年に願いを。

新しい年を迎えた。
初詣には、今年の恵方、北北西にある
大雷(だいらい)神社を参拝した。

土黒(つちぐろ)は、
赤みがかった黒い色。

赤黒、茶黒と黒の仲間はあるけれど、
土の黒とは、その匂いまで感じられるようで、
好ましく思った。

大雷神を祭神とするこの神社の
ご神徳は、
“雷除け、電子機器への加護、IT技術の向上”
という。

日々、パソコンの前で
青ざめることの多い私には
ひざまずいてお願いしたいことばかり。

そんなIT時代の神様!
のようなご利益もありながら、
その歴史は古く、
静かで落ち着いた雰囲気の境内は
ITなど知らぬ! という威厳に満ちていた。

立派な鳥居をくぐると
ふわりと包み込んでくれるような
安心感が漂う。
朝早く、まだひと気もない境内は
空気も澄んで感じられた。

しんとした中、
古い御札や御守りなどの
お焚き上げが始まった。

もうもうと煙がのぼり、
境内が薄い膜のかかったような
淡く白い世界に染まってゆく。

ゆっくりと火に近づいて、
新しい年の無病息災を願う。

初めて来たのに、
焚き火を囲んだ幼い日のように
懐かしい想いに包まれた。

火には、人を集める力があるという。
…人が集う。
願いを込めた火が、高く上る。
過ぎた日々の災いも、悲しみも、
ここに納めて、焚き上げて、
一年の平穏を願う。

参拝後、「漢字蒔絵おみくじ」をひく。
今年の私の一文字は、
「才」だった。
“努力を「苦」とせずに真剣に、
貪欲に取り組め”
とあった。

「健康」の項には腹八分目にせよ、とも。
食いしん坊もほどほどに、との戒めか。

読みながら、笑顔になって、
健やかに、朗らかに、努めていくことを
心に決めた初詣になった。

秋の終わりから、
新型コロナウィルスの感染者数も
落ち着いてきたかな…
と、安心したのも束の間。
年が明け、
また、不穏なニュースに胸がざわつく。

焦るな、騒ぐな、不安に支配されるな!
そう大雷の神からのお叱りが
雷鳴とどろかせ、胸にずしんと落ちてくる。

お叱りを受け止めた体で、
境内の土を踏み締めると、
どっしりとした安心感が
体中にしみわたっていくような気がした。

土黒(つちぐろ)とは、
しっとりとしてやわらかく、
栄養分をたっぷり含み、
豊作を約束された
黒い土の色から名付けられたという。

見た目に華やかさが感じられなくても、
慈しみ、育む、母なる色。

暗闇にも思える黒い土の中でも、
いつか光のなかへ!
と、着実に育っているものがある。

今は暗くて、何も見えなくても、
いつか芽吹く日のために、
力をつけて、健やかに伸びようとする。

土黒は、それを、見つめ励まし包んでくれる。
春の土のような、
ふくよかで、ぬくもりを秘めた色だと思う。

神社を後にして、近くの街や
公園などを散策した。

まだ動き出していない
お正月の街。
静けさの中に、うごめく音を感じる。
2022年はどんな年になるのだろう。

元気に、明るく、力強く。
大雷様に誓ったことを
しっかりと心に留めて、
前に進もう。

胸の奥で、炎が上がり、
パチパチと爆ぜる音がした。

どこまでも広がっていく色。

━━ きっちり足に合った靴さえあれば、
  じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。

須賀敦子さんのエッセイ「ユルスナールの靴」の
冒頭の一文。
少し長く歩くかなという日に、
靴の履き心地を確かめながら
いつも思い出す、
お気に入りの一節だ。

勿忘草(わすれなぐさ)色は、
可憐な明るい青色。
春に咲くワスレナグサの花の色だ。

勿忘草には、こんな伝説がある。
川辺を散歩中、対岸に咲く青い花を摘んで
恋人に贈ろうとした男性が、
足を滑らせて、川に転落。
女性に花を渡して
「私を忘れないで(フォーゲット・ミー・ノット)」と
言い残し、激流に巻き込まれて姿を消した。
女性は恋人を生涯忘れずに、この青い花を飾り続けたという。

年末に靴を買った。
傾斜やぬかるみがあっても、足元がぐらつかず、
長く歩いても痛みもない、
安定した履き心地のものを探した。
そして、機能性重視ながら、
忘れ物をしませんように、と
祈りも込めて、さし色に
勿忘草色の入ったものを選んだ。

こんな堅牢な靴を買うきっかけとなったのは、
思いがけず、広角レンズを譲ってもらったことにある。
カメラのことを勉強しようと思いながら、
結局、昨年も一冊の本も読まず、
経験だけで過ぎてしまった。

