そっと隠して、抱く色。

懐かしい人が、
いつも、自分のことを大切に思って、
見守っていてくれている…。

心配性で臆病な私は、その気配に、
何度なく深い安心感を与えられてきた。

裏葉色(うらはいろ)は、渋くくすんだ薄い緑色。
葉の表側のように、濃い緑色ではないけれど、
控えめで優しい、裏側の色として、
平安時代から愛されてきた色だ。

かねてから闘病中であった、
親しい方が亡くなった。
六十代後半だった。
いつも穏やかで優しく、
誠実なお人柄も尊敬していた。

葬儀場には、
思い出の写真や愛用品が置かれていた。
十年ほど前の、キャンプ場での写真。
奥様と、三人の子供たちに囲まれて、
渓流釣りをし、釣果を手にして、
微笑まれている。

また会えると思っていた笑顔、
その健やかなシーンを、
思いがけない形で見ることになり、
胸に痛みが走った。

いつも明るいご家族の
悲しみにくれるご様子にも、
涙が止まらなかった。

告別式が終わり、
ロビーに移動するときに、
「ナナフシモドキだ!」
と、声が聞こえた。

故人のご家族が、
斎場の大きな窓に指をあてて
「キャンプに行ったとき、パパが教えてくれたね」
「細くて、背が高くて、パパに似てる」
「パパなのかも」
そんな会話が交わされていた。

あたりにいた私たちもいっしょに
ひととき笑顔になって、
ナナフシモドキを見つめていた。

足や頭をユーモラスに動かして、
本当に挨拶でもされているようで、
笑いながら、涙がにじんだ。

大切な人を亡くしたとき、
悲しみの底に突き落とされる。
どうしていいのか、わからなくなる。

それでも、大切な人が遺してくれた言葉や、
笑顔が、沈む心に灯りを点し、慰めを与えてくれる。

「だいじょうぶ、何とかなる。あわてるな」。
家族が困った時の、故人のお言葉だったという。

力強い言葉、やさしさ、ぬくもり。
亡くなった人の思い出は、
なにげない暮らしの中に、
立ち現れて、
その都度、悲しみも蘇る。

悲しみはずっと消えない。
慣れていくしかない。

けれど、
その悲しみがどんなに深くても、
時は止まらない。
知らん顔をして、
四季折々の風が吹く。

だから、泣いてばかりもいられない。
泣きそうな自分に、
思いと違う仮面を当てながら、
のり切らなければならない時もある。

そうして、
目の前のことに追われていくうちに、
つらい思いもゆっくりと均されていく。

ただ、心の裏側には、
正直な気持ちがそのままにある。
ふとしたきっかけで
涙が出てくることもある。
でもそれは、弱いということではないと思う。

太陽の光をいっぱいに浴びて、
輝くような葉の美しさ。
その裏側にひっそりと隠し持つ、
悲しみ、思い出、やりきれなさ。

裏葉色は、そんな人の心の持つ
やわらかで、傷つきやすい
そっと扱ってあげたい想いを
映す色に思われる。

亡くなった人は、
きっと、笑いながら、
時に心配そうに、家族を
やさしく見つめ、いつも守ってくれている。

会えなくなっても、
やがて、空に、風に、
その存在を感じられるようになる。
草や虫や、雨や青空、夏の太陽の眩しさに、
思い出を見つけられる。

その気配に励まされ、
生きていく者は、
大切な人がいなくなった世界も、
ゆっくりと
力を取り戻し、前に進む。

手にした光を、離さないで。

一年半ぶりに、
バックナンバーのライブに出かけた。
会場は感染対策がとられ、
いつもより静かで緊張感のある空間。

晒柿(されがき)は、
黄みが強く、渋い橙色。
木から落ちないまま熟し、
木晒しとなった柿の色だ。

ライブ開催が決定したのは、
昨年の十一月。
コロナ感染者は増えていて、
実現するのか不安なまま、
二月初めの開催日を申し込んでいた。

ところが、緊急事態宣言により、
六月に延期。
その六月も無事開催されるかわからず、
ただ、静かに待つことにした。

ライブに行ける!

その想いは、高いところになる、
柿の実に思われた。

見上げる木の、
手の届かないところに晒されたまま、
じっと、そこにあり続けた。

期待しないように。
怒りの感情を持たないように。
そんな気持ちで過ごした。

やがて、
ライブ前のドキドキも忘れていて、
始まる前のウキウキとした空気も
奥深くにしまって
表立って見せないようにするのが普通になっていた。

それで、
当日、ライブ会場に入っても
実感が湧かなかった。

フロアも静かに、みんな、すぐに着席。
座席は、ひと席ずつ開けて座り、
友人や恋人と来た人たちも、
離れた席から、手を振って言葉なく
会話をしている。

どんなライブになるのだろう。
不安の中、いつもと違う心持ちで待つ。

やがて、
館内に流れていた音楽のボリュームが
一気に上がって、暗くなる。

──── いよいよ始まる。

みんな一斉に立ち上がり、
アーティストがステージに上がるのを待つ。
登場とともに、いつもなら大歓声が上がるところ、
拍手で迎える。
みんな、心をこめて強く、大きく、手を叩く。

この時になって、初めて
「あ、来てよかった!」と
急いで心がついてきた。

マイクを通して、第一声が聴こえる。

最初の曲は、
「なかなか会えない日々が
 続いてはいるけれど
 次の休みには会いに行くから…」。

あぁ、これだ!!

そう思うと、全身の血が生き生きと
通い始めた。
温められた心から、
溶け出すように涙があふれてきた。

一音だって、聴き逃したくない!
と、耳を、心を、研ぎ澄ました。
喜びが次から次に、
音楽に乗って溢れ出した。

前列のチャキチャキのお姉さんも、
ひとつ席を開けた隣のふわふわドレスのお姉さんも、
あちこちで、感激の涙をぬぐっているのがわかった。

晒されていた柿の実が、
甘く色づいて、ぽとんぽとんと
落ちる音がする…。

みんな、会いたかったんだ。

ツアー中にクラスターになってはいけない。
メンバーもスタッフも、感染してはいけない。
さまざまな制約やプレッシャーの中で
明日が最終日、という日まで走り続けてくれた。

ありがとう。
その言葉が繰り返し繰り返し、
胸に浮かんで、その度に泣いていた。

無理してライブに行かなくてもいいじゃないか。
ライブがなくても、生きていけるだろう。
そんなふうに思う日もあったけれど。

大切に思っていたもので、
なくしていいものなんか、なかったのだ。
一つ一つが、かけがえのない
私の一部であり、生きるエネルギーだから。

大好きな歌声が、
その人の今の声が、
直接耳に伝わってくる。

ただ、ここに在ることが嬉しくて。
私も、あの人たちも、この世界の人たちみんな。
「在ること」が、幸せのための大切なものなのだ。

かつて味わえたもの全てが、
すぐに取り戻せるとは思わらないけれど。
少しずつでも、取り戻したい。
手にすることができたらなら、
前よりも大切にしたい。

心からそう思った一時間半だった。

ライブが終わって、
会場から夜の街に飛び出す人たちは、
ゆるい下り坂をキラキラとコロコロと転がる、
美しい珠。

また、きっと…。
喜びに輝いて、あちこちに飛び散っていった。