静かな聖夜に届くもの。

「残業せんと、早よ帰って。
 今日は、クリスマスやから」。
出先からの上司の電話に、
予定はないと答えられなかった。

琥珀(こはく)色は、透明感のある黄褐色。
ウィスキーや蜂蜜、水飴の色としても
よく知られている色だ。

独身、一人暮らし。
心躍る予定のないその日、
クリスマスでにぎわう街に
一人出かける気にもなれず、
「先生」と呼ぶ、
経理の女性と二人で帰った。

まっすぐ帰ると言う私に先生は、
「若い子がデートの約束もないの!?」
と、驚き、なぐさめ、
市場で、カゴひと盛りの
おいしそうな海老を買ってくれた。

狭い台所の部屋に帰り、
たくさんの海老を塩茹でにした。

こたつの上にドン! と置いて、
殻をむいて食べる。
…おいしい!
予想を上回るおいしさに、
一人黙々と食べていた。

そこに電話。
「あ、いた!」
学生時代の友人が
「今から、プレゼント届けにいく」と
突然の訪問予告。
海老はもう殻だけになって、
何もないことを言うと、
あきれながら「いいよ」と笑う。

しばらくすると、ノックする音が聞こえ、
玄関を開けると、友人が
ラッピングされたバラ一輪を口に咥え、
フラメンコのポーズで立っている。
その隣に、友人そっくりの弟くん。
免許のない友人を乗せて
クリスマスの夜、
わざわざやってきてくれたと言う。

ケーキもご馳走もなく、
こたつにお茶、という殺風景な我が部屋。
けれど、二人がやってきて、
わいわいおしゃべりしていると、
気分が華やいだ。嬉しかった。
誕生日プレゼントを持ってきてくれたと言う。

私の大好きなイラストレーターの
ポーチとマグカップ。
そして、買った時に、
おまけにつけてもらったという、
さっき咥えていた一輪のバラも添えて。

いろんな喜びで胸がいっぱいになって
何かお礼をしようと、
どこかに行く? と誘うと、
弟くんの次の予定があるから
すぐに帰ると言う。

その日、寂しがっているのを知っていたかのように
プレゼントを持って、現れ、笑わせ、
心に灯りを点して、帰る。
二人は、まるでサンタクロースとトナカイのようだった。

にぎやかなクリスマスもいいけれど、
あの日、静かに過ごしていなければ、
あんな驚き、弾けるような喜びは、
得られなかったかもしれない。

なんとなく出かけていたら
クリスマスのにぎやかさに、
余計寂しくなっていただろう。

先日、食器棚を整理していて、
その時にもらったマグカップを見つけた。
ちょっと欠けてしまったけれど、
あの日の嬉しさを思い出すと、
どうしても捨てられなかったのだ。

琥珀は、太古の樹脂類が土中で石化した鉱物。
何千年の時を経て現れ、宝石となる石の色だ。

静かな師走の夜、懐かしい思い出が
何かの拍子に、こぼれるように現れる。
光に透かしてみると、
思い出が溶けて、胸を熱くする。

クリスマスのイルミネーションが
今年は見られた。
昨年見られなかった分、
まぶしいほどに煌めいていた。

華やかな思い出も、
静かでやさしい思い出も、
私の中で地層のように重なっていて
今の自分を作っている。

にぎやかさに笑う時もあれば、
その中で、静かに耳をすます時もいい。

どちらも、琥珀色に輝くクリスマス。

今年も、静かに過ごすことになりそうだけれど、
健やかであることに感謝し、
心穏やかな未来が来ることを祈ろう。

いくつになっても、
サンタクロースはやってくる。

あめを、まく。

黄色い小さな花を見ると、
飴玉を口に入れたような
甘酸っぱさが広がる。

刈安(かりやす)色は、薄い緑みの鮮やかな黄色。
山野に自生する、
イネ科ススキ属の植物「刈安」で
染めた色だ。

社会人になったばかりの春、
法事で、祖母が「ねぇはん」と呼ぶ
大伯母に初めて会った。
母や伯父叔母は、「おばちゃん」と
呼んでいた。

ふくよかな祖母の縮小コピーのような
そっくりな面立ちで、小さな体。

名前は知らなかった。
ただ、ひっそりとした優しい笑顔が
印象的だった。

その優しさに惹きつけられるように
隣に座った。
近況を話すうちに、おばちゃんと私の職場が
すぐ近くにあることがわかった。
長年、製菓会社の社長さん宅の
お手伝いさんをしてきたけれど、
今月いっぱいで辞めるのだと言う。

