷うこと、買うこと…
それがこんなに楽しいこととは、気づいていなかった。

かつてあった当たり前の日常が、
今、とても恋しい。
こんな窮屈で苦しい日々が、
早くあけますように。

真緋(あけ)の色を調べていて、
赤(アカ)は「夜が明ける」の「アク」から
生まれた語であるという説を見つけた。
ならば、「アケ」には強い願いを感じる。

色鮮やかな商品が並ぶ店内を、
あちこちのんびりと見てまわる。
喜びに上気した笑顔は、
真緋(あけ)の色に見えるだろう。

そんな日々が近い将来、またやって来る。
強く信じ、祈る。

灯りをつけましょ三月に。

弥生(やよい)、嘉月(かげつ)、花見月(はなみづき)…。
三月は美しい異名を持つ。

紅緋(べにひ)色は、冴えた黄みの赤色。
古代、茜染で作られた緋色(ひいろ)は、
平安時代より重ね染めが行われ、
より鮮やかで赤い、紅緋色となった。
それは、神聖な色として、
巫女さんの袴の色にも使われる。

現在の「緋色」と言えば、この色をさすと言う。

今年は、三月になっても
ひな祭りの曲も聴かれず、
うっかりと忘れていた。

二月の末に宮崎の飫肥(おび)という街に
出かけて、あちこちに雛人形が
飾られているのを見かけた。
そこでやっと、
あぁ、桃の節句が近いんだ…と、
思い出したのだった。

人形を飾る雛壇に敷かれるのは
緋毛氈(ひもうせん)。
緋色は生命力を意味し、
魔除けの効果を期待できることから
この色が敷かれると言う。

私の雛人形は、男雛と女雛、
別々にもらったものだった。
金屏風、雪洞、緋毛氈も、別々にやってきたもの。
けれど、こじんまりとして、とても好きだった。

毎年、床の間に飾られていたが、
ある時、その部屋に応接セットが
置かれることになり、
雛人形は椅子に隠れて
見えなくなってしまった。

学校から帰ってきて、床の間の前に
寝ろこんで、いつまでも眺めていた。
隠れたつもりはないけれど、
宿題やお手伝いをサボっている、
と叱られた。

五段飾りの雛人形には
特別な憧れがあった。
友達や近所の家に
五段飾りの雛人形があると知ると、
見せてもらいに行っては
人形の着物、小さなお道具を、
一つ一つ飽きることなく眺めていた。

飫肥では、あちこちの家々に
様々な時代の雛人形が
工夫を凝らして飾られていた。
雛飾りや、明治の頃のままごと道具も
紅緋色に映えて、
一日中見ていられるような
細やかな美しさに心打たれた。

暮らしに役立つものでもなく、
おもちゃにして遊べるものでもない
雛人形。

子を想い、大切に保存されてきたから、
今、こうして見ず知らずの私も見せてもらえる。
雛人形は、親の願い、愛情、祈りの形だなぁ
と、しみじみ思った。

人形飾りを見て、庭園をまわり、
ふと見上げると、高く大きく枝を広げた木が見えた。
「あれは何の木ですか?」と、
園内を歩いていた受付の女性に訊くと、
「あれはねぇ、桐の木。
 ほら、タンスにする木の。
 大きいでしょう。
 昔は娘が生まれると、この木を庭に植えて
 タンスにして嫁入り道具にしたんですよね」

改めて見上げると、確かに枝の先が、
花札などで目にする桐の花の形をしている。

しばらくぼんやり眺めていた。
「親の願いですよねぇ」と、その人は言った。
「ほんとに」それ以上の言葉がなく
また、二人で黙って見上げていた。

今日、どこかで植えられた苗が
こんなに大きな木になる時、
今の悩みや煩いが、小さなものと
なっていますよう…そう静かに祈った。

風にしなる枝は、流れる時の
重さ、優しさに吹かれながら、
大地に広がる根の強さを信じている。

未来を信じよう。
さぁ、美しい三月が始まる。