そんな私の撮ったものを見て、
無自覚なままに、
もっと寄りたい、広げたい、
どうしたらいいのかな? と
悪あがきしているのを読み取ってくれた人が、
私の実力には、まだ手にあまるような
レンズを譲ってくれたのだ。

実際に撮ってみた。
まだ、レンズの実力も魅力も引き出せては
いないけれど、確実に違うものを感じる。
新しい扉が開いた感覚。

こんなふうに、
自分のしていること、やりたいことは、
案外、自分自身が
一番わかっていないのかもしれない。

そう思うと、
これまで見逃し、撮りこぼしてきたものは
どれほどの大きさだったのだろう…と思う。

それは、広角レンズを得たことで
撮れるようになるのか、まだわからない。
けれど、
撮れないと思うのか、
撮ってやろうと挑むのか、で
きっと見える景色が違ってくるような気もしている。

広い世界の中の私が見つけられるもの。
それは何だろう?
それを撮るとき、撮れたと思えたときの
気持ちは、勿忘草の伝説の彼が
恋人に花を託したような気持ちなのだろうか。

「私を忘れないで」。

勿忘草は、「恋人たちの花」とも言われ、
ヨーロッパでは、閏年の二月末日に恋人に
この花を贈るらしい。
今年は、閏年。
四年に一度の告白の年だ。

私も、この閏年に、
告白に値するようなもの撮れたらいいな、
と思う。
前回の閏年に、初めて手にした一眼レフカメラ。
今年こそは勉強し、より良いものを
撮っていきたい。
重い荷物をぶら下げて、長い距離を
どこまでも歩いていく。
いつまで、これができるだろうと思う日もある。

けれど、きっちり足にあった靴と、
広い視界のカメラがあれば、大丈夫だ!
とも思う。

広く、楽しく、たくましく。
新しい年も挑み続けよう。

幸せの鳥の色。

鶸(ひわ)色は、
黄色みの強い黄緑色。

日本では古くから知られる冬鳥、
ヒワの羽の色にちなんだ色名だ。

ヒワは、
冬に大陸から日本へとやって来て、
季節を知らせる渡り鳥。
その鮮やかな羽色は、
枯れた冬景色を彩る美しい鳥として、
愛されてきた。

冬に光をもたらすような
明るく爽やかな色、鶸(ひわ)色。

残念ながら、私は
ヒワ鳥を見たことがない。

ただ、ありがたいことに
ネットで検索すると、
その姿を遠い森まで行って、
やっと会えたかのように
見ることができる。

小さな体をふっくらと
ふくらませて鳴く
無邪気で愛らしい姿。
いつか、本物を見てみたいと思った。

年末に、またひとつ歳を重ねた。
何の節目という訳でもないのだけれど、
来し方を振り返ってみた。

生まれた街から始まり、
進学、就職、結婚、転勤で
移り住んだ街や
旅に出た街、出張で訪れた街など、
そこで心に残ったシーンを
パズルのピースのように
組み合わせると、
小さな自分だけの地図ができた。

様々な街に行った。
たくさんの人に会った。

いいことばかりではなかったけれど、
どこかに行かなければ、
誰かに会わなければ、
私の地図は、真っ白のままだったろう。

メーテルリンクの「青い鳥」は、
チルチルとミチルが
青い鳥を探して、
あちこちと冒険し、
結局、見つけることができず、
朝、目覚めた自分たちの家にいた。
というお話だったと思う。

幸せはいつも自分の内側にある。
という学びとともに、
じっと家にいたままで
外の世界を知ろうとせずにいたら、
何も見つけることができない。
本当の意味で「知る」ことができない。
怖いけれど、勇気と好奇心を持って
冒険に出る大切さを教えてくれた。

いくつになっても、
何になっても、
自分の目で見ること、
探すこと、思うこと。
そのことが、確かなものを
知る力を与えてくれる。

まだ見ぬ未来は、
私の持つ地図に描かれていない。
ひとつひとつ、私が歩き、出会い、
手にとって作っていくもの。

幸せの鳥の色を自分で
確かめにいくのだ。
鶸色の山や森や野原を、
明るく爽やかに歩いて行こう。

もしかしたら、ヒワ鳥たちが、
森の中から
ひっそりと見ていてくれるかもしれない。

たとえ幸せの鳥を
見つけられてなくても、
目を凝らし、耳をすませて、
探していけば、
「こっちだよ」
と、鶸色の小さな灯りが
ささやかに、でも暖かく
待っていてくれる気がする。

それを見つけた感動を
発信することで、
また、誰かの心に
灯りをともすことができたら嬉しい。

まだ見ぬ灯りを夢見て、
今年も撮ること、書くこと、
探すことを、続けていきたい。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。