「土曜だったら、私一人だし、会いに来てな」
おばちゃんは、そう言って、私の手を優しく
握ってくれた。

法事の後、母に聞くと、
おばちゃんは、
大阪で一人暮らしをしていると言う。
高齢になり、近々、田舎の娘夫婦の家に
身を寄せることになったけれど、
引き取り手である家族からは、
あまり歓迎されていないことも知った。

土曜日のお昼休み、
おばちゃんの職場を探した。
すぐに見つかった。
でもそこは、知らない方のご自宅。
本当にお邪魔してもいいのかなぁ…と、
戸惑いながら玄関をあけ、
「こんにちは」と、奥に声をかける。

少し腰の曲がったおばちゃんが
奥からゆっくりと出てきた。
しばらく、誰だろう? と、私を見つめて
「まぁ! 来てくれたん?」
と、手を一つ叩いて、嬉しそうに笑ってくれた。

奥の台所に通されると、
おばちゃんは食事中だったのだろう、
小さなお弁当箱に、ふたが斜めに置かれてあった。
麦茶を飲みながら、この家での仕事など聞く。

何十年も、おばちゃんは、
その小さな体でひとり、
他人の家を磨き、花を飾り、ご飯を作ってきたのだ。
仕事が終わると、午後三時には帰るという。

もの言わず、淡々と仕事をし、
一人の部屋で食事して眠る…
おばちゃんの静かな日常を思った。

昼休みも終わるので、帰ろうとすると、
「おおきに、おおきに、来てくれて」
と、玄関先まで見送ってくれた。

帰り道、振り向くと、おばちゃんはずっと笑って
手を振っていてくれた。

その姿は、ススキのように
強く懐かしく、しなやかに揺れていた。

刈安色は黄色に染めるだけでなく、
藍とあわせて用いられると、
鮮やかな緑色になると言う。

おばちゃんの優しさが、
懐かしい街の人たちを笑顔にして、
景色をやわらかな緑色に染め、
和やかに過ごして欲しい…
心から願った。

それからしばらくして、仕事中に受付から
電話がかかってきた。
私に来客があり、その人がお土産を置いて帰ったと言う。

誰だろう?
と、受付に行くと、
ご来客の方からこれを、と
ダンボール箱を渡された。
開けると、おばちゃんが勤めていた社長さんの
会社の飴がいっぱい入っていた。
刈安色の小さくて愛らしい飴。

おばちゃんは、少し曲がった腰で、
この箱を、きっと大事に抱えて
持ってきてくれたのだ。

その日は、月末。
おばちゃんの退職日だった。

急いでビルを出て、あたりを見渡しても、
もう姿は見えなかった。

席に戻って、
部署内のデスクに、もらった飴を数粒ずつ置いていく。
「わぁ、懐かしい」「これ、知ってる」と
受け取ってくれる人たちに、笑顔の花が咲いた。

おばちゃんは、笑顔の種をたくさん蒔いて、
大阪の街を去って行ったのだった。

さようならば、秋の色。

秋が深まり、
紅葉だよりなど聞かれるようになった。
冷え込む朝は、寒さよりも
葉の色づきが気になって仕方ない。

藤黄(とうおう)色は、
鮮やかな黄色。
採取される植物の顔料「藤黄」から
この名がついたという。

「イチョウ並木が鮮やかに色づいています」
という情報に、いてもたってもいられずに、
秩父を訪れた。

当日は、「雨ときどき曇り」予報。
けれど、目的地にたどり着いた時は、
笑ってしまうほどの土砂降り。
激しい雨の中、
誰もいないイチョウ並木を
ずぶ濡れになりながら撮って歩いた。

雨に煙る景色の中では、
やわらかな黄色に見える並木道。
膝から下が重くなるほど濡れながら、
近づいてよく見ると、葉はまだ若い黄色。
雨にぬれることも楽しむように
キラキラと輝いている。

