ちぐさにもの思う、年の始まり。

今年の恵方は南南東。
初詣は、車で都内の静かな神社へ出かけた。

千草色(ちぐさいろ)は、深く渋い青緑色。

千草色は、同じ読み方の
「千種色」と表記されることもある。
千種には、
「いろいろな、さまざまな」の意味があり、
千草は、
「いろいろな種類の草」の意味を持つ。

千草はもともと「露草」の別称とも言われ、
露草の色である空色に近い藍色をさす場合がある。

人混みを避け、
お参りを終えたあと、
あたりを歩いてみた。

休日のオフィス街は、ひと気なく、
異次元に転がり込んだような
不思議な感覚になる。

色をなくしたような静けさに
心も、しんとなる。

いつものお正月休みの光景なのに、
今年は少し色合いがちがう気がした。

また、ここに人が帰ってきて
いつもの日常が戻るのだろうか
という不安な空気を感じた。

さらに、
コロナ、コロナの毎日に
心も少し疲れていて、
広い通りに人がいないと
寂しいどころか、ほっとする自分がいる。

人のいる景色を撮るのが
何より好きだったのに、
出歩くこと、人のいる景色に身を置くことが
悪いことをしているように感じられる今。

こんな未来は想像していなかった。

誰も歩いていないオフィス街は、
それでも人の気配がする。
道にも建物にも
使い込まれたものの持つ空気を放っている。
静かでも、人々の手に足に馴染んだ
いろいろな色彩があちこちに見られる。

花も咲いている。
誰も通らない横断歩道も
きちんと赤、青、黄色と
色を変えている。

千草なる色の景色は
変わらないのだ。

今は、楽しい予定も考えられないし、
新年の希望にも満ちた抱負を語るのも
少しためらわれる。

けれど、日々の中にさりげない笑いは
きっとあるし、
制限された日々の中にも
楽しみも生まれる。
生み出すこともできるはずだ。

一年の始まりに、
明るい光を探してみよう。

休みが明けたら、
さまざまな物事が始まる。

どんな中でも、風は流れ、
季節は巡り、人も動き、生活はまわっていく。

今はできないことが多くても、
安全確認して、気をつけながら
千草色の信号を注意して渡るように過ごす。

光の中にいよう。
光の中にいられれば、
そこにある色に気づくことができる。

光が見えない日には、
うつむいてもいい。
そこには、きっと、
かわいい花がこちらを見つめている。
「負けずに咲こう」と笑っている。

よりよき始まりを彩る色。

毎年、新年を迎えると、
その年の恵方にある神社へ参拝している。
今年は晴天の日に参拝できた。

穴神社

空の青に映えるのは、
丹塗(にぬ)りの鳥居の色。
丹色(にいろ)だ。

神社

もともと赤い色は
「魔除け、厄除け、祈願」
の色とされていた。
この丹色で彩ることで、
魔除け、神性を表すことから、
鳥居の色にも用いられたという。

神社

年の初めの月には、
この丹色の正月飾りを
あちこちで見かける。
それを見ると、
新しい年の空気を感じ、
神聖で、改まった心持ちになる。

正月飾り

今年の初詣には、
年末に買った新しいカメラを
持って出かけた。
慌しい暮れに、
大急ぎで家事をこなし、
嬉々としてカメラ操作を確認したのだった。
おかげで、少し取り扱いが理解でき、
実質の初撮りとなった。

南天

過去にも一月に神社に
撮りに行ったことがあった。
それは、二年前のこと。
扱える自信がなくて、
買うことはないと思っていた
一眼レフカメラを
譲ってもらうことになり、
京都の伏見稲荷大社へ
初めての撮影に行ったのだ。

伏見稲荷

取り扱い説明書に
ささっと目を通してはいたものの、
実際、撮るとなると、
何が何やら大混乱!
戸惑いながら一眼レフカメラの難しさと
格闘していたのを思い出す。

伏見稲荷

これからこのカメラを使いこなし、
うまく撮れるように
なるのだろうか。
撮れたらいいなぁ。
そんな気持ちを抱いた記憶は、
伏見稲荷の鮮やかな丹色に染められた。

伏見稲荷

今年、初詣の写真を撮りながら、
どこか改まる思いになったのは、
その時の記憶が色を通して
蘇ってきたからかもしれない。

あの日格闘した一眼レフカメラは
私の無知という荒っぽさに耐えて、
たくさんのことを教えてくれ、
そして、次にバトンを渡すように
動かなくなった。

紅葉

最後に撮った写真は、
クリスマスの華やかな赤い色。

その赤色とは少し趣の異なる
黄色みを帯びた赤い色「丹色」から
新しいカメラとの生活が
いよいよ始まった。

「丹」は赤土の古語でもあり、
さらに色とは少し離れて、
「まごころ」の意味も持つ。
「丹精」「丹心」の「丹」だ。

椿

新しい年、新しいカメラで
変わりなく、まごころもって
撮っていこう。

新しくなるのは、よりよくなるため。
今年も、よりよい年にしたい。