雨の重さを、ときどき振り払うように、
パーンと弾けて水しぶきあげる葉っぱたち。
溌剌とした瑞々しい命の輝きを見た。

その眩しい色は、
華やかに見えながらも、
落ち着いた日本の秋景色の色。
藤黄色は、古くから日本画の絵の具、
工芸品の塗色として珍重されてきた
和の色だ。

並木道の木々を包む、
たっぷりとした藤黄色の葉は、
時にハラハラと落ちていく一枚一枚に、
「さようなら」
と、手を振るように見送っている。

いつか、自分も落ちてゆくことを
知りながら、やさしく見守るように。

「さようなら」の言葉は、
「それなら」「それでは」
という接続語から来ているらしい。
“さようならば(それならば)、これで別れましょう”
から生まれた言葉という。
時が満ちて、枯れてゆく。
それでは、これで。
と、落ちてゆく。

人も木々の葉も同じなのだなぁ。

若い頃は、老いることなど思いもせず、
その姿や動きは、自分には関係ないものと
思っていたようなところがあった。
枯葉になって落ちていくのを
無邪気にバイバーイ! と
手を振ってしまうような。

さまざまな色のイチョウが見られる
その並木道は長く続いていて、
時に汽車型の園内周遊バスがやってくる。

遠足の子供たちが傘さして進む。
雨の中も楽しそうに賑やかに。

それを見守る優しい老人のように、
ゆっくりと注意深く、
誰も乗せずに、寂しそうに去ってゆくバス。

おそらく今年はオープンしなかった
バーベキュー場やレストランも
引越しのあとのように
しんとしている。

静かな夏が過ぎて、
さみしい秋が来て、
やがて身も縮む寒さの冬がくる。

来月末にはもう、
今は藤黄色に輝く葉も落ちて、
景色は全く変わっているだろう。
うらがれたイチョウ並木の光景に
この秋の景色を懐かしく思い出す人は
いるだろうか。

毎年、季節や自然の色に
「それならば、これで。」
と、別れを告げて来たのに、
今年はそれも言えなかったような
あっけないような寂しさが胸にある。

いつも通りのようで
全く異なる2020年の秋。
せめて彩りだけでも
いつもよりうんと鮮やかであるように願う。

冷たい風の中、
その願いだけは叶えられそうな気がしている。

唄を忘れた小鳥の色は…?

一面に咲く菜の花の中に
踏まれて折れた花を見つけて
童謡「唄を忘れたカナリア」を
思い出した。

金糸雀(カナリア)色は、
濁りのない、はかなげな黄色。
カナリアは、漢字で「金糸雀」と書き、
その羽根の色をさす。

社会人になって二年目の頃、
背中からみぞおちにかけて
突き刺す痛みに襲われ、
息もできず、身体が硬直するような
不調に悩まされていた。

あちこち病院に行くも「異常なし」。
痛みが襲ってくる恐怖と、治らない不安と焦りに、
精神的にも参っていた。

見かねた経理の主任が、
親戚の鍼灸院にしばらく置いてもらって
のんびりするのがいい、と、休職手続きから
鍼灸院へのお願いまで全て手配してくれた。

とはいえ、担当していた仕事は、
あれこれとトラブルを抱えていて、
すぐに休めるとは思えない。

上司に相談すると、
「一人休んでも仕事はまわってくよ。
 会社って、そういうもんやで」
と、休むよう勧めてくれた。

都会の喧騒から離れた、
静かな街の鍼灸院。
両親とほぼ同世代のご夫婦と
私と歳近い二人姉妹のお家。
初対面にも関わらず、
家族が一人増えたように
優しく受け入れてくれた。

寝込むほどの病状でもないので、
できる手伝いをして過ごした。
娘のように可愛がってくれる先生と奥さんを、
やがて「お父さん」「お母さん」と呼んでいた。

朝は、お母さんとおしゃべりしながら、
たくさんのジャガイモを切ることから始まる。

五ミリくらいの厚みにイチョウ切りした
ジャガイモの上に、もぐさをすえるのだ。
直接すえると、熱くて痛いお灸も
そのジャガイモがあると、ほどよい熱さが
じわじわとしみてきて、血行促進されるのがわかる。

今、ここにいる時間が、このジャガイモみたいだ、
と思った。

一日にたくさんの患者さんが来て、
院内はもぐさの煙でもうもうと包まれる。
午前の診療が終わると、窓を開けて、お昼ご飯。

お父さんは、いつも診療台に座って、
テレビを見ながらお昼を食べる。
陽気で優しいお父さんは、
大好物のオムライスの日はご機嫌で、
その後ろ姿は少年のようだった。

たっぷり眠り、お灸とマッサージの治療を受ける。
家族の団欒に笑い、ゆったりと過ごした。
けれど、心のどこかに、いつも
「これでいいの?」と不安があった。

それだからか、みぞおちの痛みは
のんびりとした日々の中でも起こった。
すぐにお父さんが、背中のツボを押してくれ、
痛みは和らいだ。

お昼に作るオムライスの色は
金糸雀(カナリヤ)色。
それを見ると
「唄を忘れたカナリアは、
 後ろの山に捨てましょか
 いえいえ それはなりませぬ」
の歌が浮かんだ。

仕事を途中で投げ出したこと、
それによる社内の人の大変さも
日ごと忘れる時間が増えてゆく。

休職して二ヶ月経ったある日、
お使いに出た夕暮れの帰り道に、
ふと、見捨てられたような寂しさを感じた。
このままのんびり過ごしていたら、
もう元の生活に戻れなくなる気がしたのだ。
帰り道はわかっても、帰り方がわからなくなるような。

痛みに終わりはなく、
つらい仕事もずっと続いていくだろう。
元の生活に戻るのは少し怖い。
でも、ここにいたら、
誰かに甘えて過ごすことに慣れ、
その心地よさから抜けられなくなる。

そう思って、夜、「もう大阪に帰ろうと思います」
と、話した。
お母さんは「まだ治ってないのに」と、
心配そうに顔をゆがめた。
お父さんは、じっと私の話を聞いていて、
「そうやね、決めたんなら、早い方がいい。明日帰るように
 荷造りしな」と言った。

翌朝、ご飯を食べて、朝の掃除を始めると、
お父さんが、「荷物はあとで送ってあげる。
駅まで送っていくよ」と、
往診のバイクの後ろに乗るように言った。
お母さんは、何もそんなに急がなくてもと、止めてくれた。
少し戸惑ったものの、
私も「今しかないな」とバイクに乗った。

駅に着くと、「じゃあね、がんばってね」と
笑って、お父さんは私を降ろし、帰っていった。
オムライスを食べる時とはちがう、
大人の背中だった。

一人になって、寂しさが襲って来た。
あの唄の四番を、心の中で歌った。

「唄を忘れたカナリヤは
 象牙の船に銀の櫂(かい)
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄を思い出す」

力がなくても、先が見えなくても、
未来はある。
今は元気が出せなくても、
いつかまた、
唄を口ずさめる日が来る。
そう信じて、元の生活に戻った。

踏まれても、鮮やかな色が濁ることのない
菜の花は、あの日の寂しさと力強さを
思い出させてくれた。

心重いこの春に、菜の花が教えてくれるものは、
眩しく、あたたかい。

まなざしの行方の色。

今年も残り少なくなった。
振り返ると、新しい出会いや、
久しぶりの再会を果たせたりと、
楽しい時間に恵まれた。

窃黄色(せっこういろ)は、
くすんだ淡い黄色。
窃は「ひそか」を意味する。
こっそり盗む「窃盗」にも
使われる文字。
あまり聞いたことはないが、
「窃慕」は、ひそかに思い慕うことを意味する。
「窃(ひそか)」は、
静けさを与える文字に思われる。

出会いの喜びとともに、
別れの悲しみもあった。

note」と言うSNSがある。
クリエイターが作品を発表する場だ。
作品が気に入ったら
他のSNSの「いいね」のような
「スキ」ボタンが押される。

私もそこに参加していて、
作品に「スキ」が押されると、
通知が来る設定にしている。

「スキ」を押してくれる人の中に、
Pさんという人がいた。
直接に会ったことはなかったけれど、
日々、目にするその名前に親しみを感じ、
自信をなくす時は力をもらっていた。

機会があれば、いつかお礼を言おう。
そう思いながら、
感謝の言葉ひとつ言わずに、日々が過ぎていった。

ところが先日、
Pさんが急逝されたと知らせる記事が
noteにアップされた。

パソコンの画面の前で、呆然とした。
その前日にも、Pさんは私の作品に「スキ」を
押していてくれていた。

いてくれるのが、
当たり前のように思っていたのに。
━━━ もう、会えなくなってしまった。

信じられない想いで、
Pさんのnoteのページを開いた。

Pさんは、note内の作品の中で、
気に入ったものを「お気に入り」と言う形で
まとめていた(マガジン機能という)。
Pさんの「お気に入り」を通して、
出会った人たちも多いと思う。

「お気に入り」はvol.9まであった。
その中でvol.1である「お気に入り」を
開いてみた。
2014年、noteのサービスが
スタートした頃のものだ。
当時、作品を頻繁にアップしていて、
今もいる人、いない人たちの作品を
久しぶりに楽しむことができた。

あぁ、まとめておいてもらったおかげで
こんなふうにnoteの歴史を楽しめるのだ、
と、懐かしく、しみじみとした想いで眺めていた。

すると、その中に、
今となっては恥ずかしい、
五年前の自分の作品を見つけた。
あ!
と、手で口を塞ぎ、恥ずかしさに
笑いそうになったのと同時に、
涙が止まらなくなった。

忘れていたけれど、
こうして、暖かい眼差しで見ていてくれた人がいた…
ということが、たまらなく嬉しかった。
と、同時に、
もう会えないのが悔しく、悲しかった。

Pさんの「お気に入りマガジン」で、
最後に選んでくれた私の作品は
これだった。

タイトルは「そのまなざしの行方」。
サブコピーは
「どこにいても見つめるのは、未来と自由」。

ほら、自分でそう言ったのだから実行しようよ。
そう語りかけてくれている気がした。

もう話す機会はない。
けれど、
心の中でひそかに話すことはできる。

Pさんだけではなく、
会えなくなった人みんなにもできるはずだ。

秋が終わったのに、今年はまだ
晩秋の窃黄色が街のそこここを色付けている。
それは、命の色にも見える。

色あせても、やわらかく静かに
毎日、毎分、毎秒、生きていることの
強さ、喜びを感じる木々の葉。

枯れて落ちることを受け止めながら
私も精一杯努力を続けよう。

会えなくなった人にも
胸張って笑えるように。

来る年も「未来と自由」を見つめて
前進していこうと思う。

小さな憧れが、光る色。

子どもの頃、夏休みの数日を、
京都の伯父の家で過ごした。
歳の近い二人の従姉妹と、
遊ぶのが楽しみだった。

承和色(そがいろ)は、少しくすんだ黄色。
平安初期の仁明天皇が好んだ色で、
天皇治世の年号が「承和」だったことから、
この名がついた。
年号の読みから「じょうわ色」ともいう。

伯父は、若い時から「嵯峨野に家を建てる」ことを
目標にしていた。
そして、私が小学校の時に、その夢を叶えた。
初めて新居に訪れた時、
白い壁が太陽の陽射しを受けて、
眩しい黄色に発光して見えた。

その夏に、初めて渡月橋へ五山送り火を見に行った。

橋に着くと、従姉妹と三人、
大人たちから離れて
送り火のよく見える場所を探した。
人垣の間から覗く、大文字…の
予定だった。
が、暗くなるほどに、
目の前の浴衣姿のカップルが
肩寄せ合い、
ぎゅっと手を握りしめていていて、
送り火など見ていられなくなった。

目に入るのは、
女の子の浴衣、紺地に咲く承和色のひまわり。
暗闇に浮かび上がるのは、
送り火よりもひまわりになってしまった。

帰り道、おませな三人は、
ぽ~っとなっていて、
「どうだった?」「きれかったやろ?」
という伯父の問いかけに、うまく応えられず、
がっかりさせたのも、今思うと申し訳ないことだった。

その夜、興奮して眠れず、
三人で「来年は浴衣着たい!」と
熱っぽく話した。
今日見たお姉さんのように、
かわいい浴衣を着て、
大文字送り火を見るのだ!
と、幼い心で決意していた。

気の合う従姉妹だったけれど、
時折、やはり自分とは違う都会の子だ、
という気遅れすることがあった。
彼女たちが持っているものは、
私の街にはないものばかり。
引き出しから取り出して
見せてくれるものは、
いつも驚きと憧れがあった。

不思議な色を放つ鉛筆のキャップやスーパーボール。
ビー玉のようなアクセサリー越しに
窓の外を見ると、景色がいつもと違う色に見えた。

嵯峨野の良さは、さっぱりわからなかったけれど、
都会はいいなぁ、と、ガラス玉越しに
街の景色を見つめていた。

あの時感じていたことは、故郷を出て、
「嵯峨野に家を建てたい」と強く思った伯父の
気持ちに少し似ている気がする。

私の街になくて、この世界にある、
素敵なものをもっと見たい、手にしたい。
手が届きそうで届かないものに憧れていた。

承和の時代、黄色は、身分の低い者が
着る色だったという。
それを愛し、周りに集め、
時に好んで着たという帝の想い。
人は、自分には与えらないもの、
簡単には手に入れられないものに
憧れるのだろうか。

あの時、どうしても都会に住みたい! という私の願いは
今、叶えられているのかもしれない。

なのに、時々、無性に帰りたくなる。
いれば出たくなり、出れば帰りたくなる。
生まれた街は、制御できない糸で、遠くから私を操っている。

そんな私だから、未だに夢をカタチにできていない。
若くして夢を実現した伯父に比べれば、
甘ったれた決意の果てと笑われても仕方ない。
けれど、まだ、諦めるのは早い。
強く想うことは、叶うと信じていたい。

真夏の陽射しに焼かれても咲くひまわりのように、
目標から、目を離さないように、
眩しい太陽をまっすぐ見つめ続けていよう。

見える色、見えない色。

「どんな薄い紙にも、表と裏がある」。
父は酒に酔うと、よくそう言った。

裏色は、深く渋い青色。
江戸時代中頃より、
夜具や衣服の裏地に使われる色ということから
この名がついたのだという。

先日、紅葉狩りに出かけた折に、
遠くに眺める山々がこの色だった。
人の目を惹く鮮やかな紅葉を表色とするなら、
これは裏色かな?
と、やわらかな稜線を描く裏色の景色を愉しんだ。

四季折々に木々の色は変わるけれど、
勝手に裏色と決めた、
濃淡美しい遠い山々の景色は、
鮮やかさこそないけれど、
やさしく懐かしい色合いだった。

小学一年の時、書き初め展に
応募したことがある。
出品作は、
ザラザラとにじんだ文字になってしまい、
参加賞で返ってきた。
「これは紙のウラですよ」と
達筆な朱い文字で書かれたコメント。
父の言う通り、
薄い紙にも確かに表裏があることを学んだのだった。

紙業を生業にしていたわけではないのに、
父はなぜ、あんなにも紙の表裏について話していたのだろう。

自営業だった父には、
公私共に仲良くつきあう人がいた。
とりわけ剽軽なAさんのことは、
楽しい友人として信頼し、
会う時間を楽しみにしていたようだった。

その日も、仕事の話が終わった後、
母も私も同席して、
Aさんの身振り手振りを加えた楽しい話に
大笑いしていた。
いつもいつも大笑いさせられることに、
母がポロリと
「Aさんには苦がないみたい」
と言った時だった。
一瞬、普段見せたことのない暗い色が
Aさんの表情に差すのを見た。

Aさんが帰った後、父が
「ああ見えて、色々悩んだり、気を遣っとるんだ。
 あんなこと言うてやるな」
と母を戒めた。

その後、父が急逝し、事業の片付けの折に、
Aさんとは色々あって関係がこじれてしまい、
疎遠になってしまった。

私は、そんな風になってしまったことに、
あの日の母の言葉が、Aさんの心の
とても敏感な部分に突き刺さったことも
一つの要因ではなかったかと思っている。

誰にでも見せる表の色と、
ひっそりと隠し持っている裏の色。
見せなくても、そんな色があることを知って、
その人に接することと、知ろうともせずに
つきあうとでは、関わりに大きな違いがある。

父は、紙にたとえてそんなことも教えてくれていたのでは
ないかと思う。

人の裏側を見抜くことは難しい。
裏側ばかり見ようとするのも、はしたない。
けれど、「ある」と知っておくこと。
そうすれば表面だけで決めつけたり、
過信したり、貶めたりすることなく、
人付き合いを、深く味わいのあるものに
するような気がする。

山の裏側というものがあるのかどうか
知らないけれど、あると思うと、
景色も厚みが感じられる。
見えない景色に思いを馳せられる。

限りなく広がっていく山々の眺めは、
見えない人の心であり、
未知なる繋がりであり、
まだ見ぬ未来の景色でもある。

裏色という色の存在は、
目に見えない色を思うことの
難しさと楽しさを教えて、
どこまでも広がっている。

「親父の一番長い日」のいろ。

黄蘗色(きはだいろ)。
ミカン科キハダの樹皮で染めた
鮮やかな黄色。

幼稚園の帽子も、こんな色だった。
帰り道、ころんだり、通せんぼされたら、
すぐに泣いた私は、
工場にいる父のもとに駆け寄ったものだった。

父は、仕方なさそうに笑って
「泣きゃあでもええ(泣かなくてよい=泣くな)」と、
帽子をかぶったままの頭をなでてくれた。
私の帽子は、父の手についていた機械油の黒色が
染み付いて、名札よりも
その黒色を帽子を探す目印にしていた。

泣き虫だった私は、
いくつになっても、父に
「泣きゃあでもええ」と慰められる娘だった。

いくつもの季節を経て、
泣き虫は少し強くなって、
結婚することになった。

特にこだわりもなく、
身の丈にあったプランで
式の一切を決めてしまった。

驚いたのは両親である。
娘が嫁ぐ日のために
ずっと積立金をしてくれていて、
そこで借りた花嫁衣裳を着せるつもりだったのだ。

それならば、お色直しの着物だけでも!
と、式前日に列車に三時間以上も揺られ、
持ってきてくれた。

黄蘗色の地色に、
牡丹と桜の鮮やかな刺繍が
施された着物と、
目の覚めるような色の帯や小物。

それを見た時、両親は両親なりに
娘の結婚への夢のようなものがあったのだと
気づかされ、申し訳なく、ありがたい想いで
いっぱいになった。

式当日は、お色直しをして、
父と入場することになった。
会場の入り口で、黄蘗色の着物を着た私に
父は、少し困ったような顔で
「馬子にも衣装だ」と笑った。

黄色い帽子と、機械油の黒。
その二つの色は、
花嫁とその父の衣裳の色になって
披露宴会場に入っていった。
そして、黄色い着物の娘は
父の手によって、
黒い礼装の新郎へと託された。

式の最後の花束贈呈では、
花嫁の父は泣くだろうと
何人かが、父にカメラを向けた。
が、口を真一文字に結んだ父は、
その人たち一人ひとりに、
高々とピースサインをきめていた。
きっと、心の中で自分に
「泣きゃあでもええ、泣きゃあでもええ」
そう何度も言っていたのだと思う。

少女の頃、
遠い未来を想像して聴いた、
さだまさしさんの「親父の一番長い日」。
忘れていた、そのメロディーが
胸によみがえった日だった。

黄蘗色を産むキハダの樹皮は、
漢方薬としても用いられている。
この色を見ると、
心に薬が与えられたように
励まされ、元気づけられるのは、
両親の愛情の記憶と、
漢方の力があるのかもしれない。

春風のように包み込む色。

寒さのなかにも、
ほっ…と、ぬくもりある陽射しが
感じられるようになった。

花葉色(はなばいろ)は、
陽射しを浴びて咲く花色のような、
赤みのある黄色。
春に用いられてきた色だ。

菜の花

桃の節句が近づくと、
毎年、思い出す雛人形がある。
小学校の工作で作った
たまごの殼の人形。

卵

生卵の中身をストローで飲む!?
という驚きの経験を経て
作った雛人形は、白くてまるくて愛らしかった。

気に入って、学習机に飾っていたら、
いつまでも飾っておくとお嫁にいけなくなる…
そう言われて、あわててしまったのも
微笑ましい思い出だ。

オムライス

中学生のとき、
叔母たちと京都の清水寺へ行き、
道中の土産屋で和紙の雛人形を見つけた。
ひと目見て、心奪われた。

見れば見る程、欲しくなったが
持ち合わせの小遣いでは買えない値段だった。
「欲しい」と言えずに、
その場を離れられず、ずっと見ていた。

そんな私の懐具合も性格も
よくわかっていてくれた叔母が、
自分も買うから、と、ついでのようにして
買ってくれたのだった。

嬉しかった。
何度も何度もてのひらにのせて、
飽きることなく眺めていた。

雛人形

あの時の嬉しさは
いきいきと胸に残っていて、
思い出も人形も色褪せていない。
なので、
今も大切に毎年飾っている。

ガラスの鳥

思えば、子どもの頃、
何か欲しいとねだったり、
駄々をこねた記憶がない。

自分の意思を強く訴えたり、
誰かに何かを主張することを
苦手としていたのだ。

それはたぶん、
消極的なわがままだったかと思う。
言わないけれど、思っていることを
気づいて、察して!
ずっと心の中で、そう訴えていた気がする。

甘え下手といえるのかもしれない。
そして、自分が下手な分だけ、
他人に甘えさせてあげることも
下手だったのだと思う。

もう少し素直にいられたら、
もっと丁寧に人の気持ちに寄り添えていたら…。
人生はもっとふくよかなものに
なっていたのかもしれない。

この先、甘え上手になっていくのだろうか。

木香薔薇

健やかに育ちますように、
お嫁にいけますようにと、
雛人形を飾ってもらった少女の頃は
年々遠くなっていく。

それでも、これからも雛人形を飾る。
祈られ、与えられた、さまざまなことが
甘えることのできた証だと、わかっているから。

その記憶が、やがて誰かを
甘えさせてあげる力になると思うから。

レモン

表情のない、この雛人形も、
そこに飾るだけで、心和む。

特別に何かできなくても、
ただそこにいるだけで、
ふんわりとあたたかい花葉色の風のように
誰かをやさしく包み込むことができるのだ…
雛人形は黙ってそれを教えてくれている。

一陽来復を願う色。

冬枯れ草のような
くすんだ淡い黄色、
枯色(かれいろ)。

秋の名残りの風情漂う色として
古くから冬の衣裳の色として愛されてきた。

江戸時代には、
「花見」や「紅葉狩り」のように
冬枯れの景色を「枯れ野見」として
その色彩を楽しんだのだという。

今年の冬は、関東にも雪が降った。
白く染まる街の景色の中、
ぽつんぽつんと小さく光る、
家々の窓の灯りを見ていると
節分の日の夜を思い出した。

「鬼は~外!」と言いながら、
雪の上にぱーっとまかれた豆に見えたのだ。

子どもの頃は、
大雪で停電になることもあった。
そんな時には、
光はぬくもりであり、目印であり、
笑顔の源でもあった。

長じて中学生になると、
塾の日は懐中電灯を持たされた。
雪の夜の帰り道、
自分の存在を光で示して、
事故に遭わぬようにと。

吹雪く時はもちろん、
そうでない時も、
恥ずかしがることなく、
懐中電灯を点けて帰った。

車に、人に、用心して雪道を歩く。
狭い道が多く、すれ違う車が怖くて
家の前まで来ると、
ほっとしたものだった。

少し帰りが遅れると、
父か母、どちらかが、
いつも家の外に出て、
心配そうに立っていてくれた。

その姿を照らすと、
心配そうに怒っていたり、
安心した笑顔を見せてくれたり。
時間によって、状況によって、
「おかえり」の言葉が
固かったり、やわらかかったり…。
予想できない両親の気持ちに、
いつも少し緊張した。

今ならわかる。
子どもが帰ってきた
電灯が少しずつ大きくなるときの
父の、母の、嬉しさを。
待つ時間の心配を、苛立ちを、
安堵感を。

暗い中で、光は冴えて、
寒い中でこそ、ぬくもりが、
身に、心にしみる。

夜道を灯りで照らしながら、
寒さに身を縮めながら、
家へと急ぐとき。
家について、ほっとするとき。

塾で教わること以上に大切な、
愛情について
学んでいたような気がする。

枯色は、もの枯れて
春を待つ色。
節分の豆を
てのひらで遊ばせていると、
春の花を咲かせる種にも見える。

冬が去り春を来ることを
「一陽来復(いちようらいふく)」という。
節分の豆をまき、
立春を迎えたら、
ゆっくりと確実に春が近づいてくる。

その足音に耳を澄ませながら、
二度と戻らない今年の冬の日々も
いつかあたたかい思い出になるよう、
大切に過ごそうと思う。